第三十八話 夢うつつ
「……ど……して……」
質問もみなまで言えないシャーロットを見下ろす目は冷たい。ダミアンは白々とした視線を銀細工の懐中時計へ移すと、興味なさそうに彼女のスカートのポケットに戻した。
青百合商会。
それはかつてのシャーロットとフェリックスの合言葉で、今はシャーロットとヴィクターのみが知っている言葉のはずだった。
(なんでそれを、この人が知ってるの?)
「し……て……」
シャーロットは酩酊状態のように頭のなかがぼんやりしてくるのを感じていた。声は出るが、喉に力は入らない。
しかし、問いかけの意図は相手に伝わっていた。ダミアンはシャーロットの体を抱えあげながら、もののついでのように答えた。
「フェリックスが妙な文通をしてるのも、その見慣れない懐中時計を持ってるのも知ってたよ。ちょっとあいつの身辺を探ってた時期があったからさ。……まさか、ここにきて両方とも君に結び付くとは思わなかったけど。ただのかわいい娘じゃなかったんだな、残念」
抱えられ、運ばれるシャーロットは夢を見ているような視界と頭で、方向感覚もまともに働かない。
そんな彼女の耳に、がちゃ、という扉を押し開ける音が届いた。と思うと、それまでより薄暗い空間に入っていく。
周囲を認識する間もなく、シャーロットの体はそのまま、ぼすんとぞんざいに柔らかな場所に転がされた。
寝台だった。二間続きの部屋のうち、多くがそうであるように寝室が繋がっていたのだ。しかし、身の危険に焦る自分はどこか遠くにいるような感覚であった。
(どうしよう……どうしよう……どう)
建設的なことはなにも浮かばない。事態を打開しないといけないとわかっているはずなのに、頭のなかは真っ白な空間となり、その真ん中でシャーロットはぽつんと突っ立って、今やるべきことを考えあぐねているような状態だった。
そんな無抵抗に横たわるシャーロットの顎を掴んだダミアンは、彼女の顔をぐい、と自分の方向に向けさせると、固い声で詰問した。
「さて、ここからは僕の質問に答えてもらおうか。――君たち、ここになにしに来たんだ? 殺人の証拠の隠滅にでも来たのか?」
(……さつじん、しょうこ……)
ちがう、と、シャーロットの口は無意識に答えを溢していた。
「……じゃあ何が目的だ?」
「……フェリックス……死、んだの……不自然……」
シャーロットはなにも考えられなくなっていた。その口は本人の意思に関係なく、問われるままの答えを深く考えもせず相手に明け渡していた。
「なんでそれを、君たちが調べに来るんだ」
「……」
(なんで……ヴィクターは……わたしは……)
「しごと……と、こい、びと」
二つの答えを並べたせいで意味が通らなくなったシャーロットの答えに、ダミアンが「はぁ?」と苛立たしげに言う。
「なんだよそれ。……もしかして誤魔化そうとしてる? 自白の薬が足りないか? ……くそ、強い方使うか……大丈夫かなあれ、重複で使って死なないか?」
――何せ、あっちはベラドンナから作ってるらしいしな。
シャーロットの顎を放したダミアンは、ぶつぶつと呟きながら部屋を出ていった。
(……べらどんな……)
耳に入ってきた言葉が、ひとり取り残されたシャーロットの真っ白な頭のなかで反芻される。
べらどんな。
(……なんだっけ)
シャーロットは重い倦怠感に従って目を閉じた。
(そうだわ……ブルーベリーに似た実がなる……)
夢の小道をさ迷い始めた頭にゆらゆらと連想的に浮かんだのは、スパイスの香る焼き菓子であった。
(あれは大丈夫だったの……ダメだったのは、翌日のデザートスタンドの方……)
シャーロットの頭は論理的な思考を放棄して、あてのない散歩のように思い付くまま進んでいく。
ガラスの上の小さなケーキ。赤毛の男。そして紅茶色の髪の、口の悪い男。
『今回のことは、俺の失態です。――明らかにあなたが狙われていたのに、やすやすとひとりで行かせてしまった』
――いいの。わたしが勝手にここに来ちゃったんだもん。やばい男だって、ふたりきりになっちゃダメだって、わかってたのに。
シャーロットは記憶のなかのヴィクターに謝り返す。
相手と自分の間には濃い霧が立ち込めていて、表情はよく見えなかったが、なぜだか妙な安心感があった。
シャーロットはヴィクターがへこんでいるところを見たくない。辛辣な言葉はむかつくのに、彼が落ち込んでいると調子が狂ってしまう。
『いいえ、やはりあなたをちゃんと檻に入れておくべきでした。父親がそばにいない今、飼い主は俺なのに』
――そんな、自分を責めな……。
(……え?)
