第二十九話 この恋が終わるときには
晩餐の皿は下げられ、テーブルには紅茶と焼き菓子だけが残されている。
ヴィクターの向かいに腰かけたシャーロットは、摘まんだココアクッキーをものも言わずにじっと見つめていた。
「いつまでふてくされているんですか。意地汚いひとだな」
「違うわよっ!」
予定されていたサバランが、気にならないと言えば嘘だった。とはいえ、シャーロットの頭を占めていたのはけして幻と消えた茶菓子のことではない。
否定した勢いで、シャーロットはヴィクターの顔をまともに見ることとなった。黒い目に見返されて、――おそらくは、ずっと自分を見つめていただろう静かな眼差しに、シャーロットは口に出そうか迷っていたことを、相手に投げかける気になった。
「……ここに来た理由は、フェリックスは殺されたかもしれないからってことだったわよね」
「そうですね」
「今でも、あなたはそう思ってる?」
紅茶を飲もうとしていたヴィクターの手が止まる。どこか緊張感を孕んだ女の顔に視線を合わせたまま、眉間に浅いしわを寄せた。
「その言い方だと、まるであなたはそう思っていないかのようですね」
「……きっかけは、公爵閣下の訴えだったわよね。凶器が出たわけでも、誰かの目撃証言があったわけでもない」
シャーロットは手にしていたクッキーを花模様の小皿に戻した。ヴィクターとは逆に、目は自然と指先に、下に向いた。
「……自殺する心当たりでも、思い出しましたか」
「そんなんじゃないわ。でも最初から、状況はそっちを示してたし、死んだ場所にも、偶然行くようなことはなかったんだとしたら」
「呼び出されたんでしょう。方法なんていくらでもある」
「でも、呼び出された証拠なんて、ないんじゃない?」
返事がないのは、肯定ゆえだと明らかだった。考えるほどに沈み込んでいたシャーロットの胸に、またひとつ、重い石が積み重なる。
「陛下は怪しんだようだけど、公爵が倒れたのは、やっぱりお年か、心労じゃないかしら。……万一、誰かの悪意が働いていたとしても、それはもしかしたらフェリックスの突然死に便乗したものかもしれない」
ヴィクターは紅茶を一口飲み下した。
「わたしの知っていた彼は、とても自分で死ぬような人じゃなかった。でも、人と接するのが好きで、久しぶりにあった人に、たとえ相手の身分が低くても、よそよそしくするような人じゃなくて……部屋に閉じこもるような人じゃなくて……」
「この旅では、らしくないところが散見されている、と」
頷くシャーロットの目に、運ばれたきりのティーカップが映り込む。かさの減らない赤褐色の水面にうつる女の顔は、ヴィクターと出会った日の、たらいに映り込んだときと似た表情をしていた。
「でも、あきらかに怪しい男がいたでしょう。何者かの指示を受けていた赤毛の男のこと、忘れましたか」
ヴィクターの声には、揺らぎがまったくない。彼は不必要な肩入れなどせず、女王の命令でここまで来ただけだ。
そのヴィクターが、他殺の可能性を捨てていないのは、決定的な証拠が出てきていないからだ。まだ女王に報告する段階ではないということ。
だったら、シャーロットの頭の中で漂う思考は、浮かび上がる事実の形は、思い込みでしかないのだろうか。
「……赤毛の男が、わたしに向けた言葉に、反応に、嘘が無かったなら、あの男は“フェリックスの死に関わりつつも、誰にも毒を盛っていない”ってことよね」
「従者が毒を盛られたという確証はありませんしね」
「でも、症状は流行り病よりも毒薬による反応のほうが濃厚だったんでしょ」
「……居合わせた人間によって、偶然、適切な解毒をされたとは思えませんが。……シャーロット、あなたは今、どう考えているんですか。エレでは、従者の病がフェリックス殿に移ったのかもしれないと、おっしゃっていたじゃありませんか」
「そ、そうよ。だって体調が良くなかったって、宿の人に言ってたんだから。……けど」
実際、シャーロットは口でそう言いながら、心の底からそれを信じてはいなかった。
ヴィクターが『ありえませんね』と切って捨てないのが不思議なくらい、そんな偶然はないと思っていたのだ。死因が病死なら、ヒ素の小瓶が落ちていた理由がなくなる。
「もし他殺だったら、従者がそばについてきていれば、フェリックスをひとりで洞窟に呼び出すことは難しくなっていたはず。従者の離脱は都合が良かったじゃない。そうなると実際、たまたま流行り病にかかって下車するよりも、フェリックスを一人で行動させたかった人間が従者に毒を盛ったっていうほうが自然だと、思ってた……」
でも、とシャーロットは続ける。恐れながら、口にする。
口に出したら、もう確定してしまいそうだった。
「……そもそもあのひと、体調の悪い従者を置いて先に進むような性格じゃなかったのよ」
「……また、らしくない、ですか」
「そうよ。この旅のフェリックスは、まるで知らない男のひとみたい。……彼を突き動かした理由自体が、わたしには秘密にされていたことだったから、かもしれないけど」
それは、メアリー・コートナーの存在かもしれない。
思えば最初から、新聞で記事を見つけたときから、フェリックスのことがわからなくなっていたのだ。
知らない部分があったことを、認めたくなかっただけで。
「ずっと考えてたの。ゴルバック氏が毒を飲んでいたなら、どうやって助かったんだろうって。なんで、フェリックスは別の毒で死んだんだろうって。……ゴルバック氏が偶然一命をとりとめたわけじゃないなら、ヒ素が死に至らしめる毒で、ベラドンナが足止めのための毒だったなら」
知らなかった彼のことを知ることが、自分にとって辛い事実であることを、認めたくなかっただけで。
