30 令嬢、王子と婚約する
「ドラン、大きくなったね」
別棟の奥庭に建つ獣舎で、二十歳になったニナはドランの体を洗いながら話しかけた。獣舎が完成したばかりの頃は広いと感じたけれど、あの頃の二倍の大きさになった今のドランには少々、狭そうだ。
成長した体を洗うのも一苦労だが、石けんを嫌がって逃げ出そうとした頃とは違い、ドランは洗われている間じっと身を縮めて我慢している。
(成長したなあ)
しみじみと嬉しくなる一方で、別れの時が近いと身にしみてわかり、胸の中がぎゅうっと締め付けられるように苦しくなった。
「そろそろかな」と一緒に世話をしている保護施設の職員たちから切り出されたのは、つい先日の事だ。
「体もずいぶんと大きくなったし、野に戻す訓練もおおかた終わった。そろそろ独り立ちの時期だ。北方の地へ送る手続きを始めようと思う。ニナさんも寂しいと思うけど覚悟を決めておいて欲しい」
わかっている。ドランにとって、その方がいいのだ。ちゃんと、わかっている。
心がえぐられそうな寂しさを押し込めて、ドランとの別れの時は笑っていようと、そう心に決めた。
「終わったよ、ドラン」
最後に水できれいに洗い流して声をかけると、ドランは体をぶるぶると大きく振って水滴を飛ばし、やれやれといった感じで獣舎の奥にある寝床へと歩いて行った。
「レッドドラゴンは人間にはなつかないのに、どうしてニナさんの匂いには反応するのかな?」
前に、職員たちに不思議そうに聞かれた事がある。
「私、ドランと体が入れ替わった事があるんです。だからドランは私の匂いを自分の匂いだと思っているんですよ」
「ええ? ニナさん、冗談が下手だなあ」
真面目に答えたけれど、腹を抱えて笑われただけだった。
ドラゴンから人間の姿に戻り実家から帰ってきてからずっと、ニナはドランの世話、兼教育係としてこの別棟にいる。
表向きは職員たちの補佐という事になっているが、実のところドランにさわれるのはニナだけだ。職員たちが直接さわろうとすると機嫌しだいで吠えて暴れる事がある。ゆえにニナが世話をし、職員たちが教育と訓練面を担当するという流れが、いつの間にか定着した。
「ドラゴンは王子になついていたのではなかったか」という疑問の声もちらほら上がったが、アスランが俺に任せろというので任せていたら、そのうちぱったりと止んでいた。何て言ったの? とニナが聞いても笑うだけで教えてくれなかった。怖い。
ニナの家族は娘が危険なドラゴンに近付くことを渋っていたが、ニナ自身が大丈夫だと言った事とアスランが「決して危ない目にはあわせません」と、わざわざニナの実家に出向いて説明した事で渋々ながら認めてくれた。家族は心が病んでいたニナを元に戻した――と思っている――アスランを心から信頼している。
第二王位継承者であるアスランもそのまま別棟に住み、もちろん第二王子付の騎士隊員たちもそのままだ。ニナにとっては、あの頃から変わらない環境ではある。
「じゃあ、ドラン。また来るね」
獣舎に鍵をかけて食堂へ向かうと、真っ白なテーブルクロスのかかったテーブルには二人分の昼食が用意されていて、すでにアスランが座っていた。ニナを見つけたアスランが微笑む。
(相変わらず破壊力抜群の笑顔だな)
思わず視線をそらせながらニナは席についた。
二十四歳になったアスランは相変わらず優しくて、相変わらず格好いい。微笑むと、少し大人びた頬の線から色気が立ちのぼるようで、ドラゴンだった時には見とれていたのに今では目をそらせてしまう程だ。
メイドが湯気のたつスープを運んでくる。
環境も人もあの頃と変わらないが、状況は大きく変わった。
「ドランの様子は変わりないか?」
「うん、いつも通り元気だよ。朝ご飯の鶏肉も完食したし。石けんで洗っても泡だらけでじっと我慢してるもの。アスラン殿下」
まともに顔を見られないまま何げなく答えてハッとした。急いで顔をあげるとアスランが例の優雅な笑みを浮かべていた。とても怖い。
「……アスラン」
小さな声で言い換えると、アスランが嬉しそうに笑った。
「うん。そう呼んでくれ。何しろ婚約したんだから」
不覚にもニナは真っ赤になってうつむいた。
ニナはアスランの婚約者になった。
といっても婚約してまだ間もないし、自分相手に敬語を使わないでくれとアスランから頼まれて、やっと普通に話せるようになったところだ。
実はドランの世話係として働き始めた頃に、すでにプロポーズされていた。アスランは耳まで真っ赤になっていたし、ニナにいたっては耳どころか頭の中まで真っ赤になって体から火を噴きそうだった。
もちろん何度も何度も体中でうなずきながら了承したが、ニナの身分は下級貴族である子爵の娘だ。国王や第一王子は賛成してくれたものの「城内でドラゴンの世話だけなら良いが結婚相手となると」と反対する重鎮や上級貴族もいて、アスランが静かに怒りながら説得を続けていたのである。
忘れもしない今日からちょうど六十日前、ニナはアスランに呼ばれた。
「話があるんだ。執務室まで来てくれないか」
中ではアスランが緊張したような面持ちで机の上で両手を組んでいた。ただよう不穏な空気に、ニナは途端に不安が込み上げたものだ。
(何だろう。悪い予感がする)
「呼び出してすまない。話があるんだ」
重々しい口調に、息を呑む。
(ドランに関する悪い話? それとも重鎮たちの反対が手に負えないくらいひどくて、私がここにいられなくなるとか?)
