誰にも受け止められなかった彼女
私の記憶はとても歪で不完全だ。
この世界でこの年まで貴族の娘カサンドラとして生まれ育った記憶と、まったく別の世界の日本という国で生まれ育った私の記憶が混ざっているが、そこに同一人物という自覚も連続性も感じられない。おまけにどちらも知識としての記憶はあるものの、個人的な思い出は著しくおぼろげでほとんどない。日本時代に至っては自分の名前や家族構成すらあいまいなので、今の私はアイデンティティを喪失している。
この埋めようのない虚ろが、失われた二人の私のどちら由来なのかすら、今の私は知ることができない。
それにしても、夫との結婚の経緯さえも、ニュースや教科書で得た知識のようにしか思い出せないというのはあまりにも味気ない。
私は、カサンドラという自分が、一体どのような人物で、どのように考えて日々をおくっていたのかを知りたくなった。身体が癒えるにつれて薄れて変性していく転生者としての記憶や個性を繋ぎ止める方法がわからない以上、私が辿るべきはカサンドラだと思ったのだ。
寝台から起き上がれるようになると、私は少しずつ室内を歩き始めた。
足腰や心肺機能のリハビリは大事だ。これを怠ると人間はすぐに寝たきりになってしまう。
私がまた自暴自棄なマネをしないか警戒して目を光らせる侍従や警備の者達を、少しずつ説き伏せて、活動範囲を広げていく。最初は寝室内のみ。続き部屋、私室、サンルーム、書架。
弱りきって情けないほどわずかしか起きていられない体で、無理のない範囲で私は自分の記録を探した。
そして私はついに、カサンドラの私的な日記らしきものを見つけ出した。
それは、私室に置かれた書き物机の鍵のかかる引き出しの奥にひっそりとしまわれていた。その綴りには、明確な日付の記載はなく、ただカサンドラの備忘録未満のつぶやきが記されていた。
寄木細工と真鍮で水辺の風景と白鳥のモチーフが描かれた書き物机の上にページを広げて、私はカサンドラの生きた日々を追った。
§§§
カサンドラは想像以上に貴族的な考え方の娘だった。彼女の根幹には貴族の身分制度での価値基準が染み付いていたのだ。
彼女が抱えていた国内有数の大貴族の一員だというプライドと、その傍系でしかないというコンプレックスはその最たるものだ。これは身分制度の感覚の希薄な日本の一般人だった私にはあまりピンとこない心理だったけれど、学歴コンプやスクールカースト的なものに置き換えて考えたら、なんとなくわかる気がした。
そんな彼女にとって、レオニダスは複雑な心境にならざるを得ない相手だったらしい。
本当に王の子かどうかわからない妾腹の出というレオニダスの出生は、カサンドラにとっては侮蔑の対象だ。だから"日記"には初手から手厳しい言葉が並んでいた。
レオニダスはレオニダスで、フレンドリーとは言い難い性分の男だったので、二人の仲は険悪だったらしい。
不思議なことに、この日記を読んでいると、日本人だった私は体験していないその時の光景が、まるで自身の思い出のようにありありと思い浮かんだ。私はこの日記を通してなら、会ったことのないレオニダスの姿や、書かれていない会話も断片的にだがはっきりと思い出せたのだ。
そう。だから、婚約時のほぼ初顔合わせの時の最悪なやり取りだって、私は知ることができた。
「お前が俺の"首輪"か」
「まぁ、自分には"首輪"が必要だとお思いになっておられるとは、流石に犬の仔は違いますわね。まったく、いい年をして場もわきまえず"俺"だなどとみっともない……」
うわあ、謝りに行きたい! 切実に!!
ホントになに言ってくれちゃってるの? 私!?
相手の一番触れられたくないところにパイルバンカー打ち込みにいく奴があるか、バカ〜っ!
