6、危うい計画
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――庭の奥、バラの木々に隠れるように、焼却炉があった。
火のついていないそこを開け、中に入っていたものをみとめると、赤い唇は小さく笑みの形に緩む。
そうして無言のまま、手に持っていたものが静かな炉の中に放り込まれた。先に入っていた葉や枝に当たり、かさりと乾いた音がする。
「捨ててしまうんですか」
気配を感じさせなかった声に、細い肩がこわばる。
だが動揺は、その一瞬だけのもの。
「……ええ。さすがに、もう子どもっぽすぎるかと思って」
背後を振り返った顔には、その日、最初に彼らを出迎えたときと同じ笑みが浮かんでいた。
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自分の婚約者について警察に話した後は、心を落ち着けるために庭にいた。
だから、ヴィクターがここに来るまで、シャーロットが意識を失って屋敷が大騒ぎになっていたことを知らなかった。
そう話すと、アリスは沈鬱な面持ちで視線を下げた。
「アーサーに続いてシャーロットまで、なんて。……お医者様がまたいたはずですから、大丈夫なんですよね?」
不安げな問いかけと共に視線をあげたアリスに、ヴィクターは淡々と答えた。
「意識はまだ戻っていませんが、医者が処置を。あなたの婚約者に次いで二度目の毒ですから、すぐに済むでしょう」
「そうですか……。それにしても、アーサーが狙われて、それからどうしてあの子まで。毒は、何に入っていたのかしら」
そんな疑問をこぼしながら、また客人に背を向け、焼却炉に向き直る。
そして、スカートのポケットからマッチ箱を取り出した。
「宴会場で、あの二人だけが口にしたものがあったとか? それなら、警察がみんな押収していきましたから、いずれ分かりますね。……怖いわ、我が家の料理人から、犯罪者が出るなん、て」
言葉が途中で詰まった。
アリスが自分の手首を見遣る。
今にもマッチを擦ろうとしていたところを、ヴィクターに押さえられた右の手首を。
「いくら調べてもそんなものは出てこない。料理を調べる限り、永遠に犯人は見つからないでしょうね」
アリスはヴィクターの顔を不安そうに見上げた。
「なぜ? 二人がもう、食べてしまったから?」
「犯人はあなたで、狙ったのはアーサー殿ではなかったからです。
おまえの狙いは、最初からシャーロットだったんだろう」
静寂を破る前に、アリスは戸惑うように目を細めた。
「ひどい言葉を口になさったわ」
「そうかな。そちらは言葉以上のことをしたのに」
「伯爵、あなたの無礼はここだけの話にいたします。わたしたち、婚約者を失いかけた者同士、同じように動揺しているのですわ」
アリスはそう言って自分の手首を掴むヴィクターの手を払った。ヴィクターの手は自分より軟弱なその力に従う代わりに、指先に摘ままれていたマッチをかすめ取っていく。
それを目で追ったアリスが文句ありげに口を開けたが、男の冷ややかな双眸に気づくと一瞬言葉を飲み込んだ。
「……ではお聞きしますが、一体どうすればわたしにそんなことができたとお考え? わたしからあの子に手渡した食べ物なんて一つもない。飲み物ですら。それは、アーサーにも同じですけれど」
尋ねる声は呆れ混じりだった。
視線が交錯する庭園に、屋敷の喧騒がわずかに聞こえてくる。
アリスはその騒ぎにつられたように視線を向けてから、「ああ、」と合点が言ったように呟いた。
「そういえば、シャーロットは朝早くに来たから、トリュフとエッグタルトが置かれたテーブルのそばに一人でいた時間がありましたね。思い出してみれば、アーサーがつまみ食いしたあのトリュフ、もしかしたらシャーロットも食べていたのかも。エッグタルトは減った様子がなかったし。もしかしたら、そのトリュフに毒が入っていたのかもしれませんね?」
レースの手袋に包まれた手が白い頬に添えられる。丁寧に紅の引かれた唇が、品よく開かれ、適度な声量で、よどみなく言葉を並べていく。
「トリュフが置かれた場所に誘導して、彼女が思わず食べたくなるのを祈った。アーサーは不運にも巻き込まれた。そういう筋立てで、私を責めてらっしゃるのですか? あのトリュフ、持ってきて、あの籠に盛り付けるまでしてくれたのは、今はやりのチョコレート専門店の店員さんです。わたしはトリュフが今朝うちに届けられてから今まで、一度も近づいていませんのよ。使用人たちがみんな証言できます、今日は朝からみんなとずっと準備に明け暮れていたし、それに」
「トリュフの話はどうでもいい。それに毒が仕込まれたわけじゃないのだから」
刺すように遮ったヴィクターに、淀みなく言葉を繋げていたアリスが目を瞬かせる。
「……そうですか。では、毒は何に? 伯爵は、あの二人だけが口にしたものは何だとお考えで?」
