第六十九話 きっと(3)
「……なに?」
戸惑いながら、シャーロットは小さな声で問いかけた。根拠はなかったが、胸騒ぎがした。
「ウィンリールで、俺は言いましたよね。共にランドニアへ戻ってほしいと。なぜかわかりますか」
ヴィクターはそっとシャーロットの肩を押して自分から離した。抱き締め返そうとしていた細い腕が伸びたまま、すがるような形で固まっていた。
「あなたに、当初の目的を遂げてほしかったんです」
「……当初の、目的」
言われたことを呆然と繰り返す女の前で、ヴィクターは懐に手を入れた。シャーロットの鼓動が早くなる。
「フェリックス殿のこと。彼にとってのあなたがなんだったのか、どうか真実を知ってほしい。それであなたの中でも、彼がどんな人間だったのか、完成する。――あなたがそう言ったでしょう?」
その言葉は、シャーロット自身がかつて目の前の男に助けを求めて投げかけたものだ。
ヴィクターはシャーロットの右手を取ると手のひらを天井に向けさせ、その上に自身のもう片方の手を重ねた。被さった大きな手はすぐに離れていき、されるがままの手の上には小さな箱が残されていた。
「なに、これ」
暖炉の火が照らしたのは、白いビロード張りの小箱だった。シャーロットの手にも容易く収まる大きさである。
シャーロットは、手袋の下に汗をかいているのを感じた。拭うことはできない。手の上に箱があるからだ。
見たくない。開けたくない。そんな感情が徐々に膨らんでいく。その反面、開けなければいけないという意識も強くなっていく。
やがてシャーロットの細い指は、なめらかな手触りの蓋を掴んで、ゆっくりと上げた。
「……フェリックス殿の手紙にありましたよね。久しぶりに、公爵領に発注した、と」
シャーロットとて、何度もやり取りした手紙の中にあった雑談のひとつをもちろん覚えていた。
何を、とは明らかにされていなかったが、酒造に重きを置いている様子から、シャーロットはそれをシードルのことだと思っていた。
「……そんな」
紅を差した口からこぼれ落ちた言葉はそれだけだった。
震える指先が小箱から持ち上げたのは、細やかな細工の銀色の輪の上に大粒のダイヤモンドが乗せられた、美しい指輪だった。
中央では、シャーロットの爪ほどもある大きな石が、磨かれたいくつもの面であらゆる光を反射する。その両脇を、小振りで色の濃いサファイアが支えていた。暖炉の炎を受けて輝いているはずが、それ自体が光を放っているかのようでもあり、見る者の目を静かに見つめ返してくる。
しかし宝石以上にシャーロットの目を引き付けたのは、プラチナのリング部分の内側であった。
そこに彫られた文字が、“FからCへ”と見えて仕方がなかった。――フェリックスからシャーロットへ、と。
「彼は、自宅に置いていた日記にはこれのことを書いていませんでした。家族に黙って用意していたんです」
ヴィクターの言葉に対し、シャーロットの口は“どうして”と動いても、声がでなかった。
――彼は、ダイヤの話をしたくなさそうだったではないか。将来の、具体的な話を。
「彼が、メアリー・コートナーを公爵に認知させようとし始めたのは、一年前の夏。春に、あなたと出会ってしばらくしてからのこと。……突然の行動は、おそらく純粋にメアリーのためだけではなかったんでしょうね」
(なんで)
胸の底から湧き上がる感情に、目頭が熱くなっていく。
落とした扇を拾う余裕もなく、みっともなく歯を食い縛る顔を隠すこともできない。
「父親をはじめとする一族に、生まれに対するこだわりを改めさせたかったのかもしれません。新興の男爵家から娶る花嫁のために。――あるいは、自分が家を離れても、爵位を継げる子どもが父親のもとに残るように。どちらなのかは、さすがにわかりませんけれど」
そんなわけない、どっちでもない、とシャーロットは叫びたかった。憶測で物を言うなと、その整った顔めがけて箱を投げつけてやりたかった。
しかしそれは叶わない。口を開くと、嗚咽が漏れた。
「これが遊びの相手に用意するような代物ではないということくらい、さすがにわかります」
視界が歪み、紅茶色の髪の男がぼやけていくと同時に、シャーロットの脳裏にくっきりと蘇る、淡い金髪の男がいた。
『ああ、平気だよお嬢さん。ちょっと待って、取るから、……ちょ、引っ張らないで、あっ!』
出会ったのは春だった。
商人上がりの貴族の、年下の娘に、屈託無く笑ってみせる人だった。
『きみからの手紙を、取り次いでもらえなかったら困るから』
子どものように笑いながら取り決めた真剣な約束。
懐中時計とブローチ。青百合商会の青はシャーロットの目の色だと言っていた。
