第十八話 淑女は一度言われたことを忘れない
シャーロットは呻き声をあげて背を曲げた男の手から逃れたが、その横をすり抜けて出口へ向かう勇気は出なかった。
部屋の奥へと逃げ、相手を殴打できそうなものをと、テーブルの上に手を伸ばす。
「……っ、この!」
「っ!」
しかし、シャーロットが武器を掴むより、男がシャーロットと距離を詰める方が早かった。
振り返った視界に、赤毛の男が立ちふさがっている。
その容貌に、シャーロットはあっと思ったが、閃いた白刃に、とっさに身動きが取れなかった。
――刺されるっ!
思わず目を閉じる。
それと同時に、ガゴッ、と不自然に金属の回る音と、物と物がすれる音がした。かと思うと、間髪入れずに「うわっ」と叫ぶ男の声が続く。
「――へっ、えっ?」
覚悟した痛みは襲ってこない。
シャーロットがこわごわ目を開けると、赤毛の男はナイフを振り上げたまま震えて固まっていた。
「……無事か」
否、男は固まったわけではない。
男の後ろには、その両腕を後ろから掴み、抑えるヴィクターの姿があった。
震える手で椅子にしがみついていたシャーロットが、混乱しながら辺りを見渡す。すると侵入者が鍵をかけたはずの扉はわずかに開いており、隙間から廊下が見えていた。
「……っヴィ」
「何してるっ、外に出ろ!」
ヴィクターが男の右手首をひねり、ナイフが床に落ちる。それがさらに蹴られてベッドの下へと滑っていく。
鋭く命令する口調と床をまわる刃物のきらめきに、シャーロットの思考は停止した。
「そ、それ回収してよねっ!」
自分でも意味のわからないことを口走りながら、凍ったような脚を意志の力で動かして出入り口へと動く。
(とにかく、ひとを呼ばなきゃっ……)
しかし、そのときカランという小さな物音が、室外へと一直線に向かっていたシャーロットの意識を引きとめた。
青い目は本人の意思に関係なく背後の床へと吸い寄せられ、そしてそこに転がっていたものを見るなり、咄嗟に足を止めてしまった。
ウォッチポケットに入れたはずの、銀の懐中時計を。
「――っ!」
シャーロットは無視することができなかった。
素早くかがんで懐中時計を拾い上げ、また扉へと身を翻す。赤毛の男は、まだヴィクターが抑え込んでいた。
しかし、片時も大人しくしていない男の力はシャーロットの比ではない。
もがき、細身のヴィクターを閉まりかけた扉と自分の体で挟もうとするように押し付けてきた。落とし物に気を取られて一度足を止めたシャーロットは、まだ室内にいた。
「っ!」
人体が固い平面にぶつかる音と、扉が目の前で勢いよく閉まる音に、「ぎゃんっ!」とシャーロットは肩を跳ねさせた。
「……う、くっそ……」
幸い扉へ衝突したのは全体重をかけていた赤毛の男だけで、ヴィクターは叩きつけられる直前で身を反転させて挟まれるのを回避していた。逆に、自ら扉へとぶつかっていった相手が体勢を建て直す前に、相手の腹部へひじを沈め、扉と自分の間に押さえ込むことに成功していた。
「っ、シャーロットっ?」
ヴィクターは、乱闘現場から逃げ損ねたシャーロットの位置を確認するように部屋を見渡し――。
瞬間、その顔色が変わった。
それは、彼の邪魔になるまいと窓際へ逃げていたシャーロットの目にも明らかだった。
「……っ、ヴィクター……!」
侵入者の手が、意図的にか偶然にか、ヴィクターの右肩を掴んだのだ。
ヴィクターの顔が赤毛の男の方に戻る。表情は歪んでも、抑え込む体勢はすぐには崩れなかった。
しかし、男も負けじと相手を押し返そうとしていた。右肩を掴む手の、指先がフロックコートに深く沈む。
ヴィクターの上体が、わずかに揺らぐ。
シャーロットの目の前で。
――さ。
「触んなって言われたでしょばかーーーーっ!」
シャーロットは真っ白になった頭で、手に持ったものを振り上げて男二人へと突進した。
部屋の内側を向いていた男の目が大きく見開く。
コンパートメントに、固いものが割れる音がけたたましく響き渡った。
――ややあって、呆然としたヴィクターと扉との間に挟まれていた男が、ずるずると床にへたりこんだ。
頭からぽろぽろと、銀色の欠片を落としながら。
「…………」
「ヴィ……ヴィ……ヴィクっ……」
相手の手を肩から外したヴィクターは、目に入らないよう慎重に、自分の髪にも降りかかっていた欠片を床に払い落とすと、震えてろくに話せないシャーロットへ目を向けた。
「……ひとまず、助かりましたと言っておきますが」
ヴィクターは、ゆっくりとシャーロットの指を一本一本その武器――男の頭に打ちつけられた鏡から外していく。
「……落ち着きのなさを直すだなんて、どの口で言うんでしょうかね」
割れた鏡の枠から手を離し、真っ青な顔で息を弾ませるシャーロットは、その声で固まっていた心臓がようやく動き出したような心地がした。
「だって、だって、肩……」
「……まぁ、彼にもあらかじめ言ってはなかったので、仕方ありませんね」
「あ、ああ、そう、そりゃ、わたしに言わないこと、こいつに言ってるわけないわよね、そうよね……」
無惨な鏡の残骸を放り、気絶した男のそばにかがんだヴィクターの軽口に、棒立ちのままのシャーロットは、ろくに働かない頭のままに馬鹿正直な受け答えをした。
とはいえ、ヴィクターも軽いのは言葉だけで、侵入者の手首を己のタイで縛り、足首を侵入者自身のタイで縛る動きとその声はいくらか重たげである。
その様子を、瞬きも忘れて見つめるシャーロットの胸に込み上げてくるものがあった。
「……い」
シャーロットの呟きに、結び目を確認していたヴィクターが顔を上げる。
「生きてて良かった……」
安堵と、今さらながらにぶり返してきた恐怖でほとほとと涙を流しながら、シャーロットも侵入者の図体の横にへたりこんだ。
それを見たヴィクターが、床に散らばる鏡の欠片を遠ざけようとした手を止める。
「……入るのが遅くなってすみません」
「わ、わたしじゃなくって……いや、それもなんだけど……」
「……」
いまだうまく口も頭も回らないシャーロットは、ぎゅ、と相手の手を自分の両手で掴んだ。
「……ぶ、無事でよかった……」
シャーロットは姉妹で、女ばかりの寄宿舎を出て、生まれたときから貴族同然の暮らしをしてきた。
男同士の喧嘩など、殺気のこもった乱闘になど、このとき、生まれて初めて居合わせたのだった。
「あ、あんな大きな音……掴みあって……ふ、ふたりとも、殺されちゃうのかと……」
ヴィクターが圧される相手を、シャーロットひとりでどうにかできたはずがない。
混乱と興奮の次は涙で言葉を詰まらせ始めたシャーロットに対し、ヴィクターの瞳には戸惑いが浮かんでいた。
が、やがてその目を細めると、穏やかな力でその手を握り返した。
いまだ震えの止まらない華奢な手を、安心させるように。
「……鏡で?」
「わたしとあなたがよっ!」
なんで取っ組みあう男二人がシャーロットに殺されるんだと、一度声を荒げればいつもどおりの彼女に戻っていた。




