第六十一話 逃走
辺りは真っ暗だ。
すぐそばから、馬のいななきと蹄が雪を蹴りあげる音がした。
「……つくづく身のこなしが軽いようで」
暗闇に、男の苦々しげな声が火薬のにおいと共に漂う。ケインズの声だった。
「お見立てのとおりですよ、伯爵。ベラドンナの毒は、うさぎや鹿には効かない。しかし、毒は身に残り、その肉を食べた人間を襲います。――かつて、公爵家ではその特性を活かし、『特別な贈り物』としてうさぎを育てていたと聞いています。それを贈られた相手が肉を口にした数時間ののち、確実に死に至るように」
直前までシャーロットの足元にあったランタンは撃ち割られ、炎は雪の上でむなしい音を立てて消えていた。しかし間一髪、彼女は手綱を引かれた馬ともども木の影へと引き込まれたおかげで、弾丸はもちろんガラス片のひとつも濃緑の外套を掠めてはいなかった。
だが、シャーロットはその幸運を噛み締めてはいられなかった。今現在、自分が何者かの腕に抱き込まれ、その胸に顔を埋めていることにも気がついてしまい、内心慌てていたからだ。
誰に助けられたかなんて、灯りがなくとも明白だった。
「――くそ、だからさっさとここを離れてほしかったのに」
シャーロットを抱きしめる男の毒づく声に、場違いな気恥ずかしさはいたたまれなさに即取って代わられた。
ケインズはヴィクターの出方を警戒しているのか、はっきりとした灯りが潰えて闇に目が慣れないのか、「出てきてください」と催促しながらも近寄ってくる気配や物音はしなかった。
「ご、ごめんなさ……」
「シャーロット」
腕の中で小さく謝罪しようとしたシャーロットの声が、ヴィクター本人に遮られた。
名を呼ばれた女はわずかに顔を上げる。いつの間にか雪は止み、黒い雲間から細く月がのぞいていた。
初めて会った夜によく似た、冴えざえとした光に照らされた端整な顔が、シャーロットを見下ろしていた。その真剣なまなざしに、シャーロットの心臓が一際大きく跳ねる。
ときめきではなく、緊張で。
「……なに」
「すぐにここから離れてください」
ほとんど息のような声で言われて、シャーロットは目を見開いた。構わず、男は続ける。
「森の中、少し西に動けばすぐに人家があるはず。人を、男手を呼んできてください。拘束したケインズを連行するのに、馬も連れてきてくれるとなお良い。ただ、もしフェリックス殿の泊まった宿にたどり着いたなら、くれぐれも肉類は口にしないように」
「な、なんでっ」
「ウィンバーが何も知らずにあなたを殺す片棒を担がされたように、ウィンリールの宿もケインズから肉を手配されただろうからです。フェリックス殿に出された分の残りだとか、干し肉の形で万が一にも――」
「そこじゃなくて!」
今度はシャーロットが相手の言葉を遮ると、ヴィクターは不可解そうに眼を眇めた。シャーロットは暗い視界の中でも伝わってくる相手の察しの悪さを歯痒く思い、声を抑えたまま噛みつく。
「なんで、わたしひとりで行く前提なのってこと! 一緒に……」
「崖で襲われたときの俺の言葉を、覚えていますか」
――あなたがいなければ追ってますけど?
冷たい指摘に、シャーロットの息が止まった。言外に邪魔だと言われたのだ。
そして、女の喉で言葉が詰まった瞬間を、ヴィクターは逃さなかった。
「――では、のちほど」
「っ!」
体が宙に浮いたと思ったときには、シャーロットは既に馬の上にいた。腰の下で揺れる体躯に、反射的に手綱を握りこむ。
壁代わりの針葉樹の向こうからケインズの声がしたが、何かを叩く乾いた音に気を取られたシャーロットは上手く拾えなかった。
「まっ……」
制止は間に合わなかった。シャーロットを力ずくで馬上に押し上げた人物は、そのままの勢いで馬の尻を叩いたのだ。
暗闇の中、紅茶色の髪が、その下の黒い瞳が月の明かりを反射して、シャーロットの青い目に映り込む。そのかすかな光が、あっという間に小さくなる。
(そんな、戻らなきゃ、ケインズは何をするのかわからな――)
そう思ったとき、背後の闇の中から銃声が響いた。
その音に慄いた己を自覚してしまえば、シャーロットは自分が足手まといにしかならないと認めざるを得なかった。馬の首を巡らせることが、できなかった。
列車の中で赤毛の男を昏倒させたようにケインズの不意を突くなど、できる自信はない。その数秒の躊躇が、シャーロットを湖畔から遠ざける。
シャーロットは下唇を噛みしめて前を向いた。今何をするべきかを、自分は冷静に考えなくてはいけない。ヴィクターが語って聞かせたことを、無駄にしないために。
***
「っ待て! 逃げられるとでも……」
暗がりから飛び出していく馬に気がついたケインズが、銃を握りしめた片手を上げる。遠ざかる一筋の金髪に狙いを定めていた。
しかし、辺りの木々を震わせた銃声は、その指が引き金を引くより早かった。執事の体が強張る。
ケインズは警戒心をあらわに、発砲音がした木の向こうへと声をかける。
「……あの男が死んだとき、まだわたしを疑ってはいなかったはず。なのに、なぜ」
「おや、その言いざまだと、隠し通すのにずいぶん自信があったみたいじゃないか」
