第五十七話 甘い香りの漂う暖炉(2)
「……公爵家において、メアリーがわたくしの支えとなってくれたことはお話済みでしたわね。彼女は、人から隠れて生家の父の思い出を話すわたくしに、やはり五年ほど前に亡くなった彼女の母君のことを聞かせてくれたりもしました。メアリーを産む前は、公爵家に勤めていたそうで……」
メアリー・コートナーの母親も公爵家の使用人だったとは、ヴィクターには初耳である。雇用主との不適切な関係によって屋敷から出されたのかもしれない。であれば、外聞を気にする公爵家から、その事実は念入りに隠されたことだろう。
「父はおらず、天涯孤独になったところで、とあるつてでわたくしの女中としてここに来ることができたと、そう言っていました。ただ、わたくしが最初の父のことや、二人目の父――公爵のことを話すとき、とても切ない顔をしていたのを覚えています。……今思えば、羨ましがられていたのかもしれませんわ。血の繋がりのあるあの子が娘と認められず、故人を本当の父と慕うわたしが娘を名乗っていたのですから」
レティシアの表情が曇る。喪った兄妹への慕情がそうさせたとでもいうように。
――あるいは、何か痛みを伴う記憶が呼び起こされたと推測できるような、歪んだ顔だった。
「あとから聞かされたのですが、フェリックスは早くからメアリーの出生を本人から知らされていたみたいですわね。……わたくしは」
常よりさらに青ざめたレティシアがごくり、と唾を飲み込んだ。その背中に手を回したヴィクターが「続けて」と耳元で先を促す。
「わたくしは、ずっと何も知らず、あの子に無神経な悩みを聞かせていました。……あるときから、おかしいとは思っていたのです。フェリックスが、父と密かに口論することが増えて。兄は父に意見することはあっても、温厚で、ダミアン相手であっても揉めるようなことはなかった人なので」
おそらく、それこそフェリックスがメアリーのことを世間に公表するよう直談判したときだったのだろう。
「……フェリックス殿は、ずいぶん前からメアリー嬢のことを知っていたと言いますが、いったいいつ頃から公爵と話を?」
「いつかしら、はっきりとは……ただ、昨年の夏の始め辺りにはもう、父とふたり、部屋に籠ることが増えていました。ただ、父はメアリーの存在を公表するどころか、彼女を娘として兄の前で認めることすらしなかったようです」
「……夏の始め」
口の中で呟いて、かつてシャーロットが言っていたことを思い起こす。
『彼とはじめて会ったとき。去年の騎士競技大会よ』
フェリックスがシャーロットと出会ったのは、去年の春だ。
「……そう、シャーロット様と出会ってから、しばらくして、という頃ですわね」
レティシアも同じことを思っていたらしい。ただ、懐かしむように苦笑いをするレティシアに対し、ヴィクターは複雑な気持ちで眉を寄せた。
(フェリックス殿は、まさか……)
口元を手で覆うようにして、一瞬考え込んだヴィクターの沈黙を、レティシアは気に留めなかった。
「一度だけ、書斎の前を通ったとき、兄の声でメアリーと聞こえたような気がして」
そのとき、胸騒ぎを覚えたレティシアは、メアリーにフェリックスと何かあったのかと問い質したという。
「メアリーは何もないと言いましたわ。でも、あるときわたくしの部屋を整えるあの子のお仕着せから、とんでもないものが転がり落ちたのです。――これです」
箱をマントルピースの上の棚に置いたレティシアは、ためらうことなく、その胸元からシルクの小さな袋を取り出した。
「……それは」
その中身をもあらわにすると、さしものヴィクターも瞬きを忘れて凝視した。
まぎれもなく、それはビロード張りの箱に入った指輪と全く同じ意匠、大きさの指輪だった。
「拾い上げたわたくしは、ひどく焦りました。まさかあの子が、ランドニアの城館から盗んだのかと。その場で問い詰めると、あの子は観念したように、亡くなった母から『自分の父親は公爵家で一番偉い人だった』と聞かされていたのだと言いました。
……そしてこの指輪は、父親との繋がりを示す品だと言ったのです。母君のお葬式に来た父親の代理人を通して、許しがあるときまでは誰にも知られずに持ち続けるように言われたと」
名乗るべきときは教える、それまでは、軽々しく暴露してはいけないと。
「それを聞いたわたくしの衝撃といったら……。フェリックスも含め、生まれの秘密をずっと隠されていたことはもちろん、――母が持つはずの指輪を、あの子に渡されていたことも、信じがたかった」
レティシアの声がだんだんと小さくなる。ヴィクターは横目で相手の様子を確認してから、火かき棒で暖炉の灰を少し除けた。短い沈黙の狭間で、ぱち、とはじけるような音が響く。
「だって、まるで、母とわたくしが……追い出されるような、そんな危機感に襲われて」
蚊の鳴くような告解に、なるほど、とヴィクターは口には出さずに納得した。
レティシアは、母親も承知の上でとはいえ、すでに一度家を追い出されるという経験をしている。
メアリーが迎えられれば、公爵と血の繋がりもなく、年月の結びつきも浅い自分たちの立場はどうなるのかと、恐れたのだ。
