愛するあなたに祝福と恩寵を
炎に照らされた大理石の床のまだら模様がグニャリと歪み、まるで水の渦のように円を描いて流れ始める。
円の中心にあたる部分にあるのは人ひとりがすっぽり入る大きさの氷の卵。炎上する広間のただ中にあるというのにその表面は真っ白な霜で覆われていた。
と、その表面に亀裂が入った。
キン…キン……と氷が軋む音を立てながら水晶の結晶のような氷の棘が次々と突き出して、卵型が崩れる。
部屋中に広がった炎が、天井を伝って火の粉を降らせ、氷の結晶の表面の霜が剥離していく。
次の瞬間。氷の結晶は爆散して、周囲の炎を吹き払った。
流水と氷雪のドレスをまとった私は、真っ直ぐに背筋を伸ばして広間の中央に向き直り、すべてを焼き滅ぼそうとしている金色の焔の根源に正対した。
大理石は冷たく硬いまま、平らな表面が水のように渦を巻いていたが、その流れを変えて私と彼の間に道を作った。“道”の部分を除いた広間のすべての床からは鋭い棘のような大きな石筍と水晶の結晶が突き出し、焼けて崩れかけた天井は凍結して、床からの石の棘と交差するように無数の巨大なツララが垂れ下がった。
“道”の向こう端に立つ相手は、その身を焼くことのない金の炎に包まれて、静かにこちらを見ていたが、おもむろに、まるで召使に指示を出すかのように片手を軽く振った。その合図で、氷と石の道の両端に炎が奔った。
ランウェイのように照らし出された炎と氷の回廊を、私は真っ直ぐに歩いていった。
近づいていく一足ごとに、彼の様子がよく見て取れるようになった。
私は彼という存在をレッテルを貼ることなく見ようと思った。救国の英雄、亡国の簒奪王、カサンドラを愛さなかった夫。日輪を喰らう獅子レオニダス。それらすべてのレッテルを取り去った、一人の男のことを、私はこれまできちんと見ていなかったことに気づいたからだ。
炎の中の彼は黒い杖を持っていないにもかかわらず、真っ直ぐに立っていた。彼の脚を支えていた補助具が焔の中で柔らかく歪んで剥がれ落ちる。切り裂かれた上着の間から覗いていた金属板付きのコルセットも、本来の硬さを失いハラハラと薄片に分離して溶け落ちていく。黒杖で身体を支えやすくするための左腕の小手もまた火焔模様の彫金がそのまま炎と化して消えた。
私が、悪役っぽく見えるように飾り立てた虚飾が、現実のものではない炎によって焼き払われていく。
炎の中に佇むのは、カサンドラが愛し、カサンドラを愛した男だった。
宙を舞う火の粉が煌めくのに合わせて記憶が湧き上がる。
素っ気なさの合間にのぞく気遣い。ためらいがちなぶっきらぼうな謝罪。ときおり見せたはにかんだ笑顔。冷たい態度の底の激情。目眩がするほどの熱い抱擁。
思い出の奔流と情熱の火が彼のもとに向かう私を掻き乱す。
炎の中からこちらを見ている彼が柔らかく微笑む。
どうしようもなく孤独で、どうしようもなく優しかった人。激しく私を求めて、自分の子供が生まれるということを誰よりも喜んだ……愛に飢えた人。
サイゴニアエテ、ヨカッタ
その瞳は破滅に魅入られた金色の狂気。
アナタガイテクレタナラ、サミシクナイ
私はその閉ざされた奥底にあの人の魂を見いだした。
そこにいたのね。
私は最後の数歩をほとんど飛ぶように駆け寄った。大きく跳躍した私が眼前に迫ったとき、見開かれた彼の目の瞳孔が突然正気に戻った。彼は"私"がそこにいることに気づいた。
「シノブさん」
私は彼を力一杯張り倒した。
「レイ、てめぇ、ふざけんな。誰が2度も葬式の手配なんかしてやるもんか! いい加減にしろ」
私は激しく乱れている金色の炎に手を突っ込み、彼の胸ぐらをつかんで炎から引きずり出した。炎が剥がれた彼の姿は入院してやつれきる前の前世のそれだった。彼は戸惑って薄茶色の目を瞬かせた。
「どうして……?」
「どうしてもへったくれもあるか、ボケぇ。人にさんざん迷惑かけて」
「ご、ゴメンよ」
「人をさんざん……」
「……泣かせてしまったね」
「泣いてなんかいない」
「だったら……もう、泣いていいよ」
彼が両手でそっと私の頬に触れて、それから私の髪を額から背中へと撫で下ろすと、私を薄く覆っていた水の膜は剥がれて、私もまた元の姿になった。
精霊の水の覆いがなくなっても、私の目からはとめどなく雫が零れた。
彼は黙って私を抱きしめてくれた。