瞬間的に頭の中に描いた暗い想像図はとてもリアルで、途端に気が気ではなくなった。そして、そのせいでアスランの言葉を聞き逃してしまった。
「――ニナ、聞いていたか?」
不審そうな声にハッと我に返る。
「え? えっと……ごめん。聞いてなかった」
嘘だろう、と言いたげにアスランの顔がゆがむ。
何をしているんだ、私。ニナは焦った。壁があったらバカな自分の額を思いきり打ち付けている。泣きたい気持ちで身を乗り出すと、アスランがうつむき片手で銀髪をグシャグシャとかき回し始めた。
どうしよう。アスランが怒っているではないか。
「ごめんなさい、聞いてなくて! もう一度お願い!」
今度こそ決して一字一句聞きもらすまい。必死に頼み込むと、アスランがゆっくりと顔を上げた。
その顔はかすかに赤くなっていた。
「本当に君は俺の余裕をなくす……」
予想もしていなかった態度にぽかんとなるニナに、めずらしく拗ねたような視線を向けながらアスランがもう一度口を開いた。
「反対していた重鎮たちをやっと説得できたんだ。ニナの実家にも近日中に城からの遣いが行く。俺も改めてあいさつに行くよ」
ますます、ぽかんだ。けれど、これはもしかして――。
「ずいぶん待たせてしまって、すまない」
婚約が決まったと、そういう事だ。
現実味がなさ過ぎて言葉が出てこない。だって夢みたいだ。これ以上ないほど幸せな夢。
頬をぎゅうっと引っ張って、ちゃんと現実かを確かめるニナを見てアスランがふき出した。おかしな姿におかしなドラゴンが重なったようだ。
ちゃんと現実かを確認する間、アスランは黙って待ってくれていた。
「反対していた重鎮たちを、どうやって説得したの……?」
あの見るからに頑固で、実際に隊長以上の頑固な重鎮たちを。
「もしドラゴンをなつかせる唯一の人物が他国へ出て行かれたら、この国にとって大きな痛手になる。隣国アストリアの例もあるしね。しかし俺と結婚したら君はずっとこの国にいる、大きな宝だと言った。それが一つで、後はまあ色々かな」
「色々」の方がきっと比重が大きいのだろうと優雅な笑みを見て、そう悟った。そしてこれ以上は聞かない方が良い事も。それでも――。
ニナは両手で頬をおおった。素直な喜びがこれでもか、これでもかと込み上げてくる。
「ありがとう。すごく嬉しい」
ニナが満面の笑みを向けると、アスランは軽く目を見開いて、それから、ふわりと笑った。
「俺の成果じゃないよ。ニナがずっとドランの世話を頑張っていたからだ。だから認められた。ニナのおかげだ」
おだやかな口調には確かな本心が込められているのがわかった。ニナの頑張りを心から認めて尊重してくれている。「ああ、大事な人だな」と改めて思った。ドラゴンだった時からずっと変わらない。
「落ち着くんだ、ニナといると。心が安らぐというのかな。ゆったりとした気持ちでいられる。俺はそれが、すごく心地いい」
「うん……」
心が一杯で言葉が出てこない。うなずくだけで精一杯だ。恥ずかしくてアスランの顔がまともに見られず、視線がさまよった。どうしよう。きっと変な顔をしているに違いない。
そっと頬にふれられてニナは飛び上がりそうになった。大げさ過ぎる反応にアスランが目を見開き、愛おしい者を見るように微笑む。
何だその笑顔は、反則じゃないかとパニックになるニナの前で、ふとアスランが真面目な顔になった。
「一つ頼みがあるんだ。現在、俺の妻はドランという事になっている。このままでは重婚だ。代理人としてドランに別れの意志を伝えてもらえないか?」
(そうだった)
もちろんドランの方にも異論などないだろう。
獣舎にアスラン含め、ニナ以外の者が顔を見せても興味なさそうに顔をそむけるだけだ。そこらに生えているタンポポの方がよっぽどドランの気を引ける。
思わず笑ってしまったニナに
「笑うなんてひどいな。あの時はニナを助けるためだったのに」
アスランが心外そうに口をとがらせた。最近はこういう、今まで見た事のなかったような仕草も見られるようになった。それがとても嬉しい。
幸せそうに笑うニナの頬をアスランが愛おしそうに両手で包み込んだ。ニナは再び飛び上がりそうになるのを、すんでのところで抑えた。「よくやった、自分」である。もちろん心臓の鼓動は今にも止まりそうなくらい早いし、全身なんてプルプルと細かく震えているけれど。
「ニナはすごく悩んだだろうけど、ドラゴンになってくれて良かった。こうして出会えたから」
さらに反則な事に、深い青い目が一途に見つめてくる。
動揺から、プルプルどころかガタガタと音をたてて震えそうな全身をニナは必死で抑えながら、改めて不思議な目だなと思った。
この青い目に見つめられると、自分の顔が赤かろうが、全身が病的なくらい震えていようが、変な顔になっていようが別にいいのだと、そのままの自分でいいのだと、そう言ってもらえているような気になるのだ。
「――うん。良かった」
全身から余分な力が抜けた。大変な事は色々あったがドラゴンになって本当に良かったと、心の底から笑ってうなずいた。