白い霧の向こうに、うっすらと黒い目が見えかくれしていた。
『でも、忠告したのにおめおめと捕まってるあたり、やっぱりなんにも反省してませんよね。人の言うことを聞けない猪が家畜にならないのも、道理と言うものか』
小馬鹿にするように、笑っていた。
ほどなくして、寝室の扉が再び開かれる。
戻ってきたダミアンはその手に銀製の水差しと、透明の液体が入った小瓶を持っていた。
「シャーロット嬢、いったん水を飲め」
相変わらず寝台の上で力なく横たわっていたシャーロットの体を起こし、その口元に直接水差しの注ぎ口をあてる。
しかし、水はうまく嚥下されず、小さく開いた口からごぼ、と溢れ出た。
「……ち、世話のやける」
忌々しげに舌打ちしたダミアンが、水差しを自分の口へ向け、流し込む。
そして、口内に水をとどまらせたまま、シャーロットの顎をつかむ。自分の口を相手のそれへと近づけ――。
「だから」
――男の顎に、ごん、と鈍い音が走ったのは、そのときだった。
ごぶ、とためていた水が盛大にシャーロットの顔に吐き出される。
「ごっほっ! ……なっ、」
「いい加減猪呼ばわりをやめなさいよーーーーっ!」
二撃目はガゴンッ、と重い音がした。
中身の入った水差しで人の顔を殴れば当然という音であった。
***
(なんで?)
シャーロットは限界まで見開かれた自分の目を、目覚めたばかりの頭を疑った。
自分はダミアンの部屋のテーブルについて、お茶を飲みながら探りをいれていたはずである。
しかし、気がつくと部屋はカーテンのひかれた寝室に変わっていて、自分は顔を濡らして寝台の上、そして話していた相手は寝台の足元で寝ていた。その頬には、シャーロットの記憶には無い大きなアザが痛々しく浮かび上がっている。そのそばに転がる小瓶には見覚えがなかった。
そしてなぜか、自分の右手は見慣れない水差しを掴んでいた。
「……」
シャーロットはゆっくりと状況を把握し、そして徐々にことの成り行きを思い出し始めた。
リキュールの香る紅茶を飲み進めると、頭が朦朧としたこと。
相手が青百合商会のことを知っていたこと。
自分を寝室に運んだのが、今床で伸びている男だということ。
そのさきのことはよく覚えていない。
ただ、水差しと自分の顔の水滴、そして相手の口元からわずかに垂れる水が無関係とは思えなかった。
「…………」
彼女の中で、じわじわと怒りが湧き上がってきていた。
しかし、考えなしに騒ぐわけにはいかない。こんな場面を誰かに見られれば、シャーロットの名誉はずたずたなのである。
本来なら、すぐさまここから逃げるべきだ。
しかし、シャーロットは水差しを手放すと、顔を掛布で拭い、寝台を覆う天蓋のタッセルを外し始めた。
(……この人、すごい怪しいけど、フェリックスを殺してはいないのよね)
意識の無い男の顔を、怒りのこもった目で見下ろす。
まだ聞きたいことは、たくさんあるのだ、と。