私はただひたすら泣いて、泣いて、泣いて……これまで溜まりに溜まった愚痴を全部吐き出した。
彼は私の言葉を全部ちゃんと聞いてくれた。
§§§
「これからどうしよう」
「国は潰しちゃったからね」
「そうね。いろいろぐちゃぐちゃだしね」
私達は精霊の猛威の結果、散々に荒れ果てた大広間の真ん中に、肩を寄せ合いながら座り込んでいた。
大理石と水晶のトゲトゲが乱立した中央にポッカリできた直径2mほどの円形のこの平らな場所は、周囲とは隔てられているようで、何の喧騒も伝わってこない。チラチラと輝く光の粉と細かいミストのようなものがぐるりと周囲を取り巻いている。
強い共鳴は収まったが、精霊はまだ私達と共にこの場にいるようだ。
「どうしてこんなところに来ちゃったんだろう」
「わからないけれど、強く引かれ合ったからかもしれないわね」
「そうかな……そうかも」
隣にいる彼の姿がレオニダスと二重映しになる。私自身の肩に落ちる髪も黒と銀の間を行き来している。
「どうせならこんなに手遅れで壊滅的な状況になる前に気付きたかったわ」
「二人揃って自暴自棄だったからなぁ」
私は実体が不安定な彼の肩に頭を持たせかけた。見栄えだけでなく感触も二重で不思議な感じだが、どちらもなじみがある肩だ。彼は私の頭に手を添えて、どちらとも定まらない色の髪を撫でた。
なんとなくわかる。私達の身体は本当はもうすっかりなくなっていて、これは精霊が作ってくれているこの場だけの幻想なのだろう。
精霊がくれた儚いロスタイム。
「精霊もさ、気が利かないよな」
「よくこんな状況で精霊批判ができるわね。きっと聴いてるわよ」
「人語なんてわからないだろう。奴ら望みをかなえると言いながら、こっちが頼んでもいないことを嬉々としてやりやがった」
「それはまあ、相手は人間じゃないんだから仕方がないんじゃないかしら」
「好き勝手やるだけなら、“お前の望みを叶えよう”だなんて言うなと思うぞ」
「ほぼ悪魔のセリフよね、それ」
私はクスクスと笑った。そういえばアラビアンナイトのランプの魔神もそんなことを言うのではなかっただろうか。全知全能の神ならぬ、この世界の精霊は善悪の概念から外れている。
「望みを答えていないのに、勝手にいろいろされたっていうのは、実は向こうのサービスってことはないかしら」
「サービス……加護と恩寵もそう言うと軽いな」
私はチラリと彼を見上げて、その唇に人差し指をあてた。
「ひょっとしたら、ちゃんと願いを言ったら叶えてくれるかもしれないわよ。なんだか精霊って時間の感覚が人間と違うみたいだったから、すぐに返事をしなくても有効かも」
「んー」
私達は二人でどうしたいか考えてみた。自分の力ではどうしようもないことで、奇跡を頼りたいほどのこと。
どうにも取り返しのつかないこの破滅の結末に座り込んで、ありもしない夢を語るのはなかなか楽しかった。
私達は手を繋いで精霊の円の中央に立った。
「“天地におわします……”ってあの聖殿風の口上でやる?」
「聖殿の儀式嫌いなんだよ」
「あなたはそうね」
お願いは平易な言葉ですることにした。
「精霊さん、どうせ転生させるなら、こじれて手遅れじゃない最初からやり直させてください」
つい二人とも柏手を打って手を合わせて祈ってしまってから、何をしているんだろうねと笑い合った。
やがて、周囲で煌めいていた光は次第に薄れていって、同時に私達の存在もかすれて散った。
§§§
精霊は人語を解さない。
人の想いも正しく汲んではくれない。
だから、彼と私を遥か過去に生まれ変わらせたのは、本当に精霊だったのかはわからない。
「まさか自分が建国の英雄になるとは思わなかった」
「君の活躍は僕がきちんと書き記して残すよ」
最初からって、国を作るところからとは思いっきりが良すぎるだろう! おい、責任者!!
だがまぁ、考えようによっては、この隣で他人事みたいな顔をしている彼を立派な正しい王にするというのはなかなかやりがいがあるのではないだろうか。
「では英雄殿、今後の見通しを一言」
なかなか前途多難です。
ハッピーエンドまで紆余曲折がもう一周。
でも、なんだかんだで二人は結ばれて幸せに暮らします。
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