夜目に慣れたヴィクターは音をたてずに、ケインズの正面からその左側の木の影へと移動していた。予想外の方向からの声に、執事の顔に動揺が浮かぶ。
「実際、赤毛の男が死んだときには、俺も事件は終息したかと思った。……フェリックス殿が、ウィンリールを通り抜けて進んでいたと知るまではな。
大方、おまえが衣服なんかをあの男にあらかじめ渡していたんだろう。周囲に、公爵家の人間だと錯覚させるような、上等な服を」
そう言い捨てると、ヴィクターはケインズの様子を確認しつつ、さらに別の木の後ろへと静かに移動する。
居並ぶ木々の狭間から、見えない敵の姿を探すケインズが忙しなく周囲を見渡すさまが、黒い影となって月明かりに浮かび上がっていた。
「……どこで、そのことを……ウィンリールの、ことを」
ヴィクターは相手の問いには答えなかった。かわりに、さらに己が知っていることを教える。相手の冷静さを削ぎ落とすために。
シャーロットを追うことを、優先させないために。
「フェリックス殿の亡骸とともに見つかった手紙。あれを作ることをレティシア嬢に進言した人物がいたようだな。
彼女からおまえの名前を引き出すには時間が足りなかったが、この数日見ていただけでも、彼女が素直に言葉を受け入れる相手は限られてくることくらいはわかる」
「……」
ヴィクターは口を閉じる度に自身も移動しながら、ひっきりなしに動く影へ向けて目を凝らした。
撃って動きを止めるのは簡単だったが、死なせないとも限らない。ヴィクターの狙いは別だった。
ただでさえ、ヴィクターは既に共犯者をひとり死なせている。この上、主犯の口まで封じるつもりはなかった。
「自殺に見せるに都合のいい手紙を用意させ、レティシア嬢が兄を呼び出したのに合わせてウィンリール経由で通常より早く着くようにと旅を急がせた。そうだな、メアリー・コートナーと公爵家の指輪に関することで、秘密裏に、大急ぎで来てくれとでも添えたか?」
「だまれっ!」
声のする方にと振り返って、ケインズが引き金を引く。明らかに平常心を失っているところから、当たらずも遠からずかとヴィクターは推測する。
一瞬前まで自分がいた場所に銃弾が撃ち込まれたのを、冷めた目で見つめながら。
「……そして、ランドニアに向かう客人のためにと言って、領主館からウィンリールの宿に毒うさぎを手配。あとはバットンに着いた若君を洞窟に呼び出して、何も知らない宿の人間が供したうさぎの毒が効くのを待つばかり、というわけか。ずいぶん手の込んだ計画だが、悪くない発想だな」
「……どこだ、どこにいる」
注視するヴィクターの目は、呻く執事の手元で何かがきらりと月光を鋭く反射したのを認めた。外套や手袋の布地ではあり得ない光沢。
――あれか。
月光を反射した標的を見るなり、今度はヴィクターが冷たい引き金に指をかける。
左手だからと、外す気はしていなかった。
「予定通り毒がまわって絶命した若君の亡骸近くに、ヒ素が付着した小瓶と例の手紙を置いておく。そうすれば、警察が勝手に自殺として処理してくれるものな」
森の中に、何度目かの銃声が響き渡る。
「……くっ、あ……」
銃を弾かれ動転するケインズの前に、ヴィクターは姿を現した。
「そもそも、いくら体面を重んじるとはいえ、ランドニア公爵とその娘、跡取りの甥と、有力者のほとんどがフェリックス殿の自殺に納得していないのに、検死されずに日が経ってしまったのはなぜか。――誰かが公爵家側からの要請を握りつぶしたからだろう。たとえば、老いた公爵に代わって雑務をこなしていた執事なんかが、な」
丸腰になったケインズの額に銃の狙いを定めたまま、ヴィクターは相手と慎重に距離を詰めていく。
「観念しろ。両手を上げて地面に膝をつくんだ」
終わった。あとはこの男を拘束して、シャーロットが寄越してくれる町の人間が来てくれるのを待てばいい。
ヴィクターは屈辱や憎悪を滲ませた男の両目を見つめながら、そうと知られないようひっそりと嘆息した。
シャーロットを持ち上げたときからぶり返し始めていた右肩の鈍痛を、無視できなくなっていた。
しかし、男は膝を折らない。今やしわの刻まれたその額に、ぴたりと冷たい銃口が突き付けられているにもかかわらず。
「……伯爵。お言葉ですが、わたくしが頭を垂れてお仕えするのはランドニア公爵家の方々のみ」
その言葉を聞くと、ヴィクターは眉間にしわを寄せた。
「よく言う。ランドニア公が実にタイミングよく倒れたのも、おまえの仕業だろうに」
公爵が話せなくなれば、自殺として事実は闇に葬り去られる。たとえ殺人の疑いありと調べられても、フェリックスが馬車で動いたと思われている限り、怪しまれるのはレティシアという徹底ぶりだった。
唾棄すべき狡猾さに、ヴィクターの口の端が皮肉気に上がった。
「ステューダー伯爵。あなたを含めた高貴な方々が、家に関する日陰の仕事、地味な仕事、面倒な仕事はほとんど我々執事に任せておられることをお忘れですか」
「……何が言いたい」
恨み言かと流そうとしたとき、ヴィクターの背にぞくりと悪寒が走った。
「……使用人の雇用も、解雇も、わたくしの業務のひとつだということですよ」
誰かがいる。
ヴィクターが背後のかすかな足音に気を取られたその瞬間、短剣を握りしめたケインズが飛びかかってきた。




