第五十九話 暗い森
「まったく残念です。あのうさぎを食べていて下されば、こんなところで、こんな寒さを味わっていただく必要もなかったのに」
シャーロットは呆然と、フードを下ろした男の顔を見つめた。
日はとうに落ち、やまない雪が二人の間を隔てている。ランタンの光がぼんやりと照らす中、視界はけして良好ではない。
だというのに、ブレイド・ケインズの瞳とその手の銃口が、ひたと自分に向けられていることははっきりと視認できて、見間違えようもなかった。
「……驚きました。まさかフェリックス様に、あなたのようなご関係の女性がいただなんて。――どうりで、遺体から探しても指輪が見つからなかったわけです」
「……指輪?」
――遺体から探す?
指先から這い上ってくる緊張感に包まれながら、シャーロットの頭に疑問符が浮かぶ。と同時に、まさかという推測も頭をもたげる。
浮かんだ予想に、脈が早くなり、口の中が渇いていく感覚を味わう。
それに対して、男は至極冷静だった。
「わたくしも手荒な真似はしたくありません。要求はただひとつ、あの懐中時計を、こちらに渡してください」
そう言うなり、ケインズは銃を持たない左手をシャーロットに向けて差し出してきた。
「そこに指輪が、もしくはその在処の手がかりがあるのでしょう?」
その言葉に、シャーロットの頭はますます混乱した。
(な、なにを言っているの、この人)
しかし、はっきりとわかることがひとつある。シャーロットはごく、と唾を飲み下した。
「“フェリックスのことで、勘違いしている”……そういうこと、ね」
喉から絞り出した声は震えていた。寒さのせいだけではない。
「あなたが、殺したのね」
口髭の奥からの返事はなかった。
しかし、否定されないということが、その沈黙の意味するところを十分に示している。
恐怖で満たされたシャーロットの頭の奥で、沸々と沸き出す怒りがあった。
ぴくりとも動かないケインズに向け、シャーロットの口調は徐々に熱を帯びていく。
「レティシア様を閉じ込めたのも、あなたね。赤毛の男も仲間だったの? あなたが、私たちと同じ列車に乗せて、ランドニアに手引き、っ!」
したの、と、最後まで言い切る前に、銃声が鳴り響く。
眉ひとつ動かさずに引き金を引いたケインズは、急かすように左手の指先を揺らした。
「ここであなたと長話をする気はございません。……女性の悲痛な声は、聞きたくない。どうか、おとなしく懐中時計を」
足元の雪を穿った弾痕は、シャーロットの喉を一瞬で凍らせた。
闇の中、シャーロットは奥歯を噛み締めながら、なんとか銀色の鎖を外套の下から引き出した。
しかし、投げて寄越せと言わんばかりのケインズの顔を見つめながら、シャーロットは逆にぐっと強く、その鎖を握りしめた。
「……どうやったの」
ランタンに照らされた、ケインズの白髪まじりの眉がぴくりと動く。
「教えて、どうやったのか。フェリックスが死んだとき、あなたはあの城館にいたって、あれは嘘だったの?」
「……今さら、それを知っても仕方のないことでしょう。さあ」
「っ!」
ざく、と音をたてて、ケインズが一歩シャーロットに近づく。と同時に、シャーロットは思わず一歩、後ろに下がってしまった。
それを見たケインズの顔が曇る。
「そうですか。素直に渡しては、いただけないのですね」
男の右手を注視していたシャーロットは、それを聞くと弾かれたように叫んだ。
「わかったわ、ほら!」
そして、ランタンの光が浮かぶ闇に向かって、手の中のものを鎖ごと放り投げた。
「なっ!」
高く放り投げられたそれを目で追って、ケインズの視線は森の中の闇をさまよう。
シャーロットはその隙を逃さず、身を翻すと全力で走った。ランタンの光の及ばない、暗い森の中へ。
「っくそ!」
背後で男の悪態が聞こえた。手にしたものを、雪の地面に投げつけたような音も続いた。
シャーロットは振り返りもせずに走りながら、本当にあの男が殺したのだ、と実感した。
(あれが、あれこそが本当にフェリックスの遺品なのに)
館に置いていこうとした、緑の燕。
しかしそれを、二人の思い出が何もない地には残して行きたくなかった。
せめてコートリッツにある、フェリックスの墓前に。そう思って懐中時計と共に持っていたブローチを、時計を外した鎖に絡めて投げて渡したのだ。
相手の言う懐中時計は、嫌な予感がして渡したくなかった。
(懐中時計よりよっぽど見覚えがあるはずなのに、あいつはそれを投げ捨てた)
シャーロットは雪を蹴る足に力を込めた。
しかし、相手は馬を連れている。それほど遠くないところから、馬のいななきと蹄が雪を踏む音が聞こえた。
――逃げないといけない。こんなところで死んだら、誰にも見つけてもらえない。
心臓が破れそうなほど息があがっていたが、焦りと恐怖が足を前へと動かす。
そうして闇雲に走っていたシャーロットだったが、足元から伝わる感覚の変化に、とっさに足を止めた。
足が埋まるほどの雪のさくさくとした脆さは消え、代わりに固く、滑りやすい何かを踏みしめていた。足をとられて転倒する前にと、シャーロットは慌てて雪に覆われた地面へ、一歩後ろに下がった。
「――氷っ?」
(そうか、ここ、湖……)
はたと地図の記憶が呼び起こされたそのとき、シャーロットは再び銃声を聞いた。音はそう近くもなかったが、立て続けに二回響いたそれに、威嚇されているのかと身をすくませる。
「はっ……はぁっ……はぁっ……」
凍てつく木の幹に手をついて、声を潜め息を整えようとした。がしかし、間もなくして、蹄の音が自分にまっすぐ向かってきていることに気がついた。
振り返れば、ランタンらしき光もじわじわと近づいてきている。
「――っ!」
逃げなくてはとわかっていた。
それなのに、足も心臓も、とっくに限界が来ていた。
もう、一歩も動けそうにない。
(こんなところで、たったひとりで、わたし死んじゃうの?)
脳裏を過ったその可能性に、恐怖に混ざって悲しみが押し寄せる。
ああ。
それなら。こんなことなら。
(もう二度と、会えなくなるんだったら……)
馬が近づいてくる。光が、もうすぐそこまで迫っている。
(言っておけば良かった……)
――呆れられても、浅ましくても。なにも言わずに、すべての可能性が閉ざされるくらいなら。
「好きって、言っておけば良かったのに……」
せっかく話してくれたのに、彼の失敗から、自分はなにも学べていなかった。
そんな思いとともに口をついて出た後悔は、迫りくる馬と人影を前に、今さら誰にも届かない。
「……ごめんなさい、ヴィクター」
凍った湖の縁でくずおれたシャーロットの頭上において、馬の吐く白い息がオレンジ色の光の中に浮かび上がる。
目を閉じる一瞬前、馬上の人影の手に握られた銃が、炎の光をちらりと反射したような気がした。
「――結構ですよ。今さら、らしくもない謝罪のひとつやふたつ」
そのかわり、到着が遅くなったことも、許してほしい。
シャーロットは固まった。
頭上から降ってきたのは、嫌みがちで、偉そうで、誰より聞きたかった男の声だった。




