深淵で私は私を抱きしめる
人ならざるものの笑い声を聴いた。
この世界に棲む超常の存在……精霊。
背中に昆虫の翅が生えた小人のようなかわいらしい代物ではない。本来は人の知能や精神と相容れない人知を超えた不可知のなにか。
それがレオニダスの狂気に共鳴して現実に干渉している。
お前を気に入った。お前の望みを叶えよう。
大気そのものが笑い声を上げながら、歪み、揺らぎ、チリチリと火花を散らしている。
はぜた火花に取り憑かれた哀れな供物は金色の炎に覆い尽くされ、真っ白になって焔の中でホロホロと崩れていく。
ハ! ハ! ハ!
仰け反るようにして笑うレオニダスの背後で、壁に掲げられていた日輪を喰らう獅子の紋章が炎を上げ、燃え落ちて白く崩れ去っていく。
それは己が喰らい尽くそうとした野望の炎に、獅子がその身を喰い尽くされていくように見えた。
私の黒いドレスの裾にも火花が取り付く。
パチパチと弾けながら、螺旋状に登ってくる金の火花の通ったあとは、織り柄の羽根文様が浮かび上がり、葉脈標本のように白くなっていく。
それはまるで死の花嫁のウエディングドレスで……。
不意に記憶が弾けた。
私が未婚のままだった理由。
結婚の誓いを交わす前に死によって分かたれた人。
私を遺して勝手に逝った悪い人。
私がレオニダスを“好きな悪役キャラ”扱いしかできない理由。
カサンドラと同化できない理由。
私の閉じた執着。
§§§
優しい人だった。そう思っていた。
孤独な人だった。
もうすぐ結婚式だった。
家族になろうねって約束していた。
黙っててごめんねって言われた。
もう何もかも手遅れになってから。
結婚式のための貯蓄は入院費と葬儀代に費やした。病院の手続きも付き添いも全部やった。意識がある内に通夜と葬儀の連絡が必要な相手のリストを一緒にチェックして、お別れ映像の撮影と編集も手伝った。永代供養の樹木葬がお願いできる場所を探して予約した。
看取って、葬儀場をおさえ、喪主を務め、初対面の彼の友人知人に礼を言い、火葬場から遺骨を持ち帰り、予定通り静かで雰囲気のいい霊園に弔った。
処分が必要な彼の私物はびっくりするほど少なかった。
周囲の心ない人からはバカだと言われた。
自分でも、そうかもと少し思った。
偽善者だとも言われた。
それは違うなと思った。
愛かどうかはもうわからなかった。
でも、私はあの人の家族だった。
弾けた記憶は噴き出してとめどなく降り注ぎ、一番思い出したくなかったことまで、私に突きつけた。
あの日、私は通勤電車でうずくまった。ヘルプマークは持っていなかった。病院に着くまでに破水、出血して、子供も私も助からなかった。
§§§
叫びたくて大きく息を吸い込んだ。
金色の火花が、黒衣を白い薄片に変えながら、腰から胸を這い上がり、両肩から垂れた長いレースのドレープを一気に駆け下って、広げた翼のように大きくたなびかせた。
私の心は、死の河を渡る白鳥のように長い長い悲鳴を上げたが、私の喉は誰かに届く声を発することはできなかった。
記憶と一緒に堰き止められていた涙が、深い深いところから湧き上がってきて、視界を歪ませた。私が身に着けていた水晶と真珠は、透明な水の雫に変わり、煌めきながら霧散した。
私の内から溢れる悲しみは、濃い霧となって私の周囲に渦を巻き始めた。足元から湧き上がった水は私の肌を伝い、薄い膜となって私を覆っていった。
私は蛇紋のような水の膜で覆われた両腕を大きく天に掲げたが、誰に助けを求めていいかわからなかった。
だから、私はその腕を顔の前で交差させて両耳を覆い、己の目と耳を塞いだ。
彼方で大河がうねり山が轟くようなゴオウという血潮の音がした。
それが右手でふさいだ左耳と、左手でふさいだ右耳のどちらから聞こえるのかはわからなかった。
真っ暗で方角もなにもわからない水と霧の渦の中で、私は翼の生えた蛇のように身を捩りうずくまった。
翼のように広がっていたレースに付いた無数の水滴は、ダイヤモンドのようにキラキラと輝きながら氷結した。氷の檻はゆっくりと私を包み込むように閉じて、私は癒しがたい空虚を再び閉ざし、凍った殻の中で眠りにつくことにした。
§§§
深く深く深く……。
果てしなく深い淵の底にどこまでも落ちて行こうとする私を誰かが抱きとめた。
いかないで。
柔らかで温かい気配が、冷え切った私を包む。優しい手だ……この感触を私は知っている。
しっているよ。
ああ、貴女はずっと共にいてくれたのか。カサンドラ。
つらいね。つらかったね。
互いの共感が染み込んで、私達は一つに重なっていく。
抱きしめたかった。抱きしめてもらいたかった。
受け止めたかった。届いて欲しかった。
でも泣いてすがりたくはなかった。
ふふっ、おなじね。
気が強くて意地っ張りで弱みを見せたくない私達は似た者同士だ。好きなもの、嫌いなもの、悪癖、欠点……私達は互いに自分のことをこっそり教え合って、わかるわ、ひどいわね、とクスクス笑った。
私達は欠けた形が同じだから、一つになっても欠けた部分は埋まらないけれど、充実していく肯定感で空虚さは和らいでいった。
さあ、いこう。
もう少しここでこうしていたいわ、と言おうとして、自分がどこにいるかすらわからないことに気がついた。だから、まだ、貴女と一緒にいたいと伝えた。
だいじょうぶ。わたしたちはずっといっしょだから。
でも、私はもっと貴女の話が聞きたい。貴女が何を見て何を思ったのか知りたい。
そのうちに……きっとおもいだせるわ。
ああそうか。
ストンと腑に落ちた。私達は一つだ。
過去の私はいつだって共にいる。だから今は顔を上げて前を向こう。
私は仄暗い淵の底で目を覚ます。
顔を覆っていた両腕を左右に払うと、闇が割れ天が裂けて、現実に続く一本の道ができた。
渦巻き始めた水のトンネルの真ん中を飛翔して、私は光射す方に向かった。
さあ、あの人の元へ




