5、誰が一体どうやって
「アーサー!? どうして……みんな離れて!」
血相を変えたアリスはそう叫んで、屋敷へと走っていった。アーサーのそばにいた何人かの令嬢が、真っ青な顔で後ずさる。
シャーロットはと言えば、最初こそ事態が呑み込めなくて硬直していたが、すぐにハッと目を見開いて恐れおののくように呟いた。
「ま、まさか、さっき肘を入れたときに骨か内臓が……!?」
「んなわけないでしょう」
青ざめたシャーロットに言い捨てて、ヴィクターはアーサーのそばに駆け寄りしゃがみこんだ。名を呼びかけ、脈を計り相手の様子を観察する。
「みなさん、この場の食べ物飲み物を、何も口にしないでください。――毒だな」
周囲に向かって声高に警告したあとに低く呟き、ヴィクターは懐から小瓶を取り出した。ふたを開け、中身を痙攣するアーサーの口に含ませ、その口を手で塞いだ。
もがくような動きを見せたアーサーと、それを顔色も変えずに抑え込むヴィクターを見て、シャーロットがおそるおそる問いかける。
「な、何飲ませたの…?」
「催吐剤。吐かせてる」
そう言ったヴィクターが手を離すと、すぐに地面へと顔を向けたアーサーから「う、」と苦しそうなうめき声がしてきた。
「医者を」
振り返ってそう言われ、シャーロットも焦りながら頷いたところで、「遣いを出してますから、じきに到着します!」とアリスが子爵と共に駆け込んできた。
*
「幸い、一命はとりとめたそうです」
客間に入ってきたヴィクターは、開口一番そう言った。医者と直接話をした彼からの言葉を聞いて、肘掛椅子に浅く腰かけていたシャーロットはホッと肩から力を抜いた。
アーサー・ラグフィールドの騒動によって、ガーデンパーティーは当然中断されている。
ショックで気分が悪くなった友人たちもいるのを見たアリスが、何人かのグループに分かれてそれぞれ客間で休憩するよう促したのだ。
アリスも動揺を隠せない様子だったが、心配して近寄ったシャーロットの手を手袋越しに握り、しばらくそこに視線を落とすように俯くと、それだけで落ち着きを取り戻したようだった。
『ありがとう。大丈夫、何も問題ないわ』
問題ないわけないだろうに。しかしシャーロットは、彼女の気丈さを尊重し何も言わないことにした。
今は、そのアリスの計らいでヴィクターと二人、客間で休憩している。
「良かった……それにしても、いったいどうして急に」
「警察もじきに到着するでしょう。おそらく、料理に毒が入っていたと見当をつけるでしょうが」
料理に、と聞いて、シャーロットは頭を抱えて首を横に振った。
「そんな、アリスたち子爵家の人たちや使用人が、どうしてアーサー様を……」
そう言ってハッと気が付いた。
「まさか、彼の遊び癖に嫌気がさして……」
「その可能性もありますが、客人の誰かが彼の口にするものに、というのもあり得る」
「そんなことどうやって……」
そこで口が止まった。脳裏には、ワインを二つ持ってきて手渡した友人の姿が蘇っていた。
「まさかクローディアが……?」
言葉にすれば、ありえなくもない気がした。クローディアが本気であの男を好きなのだとしたら、決して結婚相手となってくれないアーサーに殺意を抱くのも、無理からぬことなのかもしれない。
一方向へ傾きかけたシャーロットの思考だったが、そこへ水を差したのはヴィクターだった。
「誰がやったのかは分かりません。サンドイッチに毒が仕込まれていたかもしれない。彼が故意に狙われたのか、それとも無差別に狙ったのか」
近くの椅子に座り、冷静に話す声を聞きながら、『そうだ、まだ誰がやったのかは分からない』とシャーロットも自分に言い聞かせる。
だけど鼓動はどくどくと、胸の奥で常より激しい高鳴りを響かせる。
「シャーロット、あなたの学友のことを聞かせてください」
「……学生時代のことしかわからないわよ」
結構です、と男が頷いた。シャーロットは呼吸を整えるように息を吸って吐いてから、改めて口を開いた。
「みんながどういう家の令嬢なのか、は、名前さえわかれば私より知ってるわよね。人柄のことを中心に話すけど、……ホストのアリスは、今日集まった女の子の中では、一番最初に友達になってくれた人。級長だったから、クラスで孤立しがちな私のことも気にしてくれたんだと思うけど、初対面のときから親切にしてくれて」