「……ゴルバック氏にベラドンナを盛ったのは、ひとりで動きたかったフェリックス自身なのかなって……」
「……」
「そうしたら、そうしたらよ? フェリックスなら、飲み物を持ってるゴルバック氏に用事を言いつけて、カップだけその場に残させることもできるから、毒も入れられる。殺す気はないから、手遅れになる前に解毒薬を混ぜた水とか渡すことも、できる。赤毛の男はフェリックスに言われて、毒の入手とか容器の後始末とかに協力したんじゃないかしら。そうなら、もしそうなら」
シャーロットが本当に認めたくなかったのは、他の女性の存在ではなかった。
「フェリックスは、やっぱり自殺だったのよね……」
何も言ってもらえなかった、ということだ。
フェリックスにとってのシャーロットは、言葉を遺す必要がある相手ではなかったということだ。
だから、シャーロットは真相を知りたかった。――本音を晒すなら、他殺であってほしかったのだ。
たとえ、本当の恋人がほかにいたとしても、自分への誠実さが一から十まですべて嘘だったと思いたくなかった。
シャーロットの目には、もう紅茶もクッキーも映らない。
ただぼんやりと、膝の上で握りしめた自分の両手が、スカートが、歪んで見えるだけだった。
「……もし、フェリックス殿が毒を盛ったなら、その可能性は高いです」
シャーロットは少し、顔を上げた。
「けれど、まだ関係者の一部にしか話を聞けていません、が」
ヴィクターはまだ、シャーロットを見つめていた。
「……あなたは自分のためにここに来たのだから、自分のために、もうやめてもいいんじゃないですか」
穏やかに、諭すような言い方だった。
「もし今報じられている以上の事実が出てきたら、それはしかるべき形で報道されるでしょう。なにも出てこなければ、彼の死はそのまま過去になる。それだけです」
シャーロットは戸惑った。和らいだ目元が、声音が、労わってくるようだった。昨夜とはまるで違う態度だった。
(……そっか、覚えてないからだわ)
そう思うと、シャーロットにはヴィクターの言葉がそのままの意味では聞こえなくなってくる。
見通せない黒い目の奥で、彼は軽蔑しているのだろうか。
自分のためにはじめたことなのだから、勝手にしろと言われている。
しかるべき形で、とは、事実と形を変えて報じられる可能性もあると、言われている。
フェリックスの死が、そのまま過去になるとは、シャーロットとは切り離されたことになると、言われているかのようだった。
もとより世間的に接点はない二人の関係が、シャーロットにとっても無関係なものとして、風化していくのだと。
自分が忘れれば、シャーロットとフェリックスの過去は簡単に埋もれていくのだから。
「……ヴィクター」
男はすこし、口の端を上げた。
それはシャーロットが今まで見た中で、一番やさしい笑顔だった。
そう見える顔だった。
「……ひとりで帰ってきたってなったら、多分お父様ほんとにショック死しちゃうわ」
「……」
「お姉様たちだって、リンディは泣くタイプのわたしってくらい騒ぐだろうし、グレイス姉様はもともとあなたのこと、求婚の順番を守らない似非紳士だと思ってるし、怒ると結構後々まで引きずる人だし」
「…………ほんっとに、なんで女中を帰してしまったんだろうなあなたは」
「だから今さら、わたし引き返せないのよ」
ヴィクターの笑みがいつも通りひきつるのを見て、シャーロットは不思議と気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。
引き返せない。そのとおりだった。
他の女への手紙を残し、シャーロットには想像もできない様子で過ごして、フェリックスは死んだ。
もしかしたら、彼は自分の従者を殺しかけたかもしれない。シャーロットを殺すことも厭わないようなならず者と、付き合いがあったのかもしれない。
死ぬ間際に落ちた懐中時計は、彼がそこに捨てたのかもしれない。
今想像できていること以上に、シャーロットにとって悲惨な事実はおそらくない。
「だから、ヴィクター、お願いがあるの。――わたし、あの人について、たとえ望んでなかった結果でも、って言ったけど」
皮一枚だった笑顔を消したヴィクターが、シャーロットを見据える。
口にしたとき、その言葉はシャーロットにとって、決して嘘ではなかったが、自分のための願望が強く込められていた。
たった今、シャーロットの心が折れかけたところを見て、“ほんとうに受け入れられるのか、見届けたかった”ヴィクターには、期待外れだったかもしれない。が、そんなことはそもそもシャーロットにはあずかり知らぬことだった。
「彼のこと、わたしの中で本当に……区切りをつけられたとき。この恋の、終わりの形が定まったとき、……受け止めるとき、一緒に、いてくれる?」
ランプの、燭台の炎が揺れる。暖炉の火が爆ぜる音が、ふたりの沈黙に寄り添う。
伯母アイリーの屋敷で、玄関のヴィクターが階段上のシャーロットを見上げていたときと、同じくらいの時間が過ぎた。
「……やけ酒は、あなたにはあまりおすすめできないが」
労りも同情も感じさせない声が、そっと静寂を破る。
かと思うと、両の拳でスカートを握りしめたままのシャーロットの口に、もご、と押し込まれるかたまりがあった。
「やけ食いくらいなら、付き合ってやる」
指先についた菓子の欠片を払いながら、ヴィクターはそう言った。
「……婚約者だからな」
口の中で、甘く、ほろ苦い焼き菓子がほどけていく。
礼も抗議もできないシャーロットの視界は、まだ少し歪んでいた。
相手の顔が、どこかやるせなく笑ったように見えたくらいには。




