第四十五話 藪の中の蛇をつつくエクレア
次に顔を合わせたときには、謝ることができるだろうか。
もしくは、いつかのように、相手の方から謝ってくれるだろうか。
そんな、どっちつかずな心を抱えて朝を迎えたシャーロットだったが、二つの予想外な現実に直面し、そのどちらも叶わなかった。
まず一つは、食堂に下りてみれば、今ここで朝食をとるのは自分だけだと知らされたこと。
聞けば、レティシアは習慣で、ダミアンは夜更けの飲酒で部屋から出てこないとのことであり。
そしてヴィクターは、ひとりで簡易な朝食を済ませて、既に外に出たとのことだった。
「そ、そう……」
銀のトレーを片手に立ち去る女中から淡々と聞かされて、シャーロットは思いのほかショックを受けている自分にも驚いていた。
というのも、道中、夕食をひとりですごすことはあったが、朝食はなんだかんだいって一緒にとっていたからだ。
今日は、朝から忙しく動いているのか。それとも。
(わたしと顔を合わせたくないから、とか?)
気落ちする自分を慰めるかのごとく、運ばれてきたカフェオレにいつもより多めの砂糖を落とす。
円形のパンに乗せられたポーチドエッグも、たっぷりとかけられた卵黄とバターのソースの味も、どこかそっけない。
――この後、ヴィクターのもとに行こう。そして自分から謝るのだ。最初から、そうすればよかったのだ。
そう決意して、シャーロットは皿が空になると、食後の紅茶も断って足早に部屋へ向かった。もたもたしていたら、レティシアが起きてきて今度こそ邪魔をされるかもしれないとも思っていた。
しかし、外套を着込んで廊下に出た瞬間、「シャーロット様、どちらへ?」という女中の声掛けが、思いがけない足止めとなった。
「ええ、ちょっとステューダー伯爵のご様子を見に。そうだわ、彼から、具体的にどこに行くとか、きいていないかしら?」
こちらは婚約者の体で来ているのだから、堂々としていればいい。シャーロットはなんてことなさそうに答えたが、細身の神経質そうな女中は眉を上げた。いささか緊張したようにも見えた。
「伯爵にご用でございますか? 正午まえには戻るので、シャーロット様のご心配には及ばないとお話しされておりましたが」
「……え、あ、でも、わたしもひとりじゃ退屈だし、彼に伝えたいこともあるから」
はっきりと明言はしないまでも、外出を渋るような女中の態度に、シャーロットは僅かに面食らう。
「それでは、ケインズ様にお伝えして、話し相手になるものをお連れいたしましょう。ピアノがある部屋もございますので、よければそこでお時間を過ごされては」
今度はあからさまに外出を厭われているとわかった。シャーロットの作り笑いも固まった。
「……いえ、結構よ。それより」
「ちょっとあなた、お客様と何を……あら」
シャーロットがなおも問いかけようとすると、別の女中までもがやってきて、そしてやはり、外出支度をしたシャーロットに目を丸くした。
「シャーロット様、本日は大変寒うございますから、お部屋ですごされたほうがよろしいかと!」
新たに加わった小太りの女中までもが、そんなことを言ってくる。いかに他所宅とはいえ、これはあきらかにおかしい。
すわ、レティシアのいやがらせか。推測にシャーロットが眉を寄せると、それに敏感に反応した最初の女中が、はっと閃いた顔をした。
「シャ、シャーロット様! 厨房に言って、料理長自慢のキャラメルエクレアをご用意しますわ! コートリッツの一流パティスリーにも引けを取らない濃厚さで、ぜひご賞味いただければ!」
「っそう、そうですわ! すぐにお出しできるものであれば、たしかギモーヴがあるはずですので、あたたかいお飲み物と一緒にすぐお持ちいたしましょう!」
「……」
細いのと小太りのと、二人が必死になって言い募ってきたとき、シャーロットにもようやく、『誰が』自分の足止めをしたがっているのか、ようやく合点がいった。
「……結構よ」
どこか焦ったような顔の女中たちの目の前で、一転して低い声で言い捨てたシャーロットは部屋へと引き返し、扉を荒々しく閉めた。
(……ヴィクターだわ)
二つ目の予想外だった現実は、一体何と言われたのか、公爵家の使用人が、余所者であるはずのステューダー伯爵の意図に沿ってシャーロットの自由を阻んできたことだった。
女中たちの反応からしておそらく、ろくなことは言っていない。
(なるほどねっ、つまり、ヴィクターは自分ひとり動く間、わたしに勝手な行動させないために、先手を打ったつもりなわけね!)