話しながら旧友の顔をひとりひとり思い浮かべる。彼女たちを疑いたくなんてない。
とすると、使用人の中に犯人がいるのだろうか。考えるだけで恐ろしい。頭の隅で、ロザード家の執事の事件が思い起こされた。
――なんだか気分が悪い。さっき人が倒れるところを見たうえ、連鎖的に冬の事件まで思い出したせいに違いない。
「……で、クローディアは寄宿舎のルームメイト。最初はよそよそしくて、あんまり話してくれなかったんだけど、途中から打ち解けてきて……他人の婚約者に近づくような人だとは思ってなかったんだけど、」
亜麻色の髪の友人の名前をだしたときは、やはりシャーロットの声は自信なさげに揺らいだ。
「……この蝶の髪飾りも、今日はわたししかつけてないけど、本当は――」
話の腰を折ったのは、扉を叩く控え目な音だった。
「シャーロット? わたしだけど」
聞こえた声に、シャーロットは目を見張り、腰を浮かせ、口をパクパクとさせてヴィクターと扉の方を交互に見た。顎に手を当てて考え込んでいた男が「いいんじゃないですか」と小さな声とともに扉を一瞥する。シャーロットもつばを飲み込み、扉へと近寄った。
「急にごめんなさいね。落ち着かなくて」
「いいのよ、クローディア。わかるわ、こんなことになったんだもの」
シャーロットはいつも通りの自分を意識して声を出したが、来訪者が手にトレーを持っているのを見て表情を凍らせた。
トレーの上には、三人分のカップのセットとポットがひとつ。
「メイドたちがみんなに配っているところに出くわしたの。あの、あなたたちの分を預かってきたから……」
窺うような表情でそう言った友人に、シャーロットは面と向かって拒絶はできなかった。
***
「アリスは、きっとまだ警察の対応をしてるんでしょうね」
小さなテーブルに置いたカップの上でポットを傾けながら、クローディアは心細げに息を吐いた。
シャーロットは「ええ」だとか「そうね」といった生返事とともに、その一挙手一投足をつぶさに観察していた。
今のところ、何も混ぜてはいなさそうだ。
けれど、ソーサーとカップを手渡されても、口をつける気にはなれなかった。ノックする前に、ポットやカップに何か仕掛けているかもしれない。紅茶を受け取ったヴィクターにも、『飲まないでね』と視線を送る。
「疑ってるの? シャーロット」
「え?」
「わたしのこと。怖い顔でカップ見てるわ」
図星を指されたシャーロットはぎくりと緊張したが、クローディアは苦笑して空いた椅子に座ると、自ら率先してカップに口をつけた。
「……わたしじゃないわ。アーサー様とは幼馴染で、ほとんど兄妹みたいなものよ。どうして、恐ろしい毒なんて……」
幼馴染み。それで、あんなに親しげに抱きつくような仲だというのか。
その疑念を、シャーロットは口には出さなかったが、表情にはありありと浮かんでいた。
「シャーロット。彼、わたしと勘違いしたあなたのこと、“蝶々ちゃん”って呼んだでしょ? あれはあなたが今日つけてる髪飾りを見たからよ。前にわたしがつけてたから。……アリスの婚約者と後ろ暗い逢瀬をするときに、わざわざそれを選ぶと思う? アリスがわたしたち三人分、おそろいで用意してくれた髪飾りなのに」
シャーロットは黙ってクローディアの顔を見つめた。クローディアも口を閉じ、じっと審判を待つように見つめ返す。
ややあって、シャーロットはバツが悪そうに俯いた。
「……それもそうだわ。ごめんなさいクローディア、疑って」
恥じ入るような声で謝罪すれば、クローディアも肩の力を抜いて微笑んだ。
「相変わらず素直で正直だこと。いいわ、あなたのうっかりは今に始まったことじゃないし」
うっかりでは済まされない不名誉な疑いを、クローディアはため息とともに許したようだった。
「それに、アーサー様もよくないもの。アリスがずっとあの調子だからってこれ見よがしに軽薄な態度。……そういうのが、あの子には逆効果なのに」
クローディアが表情を曇らせた。どうやら、級友と幼馴染みの婚約がうまくいっていないことに板挟みになっているらしい。
