第六十二話 百合と天使の懐中時計
「っ、おまえ……!」
仰向けに倒れ込んだヴィクターの視界は、さえざえとした月夜とそれを背に覆いかぶさってくる男の殺意に歪んだ顔、そして、その右手から自身に向かってくる抜き身の短剣に占められた。
先程まで構えていた銃が、襲われた衝撃で雪の上に転がったのはわかっていた。が、短剣に力を込める相手の手首を左手で掴み、しびれる右腕で相手の体を押し返す膠着状態に入れば、それに手を伸ばすことはできない。
「……っ、何をしている、銃を拾え!」
勢いをすんでのところで止められたケインズの叱責を受け、ほど近い木の陰から何者かが動く。
御者だった。シャーロットの帰途にとレティシアが付けた男であり、一カ月前、フェリックスの偽物をグース駅からバットンまで送った男。レティシアが監禁されていた場所を特定しようとするヴィクターを、赤毛の男が待ち伏せする森の方向へ誘導した男。
ケインズとにらみ合いながら、ヴィクターは自分の迂闊さに奥歯を噛みしめた。
町の人間は比較的簡単に騙せても、公爵家の使用人を何日も騙しきるのは至難の業である。事前に、あるいは事件の後に、執事は御者をまるめこんでいた可能性に思い至らないだなんて、と。
しかし御者は目の前で起きていることに恐れをなしてか、その場で慌てふためくだけで銃には手を伸ばさない。
それでも、体制の不利と、肩の傷、そしてそれを敵に知られているという事実がヴィクターを追い詰める。
「……っ、」
徐々に、そして確実に、短剣の切っ先が鼻先に近付いてきていた。その向こうで、ケインズの青白い顔に残忍な笑みが広がる。
「……さようなら、伯爵。スクーパットのアデル様のもとへ、どうぞ」
どくんと、乱れた心音が空気を震わせたような錯覚に陥った。
この場で何の関係もない、悪意に満ちた言葉には踊らされまいと思っていても、ヴィクターの意思に関係なく体はこわばってしまう。
眼前に迫る剣先。もはや激痛を越えて、感覚が鈍り始めた右腕。
そのとき、小さな馬のいななきがヴィクターの耳に入った。かなり距離がある場所から。
すると苦い過去の傷でかき乱されたヴィクターの心の内に、別の感情が湧き起こった。
安堵だった。
――シャーロットは無事、逃げられたのか。
(……なら、それでよしとするか)
真実は、シャーロットが持ち帰る。ケインズのことは同僚たちに任せることになるだろう。
シャーロットにとっては、後味が悪いかもしれない。しかしきっと、世間は婚約者を失った彼女に同情する。致命的な醜聞にはならないなら、次の婚約にも望みは繋がるだろうか。
額に汗を浮かべながらそこまで考えて、はたと、自分たちが正式な婚約の告示をしていなかったことに思い至る。
(……しまった。これだとシャーロットが男と旅行するふしだらな女の烙印をおされるのか)
つくづく、肝心なところで抜かる己に苦笑が漏れた。――彼女にはたまったものじゃないだろうが、それで少し結婚が遅れるのも悪くないと、思ってしまった。
死を前にして突然笑みを浮かべた男に、殺人鬼が目を瞠る。
しかし同時に、相手の重みと殺意に耐えていたヴィクターの腕からは力が抜け――。
「ケインズ、あんたの欲しいものはこれでしょっ!!」
そして場の空気を切り裂く聞きなれた声への驚愕で、抜けかけた握力と筋力は瞬時に持ち直した。
***
「――な、なんでまだいるんだっ!」
迫る刃先を間一髪阻んだまま、ヴィクターは突如姿を現したシャーロットへ首を巡らせ、思わず叫んだ。
しかし当人は、その焦燥と苛立ちに満ちた怒声の主には目もくれない。代わりに、その青い双眸はその上にのしかかるケインズへとまっすぐ向いていた。
数分前、馬に乗って走り去った方向とは異なる方の木々から現れたシャーロットは、肩も頭も外套もそこらじゅうが白い雪にまみれている。彼女はそれにも頓着せず、手綱を掴んでいたはずの右手を高く掲げて立っていた。
