第二十二話 揺れる馬車
イヴリン男爵令嬢の使うコンパートメントの、鍵が壊れたらしい。
乗務員がひっそりと話していた内容を偶然聞いたときは驚いたが、少女は同時にいい気味だとほくそ笑んだ。
憧れのステューダー伯爵との婚約が噂される彼女が、心底憎たらしくて、羨ましかったからだ。
(昨日の強盗騒ぎといい、本当に醜聞に事欠かない方ね。伯爵もお気の毒)
そう思いながら、少女は女中を連れて食堂車へ向かって廊下を歩いていたが、突然目の前の扉が勢いよく開いて、中からトランクを持った人が出てきたので思わず足を止めた。
「――ええ分かっていますよ、あなたの誘いに乗った俺が悪いんだと」
「なによそれっ、個室の外にずっと立たれてたら、放っておけないじゃない!」
「用がすんだら、すぐ追い出してくれればよかったんです」
「わたしそんな冷淡じゃありませんからっ! なによ、朝までゆっくりできたでしょっ」
「必要以上に疲れていたのは誰のせいだと」
「なっ、そ、それはお互い様っていうか、昨日の態度は」
「朝からそんな格好で出歩こうとするなっ!」
コンパートメントから出てきた紅茶色の髪の男は、続いて出てこようとした女を扉の奥に押し込める。少女の目に、寝巻きの袖からのぞく白い腕と波打つ金髪が、一瞬だけ映った。
扉を閉めた男は、ため息混じりに体の向きを変え、そこで初めて唖然と佇んでいた少女とその後ろの女中に気がついた顔をした。
「…………あ」
「……おはようございます。お騒がせして申し訳ない」
「えっ、い、いえ」
何事もなかったかのようにすれ違っていった男の背中を、少女は目を点にして見送った。
「……今の声、イヴリン男爵の娘よね?」
「そう、かもしれません」
「……個室の外に立っていたって、誘いって、なにかしら」
「お嬢様、そのようなことを気にしてはなりません」
「あ、朝までって……」
「お嬢様っ!」
少女は朝早くの食堂車で、姉の到来を待たず、給仕に声をかけた。
――先日エールを奢ってくれた友人へ、婚約祝いにクリームと蜂蜜たっぷりのスフレを出してくれ、と。
言い表せない傷心と敗北感とともにそう伝えると、女の給仕はなぜか恐ろしいものを見たような顔で「も、持ち込み物の差し入れはご友人様からでもお断りさせていただいておりますがっ」と的外れな返答をした。
***
シャーロットは馬車の中でも思い出しては首をかしげていた。
一昨日、陰口を叩いていた貴族令嬢は、もしかしてものすごく酒好きだったのだろうかと。
「シャーロット、何か?」
「別に?」
はす向かいに腰掛けるヴィクターの問いかけをいなすと、シャーロットは思わぬ朝のデザートについて考えるのをやめた。
窓の外は雪深いが、整備された街道は雪かきがされており、空には久方ぶりの晴天が広がっている。
「フェリックスも、グースから馬車に乗って行ったのよね」
「そうです」
公爵家からの馬車はグース駅で乗ってきた嫡子を乗せ、ゆっくりと半日かけてエレに、その翌日にはノーバスタに、そしてさらに半日でバットンへ行った。
そして、そこからフレックではろくに休まず、誰も乗せずにランドニアの城館へ急ぎ帰り着いた。
「新聞にも載っていた通りの、地元警察の調べです。俺も同じように動いて、ランドニアの領主館でそのとき御者を務めた男にも、直接話を聞こうかと」
「やっぱり、冬は強行進軍できないのよね」
「夜通しというのはね。絶対に無理とまでは言いませんが」
シャーロットはそこで、はた、とある可能性に気がついて、おそるおそる聞いてみた。
「……もしかして、わたしがいるせい?」
「いえ、もともとフェリックス殿の泊まった宿にも話を聞くつもりでしたから。だから、あなたが罪悪感を覚える必要はありません」
「ならいいけど……、もしかして、列車でもなにか話を聞いてたの?」
「必要なことは」
その答えには、シャーロットは眉をつり上げた。
「その場に呼んでくれればいいのにっ! なに聞いたのよ」
「……別に、あなたの興味をひきそうな新事実なんて出てきませんでしたよ。ただフェリックス殿とゴルバック氏の様子に、変わったことはなかったかと聞いただけ。……そのときのあなたは、独自に情報収集していましたし」
「情報収集なんて、……」
していた。心当たりに、シャーロットは視線をするすると泳がせ、窓の外を見るふりをした。
コーヒーのおかわりを貰いに行ったにしては、ヴィクターの帰りはずいぶんゆっくりだった。シャーロットが黒い手帳を暗記できるまで読み返せたほどに。
「目につくところに置いていった俺の落ち度でもありますから、別にそれでどうこう言う気もありませんけど」
嘘をつけ。そう思っても、シャーロットとてさすがにこの件について居直ることはできなかった。
むくれて口角を下げたシャーロットの横顔を冷たく眺めていたヴィクターだったが、ふと、その視線をゆっくりと下げ、ぽつりと呟いた。
「残念でしたね。同行者が俺というのは」
「え?」
突然何を言い出すのかと、シャーロットは顔を相手へ向ける。
俯く相手と、視線は噛み合わなかった。
「理想は、ここをフェリックス殿に案内してもらうことだったでしょう。未来の公爵夫人として」
「……それは」
車輪が小石を踏んだのか、がた、と一瞬大きく揺れた。
シャーロットの心の内のように。
「……急に、なによ」
「あわれだなと。……生前、お披露目されなかったこと」
一転、碧眼が半目になる。喧嘩なら買おうかと返そうとしたが、ヴィクターはシャーロットと目を合わせないまま、「も、ありますが」話を続けた。
「それがこの先、二度と起き得ないことが、です」
石畳の上を、車輪が転がる音が、やけに大きくシャーロットの耳に響いた。
「望んだ未来が、もう全部、空想にしかならないことがです。……これから、どうすることもできない」
それが、あわれだと。
少しの沈黙の後、シャーロットは細く息を吐いた。
自分を落ち着けるためではなく、言葉を返すために。
「わかった風なことをいうのね」
「気に障ったなら、すみません」
「今さらよ」
顎をあげてそっぽを向く。
自分にしてはごく自然に、歪みかけた表情を隠すことができたと思った。
そしてそのとき、列車の中で思い至った疑問が再び心の中に漂い始めた。
「……ヴィクター、あなたなんで、そんなにわたしとフェリックスのことを気にしてるの?」
顔の向きはそのままに、シャーロットは口にした。相手を責めるつもりのない、純粋な疑問だった。
ただ、男の濃い色のまつげがかすかに震えたことに、シャーロットは気がつかなかった。