それを見たシャーロットはカップの紅茶を一口飲んで、テーブルに置くと、親友に駆け寄りぎゅっとしがみつくように抱擁した。
「でも、じゃあアーサー様の毒は、誰がどうやって……」
「……疑いを晴らした直後に言うのもはばかられるけど、わたしは、アリスじゃないかと思ってるの」
一転、シャーロットはぱっとクローディアから離れた。
「なんで? アーサー様の浮気な言動を憂えて?」
「……いえ、そういう理由じゃなくて……だってそもそも、ホストはあの子なのよ」
「そんなの、今日アリスがアーサー様を招くってわかっていれば、誰だって、どうにでもできるわ。招待客の中に、過去に彼に口説かれた子がいるんじゃない? アリスにとられたと思って、恨んでる子がいるのかも!」
徐々に興奮してきたシャーロットとは逆に、口ごもったクローディアは、ヴィクターのほうをちらりと見た。人払いを望んでいるのを感じたが、シャーロットは応じなかった。
「ヴィクターは、もしかしたら無差別に狙った毒だったのかもしれないとも考えてるの。そうだったらわたしも、クローディアも、ヴィクターも危なかったかもしれないのよ。怪しいと思う根拠があるならここで話して、ヴィクターも一緒に考えてくれるから」
クローディアはその言葉に目を細めた。――痛まし気に。
「信頼してるのね。……なら、次に危ないのはヴィクター様かもしれない」
「え?」
「わたし、アリスはアーサー様になんの執着もないんだと感じるわ。いっそアーサー様が哀れになるくらいに。そのアリスが、さっき中庭であんなにアーサー様に怒ったのは、きっとそばにシャーロットがいたせいよ。彼がシャーロットに関心を示したと思って、きっとそれで……」
シャーロットが絶句している間に、クローディアはちらりともう一度ヴィクターを見た。すぐに再びシャーロットに視線を戻したが、今度はその瞳に覚悟を宿していた。
「アリスは、あなたの婚約を祝ってなんかない。あなたがロヴェンス子爵家より格式高い家の男性と結ばれることを喜んでなんかないと思うわ」
シャーロットは数秒固まったが、すぐにきっと相手を睨みつけた。
確かに、ヴィクターにも同じようなことを言われたが、それよりずっと悪意のある言い方だ。
クローディアは、シャーロットとアリス、双方を侮辱している。
シャーロットは息苦しさがさらに増しているのを感じた。息が知らずに上がってくる。
「……クローディア、怒るわよ、いくらあなた相手でも」
「わたしごときじゃどうせ止められないでしょ、あなたの激情は。でも怒る前にもう一つ聞いて、こんなこと、今さら謝っても仕方ないけど――」
クローディアの言葉の続きを聞くことはできなかった。
「いったぁ!!」
思わず声を上げたのは、右手首に強い痛みが走ったからだ。
犯人はヴィクターだった。椅子に座っていたはずの男はいつの間にかシャーロットの真横に来て、その手首を掴み自分の目の高さまで持ち上げていた。その思わぬ強引さと関節に走る痛みに、シャーロットの怒りは矛先をぐるんと変えた。
「痛い痛いっ、何するのよ手を放して!」
「……これはなんだ」
「この、はなっ……え?」
「この指先! なんだと聞いてるんだ!」
叫んでも手を振ろうとしてもびくともしないヴィクターの手に、爪を立てて引きはがそうとしたシャーロットは、ヴィクターの剣幕に驚いて短い時間固まった。
「なにって……」
ときめきとは異なる心臓の早鐘を聞きながら、掴まれた右手に目を向ける。食事のときに手袋をはずしたままだ。
その瞬間、胸を突くような吐き気と同時に、頭に割れるような痛みが走った。全身にしびれが走って、シャーロットは立っていることができなくなった。
「シャーロット!」
床に倒れ込む寸前で抱きとめたヴィクターの、必死な声。
血相を変えたクローディアが扉へと走っていき、「誰か来てぇ!!」と叫ぶ声。
それらを耳にしながら、シャーロットはただ、体をがくがくと震えさせる以外にできることはなかった。
「……あの男と同じ反応……!」
抱きかかえ、こちらを見下ろすヴィクターの切羽詰まった顔が目の前にある。
暗闇に視界が呑まれる直前、強く掴まれたままの自分の右手が見えて、疑問が震える唇の隙間からこぼれて落ちる。
「……やだ、なに、これ……?」
それきり、意識は途絶えた。




