第四十八話 ほどかれる過去(2)
見たことのない表情の男を前にして、シャーロットは口を閉ざした。
気になっていたことではある。とはいえなぜ急にと、思わないでもなかった。
しかし、シャーロットは何も問わないことにした。
「俺が女王近衛隊に入ったのは、二年……いや、もうほぼ三年前、か。春の、叙任式だったから」
途切れ途切れに、一言一言を吐き出すように、ヴィクター・ワーガスは話し始めた。
ワーガス家からは、代々宮廷で要職に就く人間が輩出されている。当時、次期当主だったヴィクターも将来的には例外ではなく、女王近衛隊はその前の箔付けと、世間には見られていた。
「表向きは、有事でもない限り、軍隊訓練にも一応参加してるだけのような側近集団ですが、まぁ、実態はこういう内外のスパイじみたことや、陛下の内々の用事を仰せつかったりもしていて……危険なことも多々あるとは聞いていたんですけど、結構性に合ってたんですよね」
けれど、その頃の男は今現在のようにひとりで任務に就いていたわけではなかった。父母の心配のせいでもあったが、他の貴族同様に、若い彼には公私にわたって雑事を片付ける『従者』がいたのだ。
それが、“ロバート”だった。
「彼は……飛び級で寄宿学校を出た十五のときから、俺に仕えてくれていた男なんです。もともと、乳母の甥で、一つ年上でした。身分は低いけれど、機転が利いて、頼りになって、俺よりずっと、気さくな男で。どこに行くときにも、連れ歩いてました。出仕するときも、学友に会うときも……その頃から、アデルに、会うときにも」
――出てきた名前に、シャーロットの体が固くなった。このまま身を凭れていていいのかと、一抹の不安がよぎる。
しかし、口ははさめない。身じろぎすら、してはいけないような気がしていた。
今のヴィクターは、ランプの中の炎よりずっと繊細で、シャーロットの少しの不注意で語るのをやめてしまいそうだった。
そうなったとき、シャーロットは深く深く、後悔するような気がしていた。
「スクーパット家との縁談は、まだ十歳にもならないうちに、親同士の間で決められていた話でした。彼女も俺より一つ年上で。……姉がいるあなたならわかるかな、そのくらいの頃の一つ差って、結構大きいんですよね。初めて会ったときは彼女の方が背も高かった。……いつ会っても、穏やかで控えめなのに、頭の回転が速くて、余裕があって……こっちがエスコートしないといけないのにって焦りと、劣等感もあったかな」
今の男しか知らないシャーロットには、想像も難しい話だった。かすかに、理由もわからないのに、己の胸がざわつくのを感じた。
男の独白は続いた。
「でもアデルは、年下の婚約者にも変に偉ぶったりはしないひとで……手紙にはすぐに返事をくれて、会えば笑って歓迎してくれた。叙任されて、初めて仕事に向かうと伝えれば、『すぐそばに置けて、役に立つだろう』と、あの手帳を選んでくれました」
使い込まれた、古い、黒い手帳。質はよくて、ヴィクターが持ち歩くのによく似合っていたことが、ぼんやりと思い出される。
「俺はと言えば、もう、とにかく彼女につりあう男になりたかった。家のことじゃない。年下であるという差を、どうにか埋めたくて、早く一人前になりたかった」
誰かを思って、自分のことがもどかしくなる。
それは、つまり。
「……アデル様のこと、好きだったのね」
返事はなかった。頷きもしない。
分かり切った返答は不要だろうと言わんばかりだった。
「訓練期間の春を終えて、夏が過ぎて、秋が来て、……特に大きな失敗もしないまま、あの、冬の日になった。俺はいつも通り、ロバートを伴って陛下からの仕事のために、ここよりもう少し西よりの山岳地帯に向かいました。詳しくは、言えないんですけど」
観光客のふりをして、田舎の山村に隠された、ある貴族の不正の証拠を見つけてくるという任務だった。仕事自体は、問題なく終えられ、二人は馬車で雪道の帰路についた。女王のほかに、アデルにも、帰還の一報を送っていた。
その馬車の車輪が、危機を察知した不正貴族の手のものによって細工されていたとも知らずに。
「制御のきかなくなった馬車を狙撃されて、あえなく崖から落ちて……右肩の裂傷は、そのときの怪我の名残で……でも、それでも俺は幸運な方だった。足を折った御者と、落下のときに俺を庇って下半身が馬車の下敷きになったロバートに比べたら、ずっと」
その時も、見渡す限り人の気配がない雪の森で、ヴィクターは迷った。どう動くべきかを。
「でも、結局俺はそこをひとりで離れて……夜遅くになって、ようやく別の村につくことができて、俺も、あとから御者も助かった。……けど、ロバートは、……あいつだけが、助からなかった」
――シャーロットは、ぎゅ、とヴィクターのジレを握りしめた。
「……あなたのせいじゃないわ。御者が助かったのはあなたのおかげだったし、一緒にいても、死者が三人になっただけじゃない」
そう、と、ヴィクターも肯定した。
「同僚も、家の者も、誰も俺を責めなかった。陛下も含めて、みんなが言ってくれた。無事でよかった、と」
「当たり前よ」
そう言いながら、シャーロットは、胸の内に緊張感が広がるのを、抑えられなかった。
何か、聞きたくないことを言われるような、そんな気がしていた。
「でも多分、アデルは、そう思わなかった」
予感は、当たっていた。
「彼女にとって、本当に、生きて帰ってきてほしかったのは、多分……俺じゃなかった」
『――ロバートさんに心変わりでもされたんでしょうっ!』
憶測も、本当に当たっていた。
(――ああ)
シャーロットは思った。
昨日の自分に会えるなら、その残酷な喉を自ら絞めあげてやりたいと。