このときのレオニダスの表情をカサンドラは見ていたはずなのに、彼女にはその意味がわからなかったらしい。
冷静に考えれば仕方がない話かもしれない。彼女自身も感情的になっていたし、なによりこの世界の彼女ぐらいの年の貴族女性が得ることのできる知識には限りがある。フィクション、ノンフィクションを問わず幼少期から"他者の心理と情動"の情報を浴びるようにして育つ現代日本人とは根本的に違うのだ。レオニダスの出自や立場を知らされていても、そこから彼の心理を慮る洞察力をカサンドラに求めるのは酷だろう。
だが、私は違った。
彼の黄玉のような目が陰り、口元が苦しげに引き結ばれるのを見て、私は胸が締め付けられるような思いがして息が詰まった。
それは単なる同情ではなく、沼に落ちるような一種の一目惚れだった。
白状しよう。私は男の趣味が悪い。
ドラマでもアニメでもコミックでも、因果な性分でコンプレックス拗らせた訳アリの悪役にばかりハマっていた覚えがうっすらある。なんなら現実でも、ダメな男に引っかかっていた気がする。
だってほら、たまらないじゃないか。あの、人を人とも思わぬ態度でいるくせに、誰よりも痛みを抱えている素振りをちらりと垣間見せる傲慢さとか、それを知られたくはなさそうな矜持とか……一般的には理解しにくい癖だという自覚はある。
別に「だからこの人を救ってあげたい」だの「彼の苦しみを理解できるのは私だけ」だのと言って世話を焼きたいわけではない。なんというか、その無残な無様さがどうにも愛おしいのだ。
私の特殊な好みの基準から言うと、レオニダス様は完璧だった。
まず顔がいい。
美形というほど美麗に整ってはいない。チャラさが微塵もないクセの強い男前。剣で戦う時代の英雄っぽさのある男らしい顔だ。
王家の直系は細面のスマートなイケメンや優男が多く、第一王子や第二王子もそういう顔だった。カサンドラはそちらのほうが好みだと日記にレオニダスの容姿の悪口を書いていたが、私にはわかる。彼女もレオニダスの外見は実は好きだったに違いない。でなければ、日記の各記述を見ながら私が思い出せる彼の姿が、あんなに詳細で、あんなに輝いているわけがない。特にアングルと、どこにピントが合っているかで完全にカサンドラの趣味は理解できた。
うん。私達はきっと深くわかりあえる。
カサンドラが、外見以外も含めてレオニダスを好きだったかどうかは今となってはわからない。だが、彼女の日記からは次第に彼にまつわること以外の話題が消えていった。
とはいうものの彼女の表面的な態度は、その後も一貫して辛辣で気取っていて可愛げがなかった。
レオニダスが女馴れしていて余裕のある男だったら、それもまた可愛らしいなどと言ったかもしれない。しかし、彼はそれどころではなかったので、彼女は蛇蝎のように嫌われ敬遠された。
そりゃそうだ。
ストレスだらけの仕事でいっぱいいっぱいの男は、デレの見えないツンデレを相手にラブコメする暇などないのだ。それは仕方がない。
せめてこの時期に介入させてくれれば……というターニングポイントをいくつも軽々と越えて、険悪で冷え切った関係のまま二人は結婚して肌を重ねる仲にもなったようだ。
"ようだ"としか言えないのは、その時期の記録がないからである。日記は彼女の結婚後しばらく途絶えており、王妃としての執務や行事に関することがポツポツと記されているのみになる。
私は日記の記述に関連する断片しか思い出せない。だから書かれていない時期の彼女と彼の関係がどのようなものだったのかは知ることができない。
私は日記の中のカサンドラの日常を追体験しながら、彼女の視野に映るレオニダス様をゆっくり観察して、彼が何を思い、どんな感情と苦悩をその内に隠していたのかに想いを馳せた。
それは書き物机の上の白鳥が運んでくれる音のない夢のようだった。
転機のおとずれは、日記には久しぶりの口論として記されていた。
自身が英雄視されることになった南方の占領地で起きた反乱の鎮圧に向かおうとしたレオニダスを、カサンドラは引き留めようとしたのだ。
「王自らが向かわねばならぬ案件ではございますまい」
「かの地は我が原点だ」
