第四十六話 雪のなかの逢瀬は危険がいっぱい
ザシュ、と貫く音がしたと同時に、紅茶色の髪と、黒い外套が揺れる。
ヴィクターにまっすぐ向かっていったように見えた黒い線は、標的本人が身を翻したことで、そのすぐそばの木立の肌に深々と刺さって止まった。
「っ!」
線の正体が太い矢だったとわかると同時に、険しい表情で振り返ったヴィクターと、青ざめて立ち尽くすシャーロットの視線がかち合った。
「伏せてろっ!」
シャーロットが何か言うよりも先に、鬼気迫る表情の男から怒声が飛んだ。有無を言わせないその剣幕に、シャーロットも思わず、言われた通り白く冷たい雪の中に身を伏せた。
黒く険しい双眸はすぐにシャーロットからそらされ、矢の飛んできた方向へと矛先を向ける。混乱しきりのシャーロットもつられて見れば、木々の向こう、小高い丘のように盛り上がったそこに、人影が見えた。シャーロットからは距離がある上、帽子に外套、襟巻きで人相は不明である。
ただ明確にわかるのは、手にはクロスボウが構えられていることだ。
(……ま、まさかまた!)
襲撃者がニ本目の矢を十字の弓につがえようとして、シャーロットが息を止めたそのとき、緊迫した空気を震わせる大きな破裂音が響いた。不審な射手はクロスボウを取り落とす。
雪の中の静寂を盛大に破ったのは、ヴィクターが肩の高さで構えた短銃だった。狙い過たず、敵の凶器を弾いたのだ。
物音に驚いた鳥たちの羽ばたく音とともに、襲撃者は身を翻し、丘の上から姿を消した。
「あ……え……と……?」
何が何だかわからずに碧眼をくるくると彷徨わせるシャーロットのもとに、ざく、ざくと雪を踏みしめる音が近づいてくる。
「怪我は?」
雪に濡れた顔を上げれば、外套の内側に短銃を戻すヴィクターが、眉を寄せてかがんでくるところだった。
「だ、だ、大、丈夫……」
差し出された右手に、どうにか自分の手を重ねる。しかしそれきり、うまく足に体重が乗せられない。
答える声が震えたのも、上手く身を起こせないのも、寒さによるものだけではなかった。そんなシャーロットを見て、ヴィクターは彼女を抱きかかえ、胴体ごと持ち上げるようにして、ともに立ち上がった。
「あ、あなたは?」
「問題ありません。それより、なんで……いや、一体どうやって外へ」
「あいつ、お、追わなくていいの?」
「……あなたがいなければ追ってますけど?」
幼子のように立たせられたシャーロットの胸に深く刺さる一言を射出しながら、ヴィクターは金の髪や濃い緑の外套についた雪の欠片を払っていく。
「……だって」
「……」
呆れたようなヴィクターの顔に、シャーロットは口ごもる。出かけた言葉がなんなのか、分からなくなったせいもあった。
置いて行かれたことや、菓子で引き留められると思われたことへの文句か、それともたったいま起きたことについて、質問か、謝罪か。
――しかし、結局シャーロットは何も言えないまま、突如視界を黒い毛織物に遮られ、体は強い力で引き寄せられた。
まるで、力強く抱きすくめられたかのように。
「っ?」
ザシュン、と耳をつんざく鋭い音と同時に、視界がまわる。シャーロットはヴィクターの腕の中、向き合うように抱えられて、木の陰に入ったことをようやく悟った。
二撃目の矢が容赦なく刺さった、冬の木の陰に。
「……しまった、逃げていなかったのか」
低く、忌々し気に呟くヴィクターは樹木を背に、シャーロットを抱えたまま、敵の方向へわずかに顔と銃を構えた右腕を出す。クロスボウは連射に向いていないことを見越してのタイミングだった。
しかし、相手方の三撃目は発砲音を伴っていた。
「……!」
間髪入れずにヴィクターの短銃からも大きな音が出た。シャーロットは男の腕に囲われたまま、身を固くする。
「……っ」
頭上で、ヴィクターが荒く息を吐いたのが分かった。シャーロットはおそるおそる男の顔を見上げた。
「……? ヴィクター、だ、だいじょう……」
皆まで言う前に、シャーロットは異変に気がつき、そして体の前で縮こませていた両腕を男に向かって広げた。
ヴィクターは、ずる、とそのまま、シャーロットの腕にもたれるように倒れ込んできた。
右肩から鮮血を雪の上に滴らせて。
「……ヴィ、ヴィクター……!」
シャーロットは頭が真っ白になった。男の右肩に触れた自身の左手は、どろりと真っ赤に濡れていた。
毛織の手袋越しに、不吉なぬくもりが伝わってくる心地に襲われる。
(に、逃げなきゃ!)
相手からの四撃目が来る前に。敵がこちらに距離を詰めてくる前に。
シャーロットは、向き合って自分に覆いかぶさっているヴィクターを肩に担ぐように支え、引きずるように移動し始めた。列車ではとても動かせないとおもった大の男の体は、なかなか思うように運べないが、必死な時は無我夢中で力が出るものである。
「ま……」
「話しちゃ駄目!」
自分でも驚くほど鋭い叱責が出た。少しでも遠くに行かなくてはと、シャーロットは懸命に足を動かす。丘の方に目を凝らせば、襲撃者の影が木々の隙間から見えた。クロスボウは足元に横たわり、かわりに猟銃の先がこちらに向いている。
(はやく、はやく! ああ、誰か、誰かいないのっ?)
「ま、シャーロット、……後ろ」
恐怖と焦りのさなか、後ずさるシャーロットは後ろに大きく一歩踏み出した。
ヴィクターが何を伝えたかったのかなど、そのときはまるでわからなかった。
次の瞬間、体重をかけた足がずる、と滑った。
後ろへと傾いだ自分の体に、転ぶ、そう思ったが、体は予期したような衝撃を受けなかった。
「――え」
折り重なる男の手の平が、シャーロットの頭を、腰を、強く引き寄せる。
相手の肩越しに見えたのは、積もった雪と木々の向こうの襲撃者ではなく、灰色の空と降りしきる花びらのような粉雪であった。
後ろ向きに崖に近付いていることに気がつかず、足を踏み外したシャーロットはヴィクターともども真っ逆さまに落下していた。
「――きゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
耳元で大声を出すなという誰かの囁きは、果たして気のせいだったのか。
もしかすると、願望だったのか。




