21 ドラゴン、薬が苦い
城の別棟へと戻ってきたニナは、いつものようにお気に入りの白いエプロンを身に着けて掃除をしていた。
「腕の良い医者や祭司、魔術師たちを城から連れてくるんだ。ドラ――ニナとドラゴンを元に戻す」
とのアスランの命により、今日の午後には医者や祭司たちがこの別棟にやって来る。
(いよいよ元の体に戻るんだ。頑張らないと)
覚悟を決めたが、それまで特にやる事のないニナは辺りを見回して、とりあえず玄関ホールをきれいにする事にしたのだ。
飾られている絵画や壺のほこりをはらい、布できれいに拭く。一抱えもあるほどの高価そうな壺を抱えて、息を吹きかけながらキュッキュと音をたててみがいた。
最初の内は長い爪が邪魔でよく物を落としてしまったが、いつの間にか爪の扱いにも慣れてきた。
無心にみがいていて、ふと顔を上げると、玄関ホールの壁に吊るされた大きな鏡に映る自分の姿が目に入った。床に座り背中を丸めて両手で壺を抱え込む、エプロン姿のドラゴン。
思わず「ギシャ」と目を細めると、鏡の中のドラゴンもニヤリと笑った。
どうしよう。この姿に違和感がなくなってきたではないか。
ちょっと焦っていると
「ドラン! 助けてくれ、ドラン!」
金髪ルークの叫び声が玄関ホール一杯に響いて、ニナは驚きのあまり壺を落としそうになった。「ギャギャ!?」と慌てて壺を両手で受け止め、ホッと息をつく。
そして慌ててルークの元へと走った。
ルークは黒髪トウマや他の騎士隊員たちと台所にいた。
「おい、やめろって! 頼むから!」
彼らが遠巻きに、けれど必死になだめる先にはドラゴン令嬢がいた。
棚から手当たり次第に引きずり出したのか、令嬢の足元には食べかけの食品や調味料の入った器が散乱している。
そして令嬢は小さな壺を抱えて、幸せそうに中のはちみつをなめていた。
顔も服もはちみつだけでなく、つまみ食いをしたバターのかけらやらパンくずやらがくっついていて悲惨な状態だ。
騎士コンビたちは止めたいのはもちろんなのだが、見た目が普通の令嬢なので力ずくで押さえるわけにもいかず、かといって軽くつかんだだけでは暴れられるしで、どうしていいのかわからず助けを求める目でニナを見てくる。
「ギシャギ」
そんな事をしてはダメ、と令嬢の肩に手を置くと「シャー!」と爪で引っかかれた。
もちろんドラゴンの分厚い皮膚では痛くもかゆくもないが、令嬢ははちみつの入った壺を取られないようにしっかりと胸の中に抱え込み、ニナをにらみつけてくる。らんらんと輝く目には殺気すらただよっている。怖い。
ニナたちが入れ替わっている事を知らない騎士隊員たちは、心底気味悪そうな顔で令嬢を見ている。
ニナは焦った。家族もそうだが、このままでは元に戻った時が大変である。
「ギシャギ!」
さっきより強めに両腕をつかんで動きを止めると、怒った令嬢が暴れながら噛みつこうとして口を大きく開けた。
「ギャギャ!!」
「シャー!!」
遠慮なく暴れる令嬢と、それをなだめているように見える凶暴なドラゴンという理解できない光景に「何なんだよ、これ」というように顔をゆがめた隊員たちがさらに離れていく。
ニナは力づくでハチミツの入った壺を奪った。この前のタンポポや雑草といい、放っとくと令嬢は何でも満足するまで食べてしまう。ニナの体なのだ。元に戻った時、病気にでもなっていたらと考えると怖ろしい。
怒りの形相でしっぽに噛みついてくる令嬢をよそに、皿にはちみつを少量取り分けて机に置いた。
「ギシャ!」
壺を背中に隠して皿を指で差し示すと、本来単純なドラゴン令嬢はきょとんとした顔で辺りをきょろきょろと見回した後、おとなしく皿のはちみつをなめ始めた。幸せそうだ。
ニナが急いで壺を、令嬢の手の届かない上の棚にしまっていると
「助かったよ、ドラン」
騎士コンビがホッとしたように笑った。他の隊員たちも安心したように肩を下ろして、そして凶暴なドラゴンがすぐ近くにいた事に気付いたようで、ギョッとしたように慌てて逃げて行った。
「ドランは安全なのに」
「そうそう。そこの令嬢よりもよっぽどな」
はちみつがなくなっても、まだ皿をなめ回している令嬢をちょっと薄気味悪そうに見つめながら、騎士コンビが言った。
「それにしても、まさかドランとその令嬢の中身が入れ替わっていたなんてな」
騎士コンビには入れ替わりの事を告げたのだ。他の隊員たちには、これから来る医者や祭司の意見を聞いてからという事になったので、今のところ入れ替わりを知っているのはアスランと隊長、副隊長、そして騎士コンビだけだ。