「シャーロットの右手の、親指と人差し指の指先が荒れていた。手袋に隠されていたが、彼女は素手で毒に触れていたんだ」
「それこそ、トリュフを摘まんだからでしょ?」
「違う。使われたのは猛毒だった。口から毒物が入ったなら、すぐに症状が現れる。アーサー殿が毒を摂取したのは、倒れる直前だったはず。一命をとりとめたのも、すぐに吐き出せたからだと医者が話していた。これだけで、毒が入っていたのはトリュフではないと言える。でないと二人とも、パーティーが始まる前に苦しみ始めるはずだ」
「……ということは、うちの料理人が作った料理に毒が、」
「それならシャーロットがついさっき倒れたことがおかしくなる」
ヴィクターの視線は黙り込んだアリスから逸れて、ふたが開いたままの焼却炉に向く。
「もし配られた紅茶に毒が入っていたなら、クローディア嬢が無事であることに理由が付かない。言っただろう、シャーロットの指先は毒に侵されていたと。彼女は食べ物を口にして中毒を起こしたんじゃない、皮膚から毒を吸収した。だから毒が回るのが遅かったんだ、毒のついた指に口づけてから飲食をしたアーサー殿よりも」
革の手袋に包まれた大きな手が、枯れた葉や枝が集められたその中へと延びる。
「毒は、シャーロットが素手で触れたものについていた。多くの客人の中で、彼女だけが触れたものに」
摘まみだされたのは、かつては美しいバラの花だったもの。
今となっては萎れた花弁がかろうじて互いに連なりあい、黒く変色し、見るも無残な有り様となっているもの。
額はついていない。鋏なしでは、付け根から切ることはできず、摘まみ取るようにしかできなかったのだろう。庭師の仕事であるはずがない。
もとより、ただ枯れただけとは言えないその様相は、庭師の把握するところでないのは明らかだった。
「――同じ木、同じ枝。日のあたりも肥料の周りも同じくらいの、盛りの花の中で、一つだけ枯れていた理由。おそらく実物を調べればわかるだろうな」
勝手に持っていかれるそれを、アリスは何も言わずに目で追った。――両手で握りしめるマッチ箱の外形だけが、歪んでいく。
「庭師が手入れをした後の朝の庭で、おまえはテーブルのそばのバラに毒を塗布し、以降自分でそこには決して近づかなかった。母に代わって指示を出す中で使用人にも近づかせなかったのだろう。チョコレート屋の店員が客の家の花が枯れていることに気づいてもそれに触れるはずはない。しばらくしてシャーロットが現れると、一人で現場に向かうよう誘導した。食い意地のはった彼女にココアのついた菓子の前で手袋を外させて、そのそばの花に気づかせた。この集まりにバーリス夫人を招いたのはシャーロットに確実に花に触れさせるためだろう。ホスト役のあなたがあの教師に客人の前で叱られたらかわいそうだと思わせるため。結果、あの愚かなシャーロットはまんまと花に触れた。ただ、お前がアーサー殿や俺たちがあの場にいたことに焦っていたのは、シャーロット以外の誰かに気づかれたのかと焦ったからか」
話しながら、ヴィクターはその花を摘まんだまま手袋を外し、包んだ。素手が万が一にも花に触れないよう、手早く、慎重な手つきで。
「何より大きな誤算は、パーティーが始まっても彼女が手袋をなかなか外さなかったこと。驚いただろうな、標的が死ぬ瞬間、その場にいなかったことにするために会場から離れていたのに、戻ってきたらシャーロットは元気そのもので、代わりに無関係なはずの婚約者が死にかけていたんだから」
右手で手袋越しの花片を持ったまま、ヴィクターの限りなく黒に近い目が、アリスを再び見下ろした。一切の慈悲もなく、酷薄な瞳で。
「動機はなんだろうな。なんでもいいが。自分に興味のない父親と、二日酔いでろくにおきていられない母親、浮気な婚約者。その境遇を慰めるのにちょうどよかった格下の同級生が、俺と婚約したのがどれほど許せないことなのか、それは俺には知る必要のないことだから」
――娘の予定を知らず、その友人よりも、地位のある連れの男に真っ先に興味の移る父親と、挨拶にも出てこない母親。
アーサーは見舞いと言ったが、彼が倒れたとき、アリスは医者を呼んだと叫んだ。母親は医者に見せるような理由で寝込んでいるわけではないということ。父親の様子からもそう予想して使用人に聞き込めば、出てくる答えは必然だった。
「シャーロットはおまえを褒めていたけど、俺にはこの計画がずいぶんずさんで危ういものにしか見えない。シャーロットが枯れた花に気が付かなければ、それで計画は破綻していた」
辛らつな言葉とともに、ヴィクターは開けっ放しの焼却炉のふたを閉めようとした。
炉の中に貯められた葉や枝の上には、美しい蝶の髪飾りがぽつんと置き去りにされていた。
「……でも計画は、成功したわ」
立ち去ろうとしたヴィクターの足が止まった。