そこに握りしめられた物を、男たちに見せつけるように。
月光に照らされたそれは、百合の花と天使像を讃える懐中時計であった。
「そんなに欲しいんなら、くれてやるわっ!」
名指しされた執事が呆気にとられているのも構わず、シャーロットは懐中時計を握りこんだ右手を肩ごと後ろに引くと、全力で大きく振りかぶった。暗い湖へ向けて。
止める間も、躊躇いもなかった。
「そんなっ!」
言うなり、青ざめたケインズが宙を仰ぐ。そこを、月明かりを照らし返しながら、銀色の懐中時計が放物線を描いていく。
男は短剣を投げ捨てると、直前まで殺そうとしていたヴィクターのことなど忘れたように、湖上へと走って両手を伸ばす。
しかし、老脚は氷に足を取られてわずかに間に合わず、体は前に傾き、そして無情にもその手の先に懐中時計は落下した。
カン、と固い音をたてて湖面に叩きつけられた後、懐中時計はさらに湖の中央部へと滑っていく。倒れこんだ老執事もまた、這いつくばるように湖面を進む。
「……っ」
ヴィクターもまた一連の展開に蒼白となり、雪に手をつき即座に立ち上がろうとした。――そこで再び、右肩の痛みが男の体を縫い止める。四つん這いから、身を起こす力が入らなかった。
そのとき、呻くヴィクターの横を影が走り抜けていった。男には見向きもせず、黒とも見紛う濃緑の外套を揺らして。
肩を押さえるヴィクターが目を見開く。
「シャーロット、まっ……」
外套から延びた細い右手が落ちていた銃を掬い、湖に向かって引き金を引く。
やはり止める間も、躊躇いもなかった。
銃身から響いた破裂音と同時に、黒い湖面に映る月が歪む。
湖に入った亀裂は、ケインズの足元にできた銃痕を起点に、ぱきぱきという音とともに瞬く間に広がっていく。
やがてとうとう真冬の湖が、その表面を覆う氷の塊を飲み込み始めた。
シャーロットの懐中時計も、同じように。
鳶色の瞳が焦燥に染まる。
痛みを振り切って立ち上がり湖へ向かおうとしたヴィクターだったが、立ちふさがってそれを阻んだのはシャーロット自身であった。
「何してるのよっ! 肩から血が滲んでるのに」
「うるさいっ! そんなことより、あれを、早く取りに行かないと」
湖へは行かせまいとして二の腕を掴んだシャーロットの叱責に、ヴィクターがかつてない剣幕で返す。指差す湖上には、既に銀色の懐中時計はない。
しかし、シャーロットの表情は微塵も変わらなかった。
「いいの! それより、」
「いいわけあるかっ! 水底に沈んだら、もう」
「ヴィクター、いいんだってば!」
大声を出したシャーロットに、湖を見つめたまま女を押し退けようとしていたヴィクターの視線が吸い寄せられる。
信じられないと言いたげなその目を、シャーロットはまっすぐ見返した。
「もう、いいの。許してくれるわ、きっと――おばあ様も」
「……シャーロット、違うだろう、あれは」
「あれは、もともとおばあ様が、わたしとわたしの伴侶の幸せを祈って譲ってくれたものよ」
相手の言葉を遮って話すシャーロットの青い目を、ヴィクターが呆然と見つめる。それを受けて、シャーロットはわずかに目元と口元を弛めた。苦笑のような、どこか困ったような笑みを形作る。
「……なら、これでまちがってないでしょ。婚約解消の理由も、まだ思い付かないんだから」
それにケインズに渡るよりましと言いきる女の両手は、男の二の腕を捕まえたまま離さない。
この先へは行かせまいとするように。
この先を口に出させまいとするように。
「……」
黙りこんだ男の顔は、痛みをこらえるように悲しげに歪んでいた。
理由が肩の傷だけではないことに、相対する女は気づいていないふりをした。
遠くから、複数の人の足音と、「誰かいるのか」と問う声がしていた。
放心状態でへたりこんでいた御者と、ひびの入った氷の上で硬直していた執事が助けられて町の人間に連行されるまで、もう間もなくだった。




