第五十二話 慰めのチョコレート(2)
シャーロットは逸れた思考の軌道をもとに戻した。
ヴィクターは、判断力が落ちていたレティシアの証言を疑っていない。シャーロットとて、レティシアが泣きの演技で自分を騙したとは思っていなかった。
けれど、一対一で話したダミアンの様子を知っているシャーロットには、彼のこともそう悪い人間には思えない。
(……それにしても根が深いわ、この二人の確執は)
もしかすると、レティシアのダミアンに対する頑なさは、叔父一家への逆恨みをも重ねているがゆえではないか。シャーロットにはそう思えた。
フェリックス亡き今、仲裁に入れるのは、おそらく執事のケインズだと予想できる。彼は強いていうならレティシア寄りに見えたが、本人は至って中立的な見方をしているようだった。
「しかも、殺すだけじゃ飽き足らず、あの手紙まで使って自殺者に仕立て上げるだなんて!」
「……手紙?」
思わぬ言葉に緊張を抑えて、シャーロットが聞き返す。レティシアは口惜しそうに答えた。
「だって、お兄様が自殺だと思われて、ろくに検死もしてもらえなかったのは、遺書があったせいでしょう。でもあれは、わたくしがお兄様に書くよう勧めたものであって、遺書なんかではなかったのに……っ」
目を丸くしたシャーロットに、「伯爵は、あなたにこれは言っていらっしゃらないの?」とレティシアが怪訝な顔をした。
「え、ええと、ちらっとだけ……」
「“一族の墓に入れないメアリーのために、棺の中にお手紙を添えてあげましょう”と、わたくしからお兄様に伝えましたの。……それを、誰かが持ち出して、お兄様の亡骸の近くに置いたとしか思えませんわ」
ヴィクターは、これも聞きだしていたのだ。
(い、言ってくれればいいのに……!)
とはいえおそらく、レティシアを疑って興奮状態だったシャーロットは『言葉巧みに遺書を書かせただなんて、なおさら怪しいじゃない!』と喚いたに違いないのだ。
そして同時に、シャーロットはそのときに聞かされたケインズの言葉を思い出した。
「メ、メアリーさん、あなたのお付きの女中だったみたいですけど、公爵閣下の娘さんだったのですよね? その、事故死だったと聞いていますけど」
「……ええ」
「……あの、本当に事故死だったんですか?」
機嫌を損ねてしまうだろうかと、シャーロットは恐る恐る口にした。
レティシアは怒らなかったが、その顔に翳りが生じる。
(なにか、後ろめたいことがある?)
しかし、シャーロットの疑念を振り払おうとするかのように、レティシアは俯いたまま、かぶりを振った。
「……事故死ですわ。確かに。……ただ、もしあれが、神様の采配なのだとしたら、……天罰は、わたくしに下ったのでしょう」
段々と小さくなる言葉に、シャーロットは戸惑った。
どういう意味か、さらに訊ねようとするも、レティシアはそこでわっと顔を覆ってしまった。
「あんな形でメアリーが亡くなって、結局由緒正しい家の血を継いでいることを世間に知らせることもできなくて……手紙と言われたときには良い考えだと思ったのに、それも悪用されるだなんて……!
