第五十八話 うさぎ
雪は降りやまないまでも、そのペースは幾分か緩やかになりつつあった。
(……午後から動けるかしら。でも雪深いと馬車の速度も落ちるわよね。明日にするべきかしら)
そう思いながら、シャーロットは厚いカーテンの隙間から窓の外を眺める。客室まで運ばれたラム酒の染み込んだブリオッシュは、すでに皿の上から消えていて、あとは紅茶を残すのみである。
一見すると早めの優雅なティータイムだが、予定では宿で用意された昼食を手に、今頃シャーロットは元来た街道を戻ってノーバスタを目指しているはずだった。
しかし、朝がきて起きてみれば、大ぶりな雪の粒とともに風の吹きすさぶ悪天候であった。北国の風雪に恐れをなしたシャーロットは、やむなく宿で時間を潰すことと相成った。
はやくこの地から立ち去りたいのに、ままならぬことだ。
(こんな天気になったけど、昨日の郵便、大丈夫だったかしら)
くれぐれも早馬でと念押しした手紙は、ちゃんと届いただろうか――ヴィクターの元に。
(なにか、仕事の役に立つかなと思ったけど、今さらだったかしら)
ヴィクターの仕事も、もう終盤にさしかかっているだろう。不要だったかもしれない。しかし念のため、と思っての行動だ。
最初に協力すると言ったからには、きちんと最後までやり遂げたかった。
何も、フェリックスの手紙を持つことに罪悪感を覚えたから、というだけではない。
「……というか、わたしからヴィクターへの封書だからって、レティシア様ってば検閲とかしてないでしょうね」
シャーロットの顔が不愉快げに歪んだそのとき、扉を叩く音が部屋に響いた。
間髪いれずに御者の声がつづく。どこか緊張したような、堅い声音だった。
「あの、フェルマー様にお会いしたいと、外でお待ちの方がおりまして……」
「え?」
扉の外からの言葉に、シャーロットは戸惑う。一体誰がこんなところで自分を訪ねてくるのかと。
(……まさか、追いかけてきたの?)
どくん、と心臓が大きく脈を打つ。
すぐにいくわ、と扉の外に投げかけると、鏡で髪型と口元を確認した。部屋を出て小走りで階段を下りたシャーロットは、カランカランと戸口の鐘を震わせて雪の降る外へと飛び出した。
しかし、白一色で覆われた玄関先で待っていたのは、紅茶色の髪の、背の高い男ではなかった。
「あら。……どうしたの、ケインズさん」
いけないと思いつつ、シャーロットは自分があからさまに落胆していることに気づいていた。
――仕事を終えずに、彼が来るわけがない。終わらせて来たとしても、今さらどうして自分に会いに来るというのか。
そんな忸怩たる思いに囚われるシャーロットの心の内も預かり知らぬことと、公爵家の執事は丁寧に腰を折る。ケインズは灰色の外套を着込み、フードを深く被っているので、ともすると雪に溶け込んでしまうかのようだった。
シャーロットは気を取り直す。
「雪まみれじゃない、すぐに宿へ入って。きっとまだ部屋は空いているわ」
「いいえ、お気になさらず。ああ、忘れないうちに、ぜひこれをウィンバーへ。シャーロット様のご昼食に、是非にと」
その言葉とともに渡された革製の袋に、シャーロットは首を傾げた。ずいぶん重みがある。
「うさぎですよ。朝に絞めて、下処理と香草付けを終えたものですから、お早目に。バットンやフレックは町が小さいので、お客様や公爵家の方々がお泊りになる際は、領主館から食材を回すことも多いのです」
中に入っているものが生肉だと分かると、シャーロットは開けようとした手を鞄の留め金から外した。
「……それからもうひとつ。ご昼食のあと、すこしお時間を頂けませんか」
「え?」
「ほかでもない、レティシア様から離れ、ダミアン様にも内密で来た理由を、お話しなければならないのです。――フェリックス様の件で」
シャーロットはそれを聞くと顔色を曇らせた。
「そのことなら、もういいわ」
「いいえ、よくありません。シャーロット様、あなたは誤解なさっている。どうか、この召使めのお言葉に耳を傾けてはくださいませんか。公爵家のお二方には内密にするため、誰にも、知られぬように」
そこまで言われると、シャーロットも落ち着かなくなってくる。
誤解しているとは、どういうことか。
「……わかったわ」
父からの迎えには、少し待ちぼうけしてもらうことになりそうだった。
***
正午もとうに過ぎた頃、約束のとおり、外套を着込んだシャーロットはウィンバーに『すこし外に出てくる』とだけ言って、町の南端でケインズと合流した。ケインズは栗毛の馬を一頭、手綱で引いていた。
「お食事はお済みですか、シャーロット様」
「え? あ、ええ、大丈夫よ」
「結構です。では、申し訳ございませんが、ともに少し、馬で移動していただけませんか」
言われたシャーロットは戸惑いつつも、促されるままにケインズの馬に乗る。その後ろ、シャーロットを抱えるようにケインズが跨がると、馬は街道から離れて南へと走った。
馬上から振り返ると、真新しい足跡は、新たな雪に掻き消されていくところだった。
「……ここは、もしかしてウィンリールの森?」
どれほどの時間走ったのか、すでに時刻は夕刻に差し掛かろうとしていた。馬から降ろされたシャーロットは厚く積もった雪を踏みしめ、寒さに手のひらをすり合わせながら、薄闇の広がる周囲に目を凝らす。
日が落ちるのが早いせいもあるが、薄暗さはバットンの森以上かもしれない。というのも、冬でも細長い葉が落ちない木々に囲まれ、その一本一本、枝葉に至るまで、厚く雪が降り積もっていたからだ。
光の届かない森の中で、シャーロットはコートリッツの自邸で見た地図帳を思い出す。そういえば、森に囲まれたウィンリールは街道ではつながっていなくとも、バットンにほど近かったと。
「こんな時間に、遠くに来るなら、ちゃんと食べておけば良かったかしら」
懐中時計の短針が右下を指しているのを確認して思わずぼやくと、遅れて馬から降りたケインズが「え?」と聞き返してきた。
「ご昼食は……?」
シャーロットはぎく、と固まった。気まずさゆえに、ケインズから目を逸らして歯切れ悪く答える。
「いえ、その……あのときはラム漬けのブリオッシュを頂いた直後だったから、うさぎは夕食に回すようお願いしてしまっていて……」
せっかくの厚意を無下にしたようで心苦しかったが、シャーロットとて無限になんでも食べられるわけではない。ウィンバーは心得たように「では、これはフェルマー様の今夜の食卓に」と笑っていた。
「……なるほど、そうでしたか」
――どうりで。
「え?」
ケインズの小さな呟きは、シャーロットにはうまく届かなかった。
シャーロットは聞き返そうと振り返り、改めて相手の顔を見つめる。ケインズの左手には、灯したばかりのランタンの火がある。それが、外套の下の顔をゆらゆらと照らしていた。
右手に構えられた短銃とともに。