『黙っていて、ごめんなさい』とすみに立てかけてあった木板に時間をかけて刻むと、さらに時間をかけて判読した騎士コンビが顔を見合わせて苦笑した。
「確かに驚いたけど……何か納得した」
「ああ。というより、むしろ入れ替わりなんてしていなくて、ドランの中身がそのままドラゴンで、あの令嬢の中身が令嬢ですって言われた方が驚いたかも」
騎士コンビは、皿をきれいになめ終わり、もっとよこせと言うように「シャー!」とうなる令嬢と、しっぽをパタパタと動かしてその動きで見事に令嬢の気をそらせているドラゴンとを見比べて言った。
「精巧なドラゴンの着ぐるみを着た人間じゃないかと思った事があったけど、ある意味その通りだったんだな」
* * *
午後になり、ニナたちの待つ応接室に、まずやって来たのは医者だった。足首まである白いローブを身につけた老年の医者は、修道士も兼任しているという。
アスランの説明を聞き、その隣で膝の上に両手をおいて緊張した面持ちで椅子に座るドラゴンと、落ち着きなく室内をウロウロする令嬢とを見て戸惑った様子だったが、何しろ診察をしようとすると令嬢が暴れるのだ。
やがて傷だらけになった医者が、言いにくそうに言葉をつむいだ。
「失礼ですが、心の病ではないですかな。衝撃的な事が起こると、人は心が壊れてしまわないように、まず心にふたをします。そして、そのふたに合った都合の良い解釈を頭の中で作り出すのです。ニナ嬢は中身がドラゴンと入れ替わったと思い込んでいると考えられます」
「ギシャー……」
ニナはうめいた。信じてもらう事は難しいとわかってはいたけれど。
医者の前で木板に文字を刻んでみたが、医者の自分の見立てに少しの疑いを持たない表情に変化はない。
普通はそうだよねと重くなる気持ちを振り払い、ニナは改めてすぐに信じてくれたアスランたちに感謝した。
医者がカバンから紙に包まれた煎じ薬を取り出した。
「鎮静薬です。気分が落ち着きますので、まずはこれを」
充分落ち着いているのだが、せっかくだからとニナは薬を飲む事にした。茶色い粉末には独特な匂いがあり、興味深そうに顔を近づけたドラゴン令嬢が途端に嫌そうに顔をしかめる。
けれど、もしかしたら、もしかしたらこれで元に戻れはしなくとも、きっかけくらいにはなるかもしれない。
ニナは台所へと走り、持ってきたはちみつに薬を混ぜて令嬢に差し出した。もちろん単純なドラゴン令嬢は顔を輝かせて嬉しそうになめ始める。
ニナも鼻をつまんでザラザラーと一気に薬を流しこんだ。
途端に
「ギシャー!?」
「シャー!?」
ドラゴンと令嬢は同時に吠えた。
沈静薬は苦かった。苦過ぎだ。
令嬢が医者の前でゲーゲーと遠慮なく薬を吐く。はちみつに混ぜても苦いのだから、直接飲んだニナの苦さは一際である。舌がピリピリして口の中の感覚がない。
これは鎮静薬ではない。断じて、ない。鎮静するどころか活性化するではないか。
(もしかして、あまりの苦さに悶絶して、その後ほうけたように無の境地に陥るって事? それで「鎮静」薬!?)
あまりの苦さにどうでも良い事が頭の中を駆けめぐり、ニナはブンブンと両手を振り回しながら、涙目で口を大きく開けて「ギシャー……」と、もだえた。
やがて薬を吐き尽くしたらしいドラゴン令嬢が「シャー!」と医者にとびかかった。何てものを食わせるんだ、と怒りの形相だ。
もっとも食べさせたのはニナだけれど。
「ギシャ!」
「待て、やめるんだ!」
ニナとアスランは令嬢に同時に手を伸ばした。
が、アスランの手は令嬢のどこをつかんでいいのかと戸惑ったように途中で動きが止まってしまった。
ニナが後ろから腕一本で止める。中身がドラゴンといえど姿は非力な令嬢だ。簡単に動きが封じ込められた。
腕の中で必死にもがく令嬢は、当たり前だけれどドラゴンと比べるとずいぶんと小さい。
ニナがいつも見下ろしているアスランよりも小さいのだと思い、驚いた。
その隣ではアスランが何か考える様子で、途中で止めた手をゆっくりと握りしめていた。
そして今まで見てきたニナの内面を確かめるように、ニナの顔をじっと見つめた。きょとんと見返すドラゴンに青い目で笑いかけてから令嬢に視線をやる。
二人が入れ替わっている事を改めて確認するかのように、バサバサになってはいるが令嬢の長く細い髪や、まだらに焼けてしまったが白く柔らかそうな頬や腕を見て、つぶやいた。
「早く元に戻さないと。騎士隊員たち――他の男がふれる前に」
意味がわからず目をぱちくりさせるニナに、アスランが何でもないよと言うように、にっこりと笑った。