小太りの女中の言う通り、外は灰色の雲と降りしきる細かな雪で見るからに寒々しかったが、シャーロットはためらわず、バルコニーに続くガラス戸へと向かう。
――不愉快なことは多々あるが、そもそも。
「なんで誰も彼も、わたしが菓子で釣れると思ってるのよ!」
ガラス戸の冷たさもものともせず、外に向かって開け放ち、同時に苛立ちも喉から放り出す。
ヴィクターが使用人たちに、とっておきの切り札のごとく残していった入れ知恵が、図らずもシャーロットの心からしおらしさをふきとばしていたのだった。
(あったまきた! どうにかして外に出てやるんだから!)
しかしながら、部屋は二階である。眼下には雪が白く積もっているが、とても飛び降りることなど考えられない。
近くの木は大きいが、雪で覆われた木に身軽に移る自信もない。庭を見渡せば、敷地内にはいくつかの小屋と、その奥に黒い裸の木が立ち並ぶ森があった。
バルコニーからの脱出は、不可能である。
シャーロットは眉間に皺を寄せて数十秒考え、やがて浮かんだアイディアにしばし逡巡してから、部屋の外で様子をうかがっていた――おそらくは、見張りも兼ねていた神経質そうな女中に、ホットミルクを二杯頼んだ。
***
「……ちょっと悪かったかしら」
『さっきは態度を悪くしてごめんなさいね。これはお詫びよ』
そう言って、ジュリアに飲ませたものとおなじ下剤を混ぜたホットミルクを飲ませた女中たちのその後を、シャーロットは少し、憐れんだ。しかし憐れみつつも、他の使用人が応援に来てしまう前にと、部屋の前から人が去るなり、シャーロットは大急ぎで城館から外に出たのだった。
文句なら、彼女らはヴィクターに言うべきだ。白い息が滲んで消えゆく様子を見ながら、シャーロットは罪悪感を振り切って傘をさす。
ちらちらと舞う粉雪はしばらくやみそうにない。
シャーロットは大股で、慣れない雪の庭を、できる限り全速力で歩き始めた。バルコニーから見下ろして、最初に向かうところには見当をつけていたのだ。
「……あ!」
しばらくして、シャーロットは目当ての男の背中を見つけた。
厩舎から出てきた男は、見送りに出てきたらしい厩番に背を向けて、シャーロットのいる方向とは逆、つまり城館からは離れる方向へと向かっていく。
(御者に話を聞くっていってたの、ちゃーんと覚えてるんだから)
厩番はすぐに厩舎へ戻っていった。シャーロットは気合いを入れて、ブーツを履いた足を大きく踏み出した。
しばらくして、厩舎からも大分離れて、ヴィクターを追って森の中を進んでいくころには、シャーロットの息はかなりあがっていた。
(どこまで行く気よ……そっちは崖もあるのに)
尾行を諦め、大きく息を吸う。
ちょっと、待ちなさいよヴィクターっ!
そう、大きな声で呼び止めるつもりだった。
それなのに、大きく開けたはずの口はひゅっと息を飲むのにふさがれ、咄嗟には何も発することができなかった。
白い雪の覆う、黒い木々の隙間を縫って、空気を横に切り裂く『黒い線』が、ヴィクター目掛けて飛んできたからだった。