何より大事だった人。喪えば、先の未来を思い描くことができなくなり、修道女の道まで考えたほどに。
声はもう完全に抑えられなくなり、溢れた涙が俯いた顔から絨毯へと落ちた。
ふたりの時間は、重ねた時間は嘘ではなかった。
もしも、あと一回会うことができていたら。領地から、シャーロットの待つコートリッツに、戻ってきていたら。
床に、ぽつぽつと丸い染みが増えていく。いけないと思っても、両手で指輪を持っていて顔を覆うことができなかった。
シャーロットはとうとうその場に両膝をついて蹲った。丸く、小さくなって、指輪を抱きしめ、その上に覆い被さるようにして、泣いた。
帰ってくると思っていた。次に会う日が、次の手紙が待ち遠しかった。たとえ堂々と会うことができなくとも、“次”を信じて疑わなかった。
彼の大切な領地を案内してほしかった。家族を紹介してほしかった。意地悪な妹に。失礼な従兄弟に。妹だと、信じこんでいた妹に。自分の、少し落ち着きのない父や姉たちに会ってほしかった。
この指輪を、どんなつもりで作ったのか、直接聞かせてほしかった。彼から手渡されたかった。
それらすべてが贅沢だというのなら、せめてもう一度会いたかった。別れ話でもいい、彼の声が聞きたかった。顔が見たかった。架空の、緑の燕の会という名前が、彼の瞳の色からとったのだと再確認させてほしかった。
でもそんな日は、もう未来永劫訪れないのだ。
「……ランドニアに残って、フェリックス殿が何を作らせていたのかを確かめて。工房の職人は彼の死に困っていましたが、完成させることを依頼しました」
泣きじゃくるシャーロットの頭のすぐ上から声がした。
顔を上げると、鳶色の瞳の男は床に片膝をついて、静かにシャーロットを見つめていた。そこに哀れみも慰めも、感じ取れはしない。
ほんの数分前にシャーロットの体を満たした幸福感は、まるで夢だったかのように散逸していた。ぼたぼたと涙を落としながら、シャーロットは口を開いた。
「ひどい」
喪った恋を前に、目の前の男への恨みが湧き上がる。なぜこんな現実を突きつけるのだ。もはやフェリックスと自分はどうにもなりようながないのに、知ってどうしろというのだ。
ヴィクターは、そんなシャーロットの心に生じた暗い呪詛を感じ取ったかのようだった。
「あなたにも、これは必要なことだったんです」
「ひつ、よう……?」
「でないと、俺のように、どうしようもなくなってしまう。彼の真実を知らないまま他の男と一緒になっても、心の底に膿んだ傷を抱え続けて、ぶり返す痛みで、時間と共に増していく重みで、だんだん身動きがとれなくなってしまうんです」
「……」
聞かされたことに、シャーロットはかぶりを振った。
反発したのは、ヴィクターの言葉が、『傷から解放されるために、必要だった』と言っているからだ。シャーロットはそれに同意することができない。
ヴィクターの言うことが正しいのは、ヴィクターの場合だからだ、と。
結果的にとはいえ、アデルが生きていて、会うことができたからだ。それぞれが納得ずくで前に進むことができたからだ。
だけど、シャーロットとフェリックスは違う。もう、それぞれが同時に前に進むことはできない。
「わたしは、もう、動けなくなったのよ」
たとえ知らないふりをしていても、いつか同じ気持ちになっただろう。
それでも、今知ってしまった以上、シャーロットは目を背けることができなくなった。
自分は、フェリックスの遺したものを前にして、そこから立ち去ることは許されないと、認めなくてはいけなくなった。
――どうして自分だけ、あの日の二人を過去のものにできると言うのか。
ここまで思ってくれていた人を、置き去りにできるというのか。
家族と争ってくれていたのに。もしかすると、家族すら捨てる覚悟もあったかもしれないのに。
(それなのに、わたしは……)
こんな不埒な自分が、周囲に踊らされてとはいえ、フェリックスの浮気を疑っていただなんて、許されない。その上、自分ひとり仕切り直して幸せになるだなんて、考えられないことだ。
悲しみと寂しさと、何より大きな罪悪感に浸かるシャーロットの頭に、灰色の修道服に身を包んだアデルの姿が浮かんだ。母の思い出に囲まれて生きる父の姿が離れなくなった。
いつか、自分も、そんな風に、たったひとりを愛し、愛される恋ができたなら。離別の悲しみも、それで乗り越えることができたなら。
それはとても幸福で、尊いことのように思えた。
――真実の愛って、きっと、そういうものだ。
それを孤独だと思うようでは、いけないのだ、きっと。