「あなたが重きを置くべきは王都です」
「かの地の統治と開発を任せているのは、早い時期から私を支えてくれた支援者達なのだぞ。彼らを見捨てるわけにはいかない」
「報酬目当てで群がった者達ではないですか。その搾取が酷いから反乱につながったというのに、お甘いことを」
「お前や宰相らが新興の者達を好かないのは承知している。たしかにあれらにも非はあろう。だが、それでもあの者達が私には必要なのだ」
「陛下が必要とすべきは国土を養う民でございましょう」
「だからその民を制しにゆくのではないか。女の身で国政を解くな」
古くから国の統治に関わって来た一族の出身だが実務経験は浅いカサンドラと、生来の才覚で新たな道を切り開こうとしているが統治者としての教育は不十分なレオニダス。外からの視点だからこそ、私はどちらの言い分も理解でき、どちらにも盛大にツッコミたかった。
そうじゃない。
これまでの二人を見てきただけにもどかしかった。
カサンドラが一言「あなたの身が心配だ」と言えたなら、何かが変わっていたのだろうか。それとも、その言葉すらもレオニダスは、宰相が彼女に入れ知恵して言わせた策謀だと疑っただろうか。
"私の言葉はあの方には届かない"
そう書き留めた彼女は、一体どのような表情をしていたのか、私に知るすべはない。
「十分な兵をお連れください」
「反乱といっても軍人などほとんどいない素人の寄せ集めだ。大軍など出せば笑われよう」
「……この機に乗じて、かの地を取り戻そうとする動きが南方諸国にあると想定してご準備を」
「フッ……目前の敵以外にも害意を抱いているものがいることなどわかっている。だが、多すぎる兵は不要。国庫にそんなゆとりはない」
「だから、あなたが行くのですか」
レオニダスはその問いかけには答えなかった。
彼は、出陣前夜にカサンドラを自身の私室に呼んだ。酒には相当強いはずなのに珍しく酔っている様子だった。
「……サンドラ、もし私が帰らなければ、お前の好きにせよ」
「何をおっしゃいますか」
「良き夫と結婚し、良き子供を生め」
そうして良いと俺が言っていたとあのクソ宰相に伝えて構わん、とレオニダスは酒杯を覗き込みながら嗤った。
「私はもう良き伴侶を得ておりますし、じきにその方の良き子を産みます」
「なにっ!?」
ハッとしてこちらを見た彼の青ざめた顔を見て私は思わず深い微笑みを浮かべてしまった。カサンドラも同じだったと思う。
「我が子を抱きたくば、無事のお帰りを」
懐妊を告げた、と記された後の部分は破り取られていて、その後の光景は思い出せなかった。
§§§
カサンドラは実母経由で父親に、援軍の派兵を宰相に説くよう願った。王妃なのだから直接命じればいいのにと思ったが、それをやってしまうと色々と問題があるらしい。なんて面倒な。
慣習としきたりと先例主義の迷路になんとか一本筋を通して、宰相が出してくれた増援部隊はギリギリ間に合った。
南方では反乱に乗じる形で攻め込んできた南方諸国連合軍との激しい戦闘があり、レオニダスは重傷を負ったが、援軍の到着で一命をとりとめた。
彼が討たれなかったことで、味方は総崩れにはならず、かろうじて戦線は維持できた。勝ちきれぬと見た南方の小国は損害が出過ぎる前に硬直した前線から兵を引き、形の上ではレオニダスは再び勝利を収めた。
だが彼は左足から腰にかけて負った傷の後遺症で、馬に乗ることはもちろん、歩くことや長時間立っていることすら困難な身体になってしまっていた。
戦争が終わっても、彼はしばらくの間、南方での療養を余儀なくされた。
戦勝を祝う気分からは程遠い状態の彼に王宮から届いたのは王妃死産の報だった。
レオニダス王はその治世を継がせる我が子を失った。
そしてカサンドラは、王は一命は取り留めたものの、もう彼女との間に世継ぎを作ることはできないと医者から教えられた。
彼女は我が子のもとに行くためにバルコニーから身を投げた。
王の身を案じ、我が子に詫び、ただ己を責めるカサンドラの言葉が並ぶ日記を、私は読み返し、読み返し、ただそうすることしかしてやれぬ自分を口惜しく思いながら、届けられなかったカサンドラの想いを受け止めた。