「気がついたときには、ずいぶんな言葉をあの子に浴びせた後でした。……身の程知らずだとか、泥棒猫の血だとか、覚えてないだけで、おそらくもっとひどいことを」
レティシアの声が震える。この先を口にするのが恐ろしいと全身で訴えていた。
しかしヴィクターは「それで」とやんわりと追及することをやめなかった。
「……そ、それから、わたくしはメアリーを無視するようになりました。それで、あの子が落ち込み、気に病んでいるのを知りながら、どうにも気持ちが収まらなくて……己の狭量さへの嫌悪と未来への不安、黙っていたフェリックスへの不信でいっぱいになっていて、メアリーが夜もろくに寝られなくなっていたことも見て見ぬふりをして――そうしてある日、あの子は屋敷の階段を踏み外して、そのまま……あの子は、わたしの前から、永遠に姿を消してしまったのです……」
再び沈黙が訪れた。
懺悔、と言ったのはそういうことかと、ヴィクターは静かに受け止めた。
ここまで話してしまえば心のつかえもとれたのか、レティシアはそのまま話し続けた。
「わたくしは迷いましたが、メアリーから取り上げてしまった指輪をもって、この部屋に来ました。けど、いざこの箱を開けて、わたくしは驚き、そして理解しました。箱には指輪がちゃんと入っておりました。つまり、メアリーが持たされていたものは、偽物だったのですわ。
そうなると一層メアリーが憐れで……だってこの部屋に入れるわけがないあの子が、見たこともないであろう指輪の偽物を、自分で用意できたはずがないのです。あの子はくることのない許しを待ちながら死んでしまったのです。わたくしは途方にくれて、フェリックスに手紙でことのあらましを伝えました。するとすぐに返事が来て、自分も行くから、誰にも言わずに待っていろと……」
そして、その道中でフェリックス・ロザードは亡くなった。
「……後悔しました。あのとき、メアリーを責めたりしなければと。勝手にここに来たりしなければ。そのうえ、おめおめと何者かに閉じ込められたりして。結果的にわたくしは指輪のことどころか、あの日の詳細を、父や母にも、ブレイドにも、警察にも、誰にも言えなくなっていました」
レティシアの目はうっすらと涙をたたえながら暖炉の火を見つめている。
「今、あなたがその指輪を持っていることを知っているのはどなたです」
「……フェリックス以外、誰も。偽物でも、あの子は本物と信じていたのだから、お墓に入れてあげたい気持ちです。ここから帰ったら、ブレイドに打ち明けて、あの子のお墓をこっそり掘り返してもらえないかと」
「……そうですか」
俯いたままのレティシアをよそに、ヴィクターは険しい顔をしていた。
しかし、それに気づく者もおらず、ひっそりとした告解を終えたふたりは部屋を出た。
「そういえば、メアリー嬢への手紙を墓に入れる件について、公爵は了承していたのですか」
「言っておりませんわ。提言されて、こっそり実行しようとしたので……」
――提言。
相手のゆっくりとした歩調に合わせて歩きながら、ヴィクターはさらに質問を重ねようとした。
しかしそれは、角から現れて「伯爵、少しよろしゅうございますか」と声をかけてきた女中頭によって霧散した。二人は足を止める。
「こちら、また速達のお手紙が届きましてございます」
ヴィクターは受け取りながら、思い当たるものがなく、内心訝しんだ。
しかし、差出人をみるなり、驚きにその目を見開いた。
「――レティシア嬢は、すこしお疲れのようですから、お部屋へご案内してあげてください。では」
そう言って女中頭にレティシアを預けると、ヴィクターはそれきり振り返りもせずに立ち去った。
哀れに思わないでもなかったが、効果が切れれば体に害は残らないと知っていればこそ、心配はしていなかった。
一方、廊下にぽつんと取り残されたレティシアは、ふるふると頭を振って首をかしげる。
いつからか、頭がぼんやりしている気がする。しかもとてつもなく眠い。
ヴィクターが離れていったことは残念だが、今は追いかける気にもならない。せっかくシャーロットがいないのに。
そう思いながらも、レティシアは女中頭に促されるまま、倦怠感と共に自室へと戻ることにした。なにも考えたくない気分だった。
「……ああ、マーサ。暖炉を使ったから、掃除しておきなさい」
はいお嬢様、と女中頭が鍵を受け取りながら応える。
――人のいなくなった公爵夫人の部屋では、すでに暖炉の火も消えかけていた。
ヴィクターが何食わぬ顔で香油を染み込ませた薪も、もう跡形もない。
紅茶髪の伯爵が、思考を鈍らせる暖炉の香りを吸わないようそれとなく払っていたことも、必要とあらばどんな手段も講じる男だなんてことも、今のレティシアの頭では思いもよらないことであった。
***
「……これは」
開いた便箋に目を走らせたヴィクターは、戻ったばかりの自室から外套を手に飛び出すと、最初に行き会った使用人を呼び止めた。
「失礼、ダミアン殿はどちらに」
勢いに気圧されつつ使用人が答えると、「それから、」とさらに質問を重ねる。
大きく波打つ鼓動の音に、嫌な予感を覚えながら。




