第三十話 待ちきれなかった模様
一緒に、いてくれる?
「……」
冷静になって思い返せば、顔から火が出そうな台詞である。
シャーロットは目覚めた寝台の上で、昨晩の自分の醜態に遠い目となった。
***
「おはようございますフェルマー様、よく眠れましたでしょうか。あ、ご主人様なら、急ぎの用だとかで郵便局に行きやしたよ」
身支度を済ませて階下に下りてきたシャーロットを、宿屋のウィンバーが愛想よく出迎えた。食堂へ案内しながら説明する言葉には、ときおり田舎の訛りが混ざっている。
「……まだ主人じゃないわよ」
人の良さそうな宿屋の主に、シャーロットはひきつった笑顔で訂正する。
昨夜はろくに酒を飲んでいないはずのヴィクターだが、早々に自分と一緒にいる気を失ったらしい。そう思って、シャーロットはまた遠い目をした。
(……別にいいけどね、いてほしいの、今じゃないもの。いやまあ、この先だって別に、忘れてくれても別にねっ!)
席につくと、安堵とも気まずさともいえない気持ちを抱えながら、温かいミルクに手を伸ばす。かすかにカルヴァドスのりんごの香りが鼻孔をくすぐった。
シャーロットのモヤモヤとした葛藤を知ってか知らずか、彼女の前にベーコンとチーズのガレットが運ばれた頃、ヴィクターが食堂へ入ってきた。
「……おはよう。郵便ですって? 朝からご苦労さまね」
「おはようございます。職場に途中経過を報告しないといけないのでね」
すぐにウィンバーの娘がやって来て、ヴィクターはコーヒーを言いつけた。
昨夜のことが気恥ずかしくて、シャーロットはわざとすました顔で予定の確認をした。
「今日もこのままフレックへ向かうの?」
フレックはこの先にあり、ランドニア公爵領に最も近い、いわば最後に立ち寄る町である。
フェリックスはバットンで死んだから、そこには滞在していない。
「明るくなってからの洞窟を見て、それからですね」
「案内なしで行けるの?」
「そのための目印ですから」
付け合わせの温野菜をフォークに刺しながら話していたふたりだったが、ふと、食堂の外から聞こえてきた喧騒に会話を中断した。
「――だから、おかしいだろうがっ! 僕は事前に連絡をしていたのに、他の客を泊めているだなんてっ!」
「そ、そう言われましてもねぇ、うちにその、手紙が届いてないもんで、たぶん郵便の事故か遅延でしょうかねぇ……申しわけねぇですが、たまにあることですから……」
宿の主人ウィンバーと、若い男が朝から受付で言い争っている。シャーロットは声のする方を見遣ってから、眉をひそめた。
「訛りがないわね。都市部からの旅行者かしら」
シャーロットは思ったままを呟いたが、ヴィクターは答えない。彼も食事の手を止めて、姿が見えないながらも騒ぎのする方を注視していた。
「それとこれとは関係ないだろう! おまえ、僕に狭い一般客室を使えってのか、ただでさえ田舎のぼろ宿なのにっ!」
「いやあ、申し訳ありませんがね、空いているのは今はそこしか……」
「あいつが来ていたら優先的に用意するくせにっ? 僕が傍系だから差別するのか?」
「いやいや、まさかそういうつもりじゃ……」
漏れ聞こえる声にうんざりしていたシャーロットのもとに、小走りで寄ってくる影があった。ウィンバーの娘である。
「す、すみませんワーガス様、フェルマー様。お騒がせしちゃって……」
昨夜同様、眉尻も肩も下げた困り顔の娘に、ヴィクターが問いかける。
「いや構わないが、もしかして今来ているのは……」
両の耳下で髪をまとめた娘の返事を待たず、答えは受付から飛んできた。
「だいたい、なんだってランドニア公爵の後継者である僕より、ステューダー伯爵の予約を優先してんだっ!」
小さな宿に響く苛立った声に、シャーロットは驚きに固まった。
彼女の衝撃を、宿屋の娘が補足する。
「……ダミアン様です。ダミアン・ロザード様。ランドニアの旦那様の、弟さんのお子さんですよ」
「……フェリックスの、従兄弟の……」
シャーロットはフォークを置くと、急いで立ち上がった。
しかし、すぐさま出入り口へ向かおうとした彼女のスカートの裾を、向かいの男がテーブルの下で踏みつける。
