第四十九話 彼が許せなかったこと
しかし、ヴィクターの話は終わっていなかった。その顔を見れず、左肩を見つめるしかないシャーロットの耳元に、男の息がかかる。
笑ったようだった。けして、愉快な気持ちからではなく。
「……ロバートの名誉のために言うなら、ふたりが、真実、どんな関係だったのかは、結局わからないんです。もしかしたら、アデルの一方的な思いだったのかもしれない。どちらにしろ、俺は、ロバートの訃報に呆然としたアデルをみてはじめて、彼女の気持ちの在りかに気がついた」
そこまで言ってから、少しの間があった。傷が痛むのか、熱が苦しいのか。シャーロットが心配したそのとき。
「……“気がついた”なんて、今さら卑怯な言い方だ。俺は、その後も、目を逸らし続けたんだ」
「……え?」
「シャーロット。あの夜、あなたに聞きましたね。真実を知っても、その恋を、悔やむことなく受け入れられるかと」
――俺には、それができなかった。
「……あ」
ヴィクターは、覚えていたのだ。ノーバスタで旧友に会った夜、酒に酔ってシャーロットに問いかけた言葉を。
そしてシャーロットも、唐突に理解した。ヴィクターの問いかけは、シャーロットとフェリックスへの単純な興味によるものではなかったのだと。
「そのときの俺は、彼女の様子がおかしくなったことに気がついていながら、何も聞かずに、日常に戻ろうとしました。ロバートのショックもありました、けど、でも確実に、それで視野が狭くなっていて、気が回らなかったなんて話じゃないんです。
……時間が経てば、賢い彼女も、あるべき態度に戻ってくれると信じて、……立場も、事情も顧みないような人じゃないはずだからと。そう、甘えて」
『愛するものがいる人は、ときに立場も事情も顧みなくなることがある。そういう恋も、あるのでしょう』
あれは、シャーロットがヴィクターと初めて出会った夜のことだった。
シャーロットは、彼の瞳から、“嫌悪”を垣間見た。
「……」
「そうして、不都合な真実から目を逸らしているうちに、……彼女は消えた。侯爵にも黙って、どこかに消えてしまったんだ」
そうして、男の最初の婚約は解消された。秘密をくるんだまま、無責任な醜聞だけを握りつぶして。
シャーロットの胸が詰まる。ダミアンの言った噂はこういうことだったのだと、静かな衝撃にうちひしがれる。
完璧な淑女のように見えていたアデルにとっても、すべてを自分の胸にしまい続けることは酷だった。責められることも、許されることもなく、表立ってロバートの死を嘆くこともできないままに過ごし続けることが。
「……後になって、気がついた」
見上げた先の、鳶色の目は伏せられていて、ランプの炎も映らない。
「あなたにさえ見抜かれたことを、彼女には一度も言っていなかったな、と」
好きだと。愛していると。
ロバートへの思慕を、責めればよかった。自分を見てくれと、縋ればよかった。たとえそれで、結局二人の関係が破綻するとしても。
何も言わないまま、アデルの生死もわからなくなって、すべての可能性が閉ざされるより、きっとずっと良かった。
(……だから)
伯母の屋敷で感じた、ヴィクターの目の奥に潜む、身分違いの、自由な恋愛への嫌悪。
あれは、シャーロットとフェリックスの関係を指してのことではない。もちろん、フェリックスとメアリーのことでもない。
まして、アデルとロバートのことであるはずがない。
――あれは、真実を受け入れられなかった、直視することさえできなかった自分自身への後悔と嫌悪だったのだ。
(だからだったのね)
「それが、同行を許した本当の理由だったのね」
この男は、シャーロットを通して、自分自身を見下していたのだ。
「わたしが、愛した人に裏切られて、見捨てられて、それでどうするのか、あなたは自分以外の人間で確認したかったのね」
「……軽蔑しましたか」
「まさか」
即答したシャーロットに、戸惑ったようなヴィクターの目が向けられる。
「軽蔑も何も、そもそも、そんなにわたしの中でのあなたの評価、高くないわよ」
「…………なるほど」
「過去に何があろうと、言葉選びが酷いのも、手先が案外不器用なのも、頑固なのも、自分を大切にしないのも、全然別の問題でしょ」
「………………」
「こんなところで懺悔されても、わたしには許すことも怒ることもできないのに。……他人が踏み込んでいいものじゃないって、決まってるのに」
黙り込んだヴィクターとは対照的に、「でも、」とシャーロットはすました顔を保ったまま、幾分か声を和らげる。
「二年前、あなたが生き延びてくれて良かった」
そうでなければ、シャーロットはいまでもフェリックスの死の真相を、遠い他人の訃報以上には知ることができなかっただろう。ずっと部屋にこもって、そこから引きずり出されるときには当てつけのような暗い色のドレスを着て、誰にも診せられない傷が膿んでいくのを、なすすべもなく見つめることしかできなかっただろう。
そう思うから、シャーロットはヴィクターの額を緩く撫でる。前髪が動いたからか、目を大きく見開いていたからか、その眼差しの奥でランプの炎が揺れていた。
「……シャーロット。あなたは単純なのに、ときに誰より対処するのが難しい」
「は?」
「幼稚だし、うるさいし、手はすぐ出るし、まるで後先考えないところもあるし」
「……ちょっ」
「人の傷を容赦なく抉るし」
心当たりがありすぎて、シャーロットはむっつりと黙り、俯いた。
「そのくせ、俺があのとき欲しかった言葉だけは、わかってるみたいだ」
シャーロットは顔をあげた。
かち合った瞳が穏やかで、まっすぐ向かってきていて、シャーロットは思わず動揺した。顔が熱くなるのは、驚いたせいだと思いたかった。
違う、別にそんなつもりはなくて。
そう反論しようか迷っているうちに、ヴィクターが再び口を開いた。
「シャーロット、これも、前にも聞いたことですけれど」
『全部知って、それがどんな結果であれ、受け止めることができたなら――』
「あなたは、そのあとどうするんですか」
どくん、と、シャーロットの鼓動が大きく乱れた。沸き上がってきたのは、思いがけない遭難で忘れかけていた、別の感情だった。
呼吸がしづらくなる。思考が止まる。
「それ、は」
しかし、シャーロットが渇いていく口のなかで言葉を探していたのも束の間だった。ヴィクターの表情は一瞬で強張り、視線が腕の中の青い目から小屋の扉へと移された。
「な、なに……」
「静かに。……足音が、近づいてきます」
その言葉に、シャーロットの全身にも緊張が走った。屋敷の人間が、探しに来てくれたのか。
もしくは。
「……まさか、さっきのクロスボウの……」
思えば、崖を落ちた自分たちは、屋敷から随分離れたところにいるのではないか。ヴィクターがどの方向に向かったか、知っている人間がいないなら、捜索はもっと時間がかかるのではないか。
そうすると、シャーロットたちの居場所に見当をつけるのは、襲撃者の方が早いのではないか。
ヴィクターの右手がゆっくりと懐に入り、短銃を掴んでいた。左腕で強く抱き込まれたシャーロットは、顔じゅうの血が下がっていることを自覚しながら、何か自分にも扱える武器がないかと視線を巡らせた。
やがて、シャーロットの耳にもわかるほどはっきりと、雪を踏みしめる音がしてきた。かなり早足だ。
シャーロットの喉が上下する。鍵は壊したと、ヴィクター自身が言っていた。
足音が、小屋の扉のすぐそばで止まった。