このままお父様まで亡くなっては、お兄様にもメアリーにも、顔向けできない、そう思ってお兄様のやり残した仕事を完遂しようと思ってきたのに……運命みたいに会いにいらしたステューダー伯爵も、なんだか恐ろしい方だし……」
顔を伏したレティシアの肩に、長い黒髪が落ちかかる。せき止めていた感情の塀が決壊した相手を前に、シャーロットは慌ててその隣に移動し、薄い肩を抱いた。
「だ、大丈夫っ! ヴィクターがきっと解決してくれます! 言ったでしょう、わたしたち、そのために来たのですし」
「……シャーロット様はお幸せね。そこまでしてくれる婚約者を見つけられて」
「そこまで?」
「だってそうでしょう。普通、婚約者の昔の恋人のために、こんな不便なところに、わざわざいらっしゃらないでしょう。しかも、万が一にもフェリックスとのつながりを世に悟られないように、あなたの名前を隠して」
シャーロットは明後日の方向を見ながら、「え、ええ、彼はああ見えて情の深い人ですから……」と言葉を濁した。
アデルの件を思い返せば、情が深いのはなまじ嘘でもないが、ヴィクターは女王命令で来ただけだ。
「そのうえ、ロザード家の娘に一服盛るだなんて。……恐ろしくも、羨ましいことだわ。わたくしなんて、領地内といえども、不審者に攫われて一日以上も閉じ込められていただなんて知れたら……」
昨日までの傲慢さをすっかりどこかに置き忘れてしまったかのような弱々しさに、シャーロットも反射的に慌てた。どうにか元気づけようと、テーブルの上で湯気を消していたチョコレートのカップを持たせる。
「あの、でも、ヴィクターは確かにいい人ですけれど、わたしもそんなに甘やかされているわけではなくて」
「……」
励まそうとするシャーロットへの返事代わりのように、レティシアが一口、カップの中身をすすった。
「いつもはもっと、わたしに対しても言うことは冷たいし、今日も屋敷に置いて行かれそうになりましたし」
「……」
無言でまた、カップの中身が減る。甘い上に、リキュールなのかジャムなのか、華やかな果物の香りづけまでされた逸品だ。使用人の意図は知らないが、気分が落ちたときの飲み物としてはいい選択である。
「かみ合わないところも多くて、レティシア様から聞いたことも、結局重要なところは伏せられて。それこそ、あなたが閉じ込められて動けなかった、という話も、きっとレティシア様の名誉を慮ってわたしに隠していたのでしょうし」
「…………伯爵、そのこと、話してらっしゃらなかったの?」
黙りこくっていた公爵令嬢から反応があったことに、シャーロットは安堵した。笑顔で肯定する。
「ええ! まったく、言ってくれませんでした!」
「……まったく……」
「もう、わたしが怒っても泣いても言ってくれなくて、この男、どうしてやろうかと思ったくらいに!」
調子よく言い募るシャーロットだったが、そこでレティシアがぱっと顔を上げた。頬にはかすかに濡れた跡はあったが、今はバラ色に上気している。
――おや? とシャーロットが首をかしげても、もはや後の祭りであった。
「ああ、やっぱり素敵な方……シャーロット様への義理立てよりも、このわたくしの名誉を、誇りを、重んじてくださった……!」
そう言うと、レティシアは両手で持ったカップを再び口元で傾け、そして今度は幾分か残念そうに独り言ちる。
「そうするとやっぱり、我が家からの打診を受けてくださらなかったことが悔やまれますわ……。ワーガス家であれば、ロザード家に対してもまったく負い目を感じることなどなかった筈なのに……なんでフェルマー家と……」
シャーロットは、客人の存在を忘れたかのようにぶつぶつ言い始めたレティシアから自分のカップへ、じっとりと視線を移す。
彼女は短期間で立て続けに身内を喪い、少し精神が不安定なのだろうかと勘ぐる。
――あるいは、あのカップにも何か、混ぜ物でも入っていたのだろうか。
慰めを後悔するほど素直になってしまうような、何かが。
ところがそんな疑いは、廊下に繋がる扉からの控えめなノックで、ものの見事に消し飛んだ。
入ってきたのは執事ではなく、年配の女の使用人だった。ランドニア領主館での女中頭であるが、手には白い封筒を持ち、その顔はどこか青ざめている。
「まず、こちらステューダー伯爵宛の郵便物でございます。早馬で届いた模様で」
早馬、ということは急ぎの報である。まさか仕事関係のものかと、シャーロットは即座に「わたしが預かります」と立ち上がった。
受け取って見れば、白い封筒にはヴィクター宛の名前はあるが、差出人は書いていない。
(……バットンでの報告に、もうコートリッツから返事が?)
いくら速達でも、無理がある。
仕事関係ではなく、ノーバスタで会ったグレッグ・ノラートからだろうかと、シャーロットか消印を確認しようとしたときだった。
「それから、お嬢様。森を含めたお庭を隅々まで探索しましたところですね……」
そこで言葉を惜しんだ女中頭はシャーロットをちらりと見た。が、レティシアに急かされると、言いにくそうに報告した。
――敷地内の崖下で、赤毛の男の遺体が見つかった、と。