「な、なにするのよっ。食べ終わったから部屋に戻るだけよ」
「ついでに挨拶しておこうって? やめてください、何をわざわざ揉め事に首を突っ込むんですか、どうせ」
ヴィクターの言葉は、宿の扉につけられたベルの揺れる音と、同時に響いた高い声に遮られた。
「ちょっと? 一番いい部屋が空いてないって、このわたくしが来たっていうのに、どうなってるのかしら、この宿は。よもやレティシア・ロザードに庶民の部屋を使えとでも?」
「……お待ちくださいお嬢様、急なことで、先触れを出していないのはこちらですから……」
飛び込んできた高慢な言いぐさと、それに続く老いた男の声に、ウィンバーの娘の顔がさらに憂鬱なものとなる。
目も口も大きく開けて呆気にとられたシャーロットは、首を受付のある方に巡らせた。
そこへ、ヴィクターが低く、不機嫌な声でぼそっと呟く。
「……どうせ、後で会うのに、なんだって率先して厄介さを誇示しに来るんだ……」
新しい客の乱入をきっかけに、受付での応酬は、ダミアンとレティシアによるそれにとって代わった。
「レティシア? おまえ、なんだってこんなところに!」
「あらお従兄様こそ、まだあなたの領地じゃないのにずいぶん偉そうじゃありませんこと? それより、わたくしの休憩室からおはやく引き上げてくださる? フェリックスの使っていた部屋はわたくしの使う部屋。少なくともお父様が生きている限りはね!」
「連れ子のくせになんだその生意気な態度はっ! だいたい、最上位室を使ってるのは僕じゃなくてっ、」
廊下の喧騒はなりやまない。
それどころか、徐々に近づいてきている。
シャーロットが身構え、ヴィクターが眉間に深いしわを刻んだそのとき、食堂の出入り口がガチャ、と開いた。
「――おやおや、これは。お久しぶりです、レティシア様。お初にお目にかかります、ダミアン様。ステューダー伯爵こと、ヴィクター・ワーガスと申します」
食堂の客人の顔を見るなり、ぴたりと黙ったふたりへ向けて、席から腰をあげたヴィクターは、それまでの不快感を欠片も感じさせない笑顔を向ける。
「そしてこちらは、イヴリン男爵の三女、シャーロット・フェルマー嬢。ご連絡もせずに同伴してすみません」
その名乗りと紹介に、レティシアの背後から顔を覗かせた使用人らしき白髪の男が、戸惑い顔を見せた。
ヴィクターはついさっき挨拶を止めたシャーロットの背中に手を添えて、突然の対面に硬直した彼女に発言を促す。
「……はじめまして、レティシア様、ダミアン様」
シャーロットは、この二人のどちらとも話したことがない。王宮での行事には互いに参加していただろうが、顔を合わせ、声をかけるのはこれがはじめてだった。
「……イヴリン男爵?」
ヴィクターよりも年かさだろう栗色の髪の男が、挨拶も返さずに繰り返す。艶やかな黒髪を結った女はシャーロットと同世代と見えたが、一瞬明らかに見下したような目を向けてきた。
公爵家のふたりが口に出さない疑問に、先回りして答えたのはヴィクターだった。
「この度、内々に婚約の話が進んでいまして、今回のフェリックス殿の弔問にも、同行してもらうことにしたのです」
驚くふたりへ向け、シャーロットは改めて腹の底に力を込め、にっこり笑った。
「お会いできて、光栄ですわ」
値踏みする時間はそう長くないだろうとわかっていた。
『釣り合っていない』、『なんでわざわざ来た』、彼らがそう断じるまでの確認作業でしかないことは、わかりきっていたのだから。
「……はじめまして、シャーロット様。そのスカート、素敵な模様ね。フェルマー商会の新作かしら」
“商会”を強調したレティシアの冷たい視線は、シャーロットのスカートの裾に注がれている。
「……まさか、フェルマーが扱うのは宝石ですもの。うちの父も、ランドニアのダイヤモンド事業には大いに敬意と関心を持っておりますのよ」
答えるシャーロットは、婚約者らしく腕を絡めるふりをして、ヴィクターの手の甲をこっそりしっかりつねった。
よくも裾を踏んでくれたな、という怒りを込めて。




