第二十七話 酔わせた夜の代償
突然詰められた距離感に、シャーロットは瞠目し、鼓動は早鐘を打ち始めた。格好は確かに今さらだが、この近さは自分たちにはふさわしくない。
これは、相手を捕らえようとする敵対者か、本物の恋人同士や夫婦の距離だった。
「は……」
「ほかに愛した女がいた男を、あなたはまだ信じていた。状況は、遊ばれていたと結論付けてもおかしくないのに」
互いの肩や腕が当たりそうな近さに、さらに近づいてくる呼気に、シャーロットは離れて、と言うべきだとわかっていた。しかし言葉は上手く喉から出なかった。
相手をにらむつもりで見返して、動けなくなったせいだった。
腕どころか、互いの鼻先すら付きそうな至近距離に迫ってくる、その目を見たことがあった。
一度目は、伯母の屋敷で、パーティーの最中に。
二度目は、王立美術館でのカフェテラスで。
「信じ続けると言い換えて、何も聞かされていないことを盾にして、……都合のいい夢を見続けようとしているようで、不愉快だった」
ぞく、とシャーロットの背筋に冷たいものが走る。
前の二回と異なり、その冷たい嫌悪は、シャーロットの瞳にまっすぐ向かっていた。
手袋すら付けていない手が、じかにシャーロットの顎先を捉えた。
互いを敵と思っていた月夜よりも、ずっと力は弱い。それなのに、シャーロットはその手をはねつけることも、顔を背けることもできなかった。
「――だけど、シャーロット。あなたは、違うんだな」
「……ヴィクター?」
(……違う、って)
何と、と問いたくても、シャーロットの声はうまく言葉にならない。
届く気がしない。聞こえていないはずはないのに、相手は自分を見ていることが明らかなのに、漠然とそう感じた。
「望まない結果でも知りたいと言った、それでようやく完成すると、あなたが言った、だから」
男の黒い目が歪む。
見る人間を不安にさせる、嫌な笑いだった。
「それが本当なのか、見届けたかった。本当に、どう受け入れるつもりなのかと。……突き落とされた、奈落の底で」
「……」
シャーロットは、唐突に戸惑いの正体に気がついた。
先程から、その目は確かに自分の青い目へ向けられている。
それなのに、彼の言葉が、嫌悪が、嘲笑が、別の誰かに向いているような気がしてならなかったからだと。
「心を丸ごと捧げていたのが、自分だけだったと突き付けられても。向けた熱量丸ごと、相手は別の誰かにそっくり丸ごと差し出していたと、白日の下に晒されたそのときでも、なお」
――それでも、あなたは“知りたかった”と言えるのか。その恋を、悔やむことなく受け入れられるのか。
迫る瞳に、シャーロットの視界が埋め尽くされる。
闇にふさがれた、気がした。
「……ヴィクター。あなた、一杯お水飲んだ方がいいわ」
口以外は。
「……は」
「自分で思ってるより、すっごく酔ってるわ、あなた。多分、相手を潰すつもりでいたのに、自分まで限界一歩手前まで飲んじゃったのよ」
迫る呼気からは酒の匂いがしていた。グラスのブランデーも、もともとシャーロットより多く注いでいたのに、残ったかさはシャーロットよりずっと少ない。
シャーロットは相手の肩を押し戻し、自分の足に力を込めて立ち上がると、薄暗い部屋のなかで水差しめがけて早足で歩いた。
「……シャーロット」
「やっぱり、酔わせてどうこうってだめよね。あなたはお友達同様潰れかけてるし、わたしも、質問するのはあなたがしゃんとしてるときじゃないと意味なさそうだし!」
長椅子に取り残されていた男の前に立ち、自分が新しいグラスを持っていないことに気づく。しかしシャーロットはためらわず、長椅子に置いていた自分のグラスを一気に呷った。
喉から胃まで、焼けつくような熱さが通りすぎたが、構わず空いたグラスに水を注ぐ。
そして、まだ酒の残るヴィクターのグラスをひったくると、その手に水の満ちたそれを押し付けた。勢いで、奪ったグラスのブランデーも飲み干す。
ヴィクターは止めなかった。
呆れていたのか、戸惑っていたのか、それとももう意識もはっきりしていないのか。
「じゃ、もうそれ飲んでさっさと寝るのよ。なんなら、朝ごはんはこの部屋に持ってきてもらうよう頼んでみるから」
そう早口で言うなり、自分が持ってきた瓶を回収したシャーロットは、「おやすみなさい伯爵!」と笑って、颯爽と部屋から出ていった。
廊下に落ちたままだったピンも拾ったが、外から鍵を閉める試みには手を出さなかった。
***
明かりがついたままだった自室に戻るなり、シャーロットは反省した。
男にかけた言葉どおり、酒の力で相手につけいるものではないと。
そして、真夜中に男の部屋を訪れるものではないと。
(……ヴィクター、あなた、一体何があったの)
ちがう。考えるべきはそこではない。
シャーロットは今さら、自分の愚かさに打ちのめされていた。父が、姉たちが、ヴィクターが悪し様に言うはずだ。
半分以上中身が残ったままの酒をサイドテーブルに置くと、シャーロットはガウンのポケットを探った。
そのまま、小さな懐中時計をガウンの合わせの間、寝間着越しの胸に押し付ける。俯き、背を丸めて、胸の内に抱き込む。
緊張と混乱にどくどくと高鳴る心臓を、沈めてくれることを期待して。
『その恋を、悔やむことなく受け入れられるのか』
当然だと、前は言えた。
信じていたからだ。何も言われていなかったからだ。
シャーロットにとって、それが盾だったからだ。
(……フェリックス、どうして、なにも言ってくれなかったの)
もはやどうしようもないことだからと、考えないようにしたことに、足を取られている。
(……どうして、今、ここに、そばにいてくれないの)
散々泣いて思い知った、変えようもない現実を、今またむざむざと見せつけられている。
ただ以前と違うのは、自分のなかに、悲しみ以外の感情が混ざり始めていることだ。
シャーロットは顔を上げ、目に入ったものに震える手を伸ばす。
自分は一体何を焦っているのか、何を恐ろしく思っているのか、まるでわからない。
不安定な隙間を埋めてくれる何かか欲しくて、緩んでいた酒瓶の栓を引き抜いた。




