第十四話 『あちらのお客様からです』
(……冷えたからか。肩が痛い気がする)
個室に残された焼き菓子を見つめながら、ヴィクターはひとり、利き手では無い方の手でコーヒーカップを傾けた。
そして、いつのまにかその中が空になっていたことに気がつく。
『愛は期間じゃないでしょ』
『いつも従者をつれていないじゃない』
その言葉に、ヴィクターは自分が思いのほか、過去を引きずっていることを思い知らされた。
――シャーロット。
本当に、今さら真実を知ってどうするんだ。
そう思うなら何も話さなければいい。もともと極秘の仕事なのだから。
冷静な頭ではそうわかっているのに、求められるまま教え、同行を許してしまった自分が愚かで、不可解に感じられた。
紙袋を持ち上げる。すっかり冷めてはいるが、中から独特なスパイスの香りが立ち上ってきた。
残された菓子は、何も悪くない。
悪いから残されるわけではない。ヴィクターはそう知っている。――ただ、どうしようもなく、耐えられなかっただけだと。
求めたものでないなのなら、果物も毒も変わらなかったのだと。
(……痛い、気がする)
ヴィクターは自問する。シャーロット・フェルマーになぜ構うのかと。
自分の過去と何の関係もない他人が、自分と同じ傷を負う姿を見たいのかと。
それとも。
***
「……なんなのよう。なんなのようあいつ……」
流れていく雪景色を眺めながら、シャーロットは自分のコンパートメントで不満を漏らしていた。
勝手についてきたことは自分が悪いと分かっていた。しかし、ヴィクターはシャーロットがフェリックスの事件にこだわる理由を知っているのだ。それを茶化すような物言いはどういうつもりかと、憤懣やるかたない。
(あいつ、きっと人を好きになったことなんてないんだわ)
伯母のアイリーが“婚約に漕ぎ着けるには難易度が高い”と言っていたことを思い出す。
最初は、家の格の違いとライバルの多さのことを指しているのだと思っていた。それがこの一週間あまりで、その言葉の意味はシャーロットの中で大きく変わっていた。
(どう考えても、無理! 顔がよかろうと家がすごかろうと、あの男と一緒にいたら四六時中血管切れっぱなしで、わたし結婚式を挙げるまえに死んじゃうわ)
シャーロットは窓枠に頬杖をついた。俯けば、冷たい窓に額がついて、物理的に頭が冷えていく。
そして、伯母のパーティーで会ったときには、今ほどシャーロット個人に対して辛辣ではなかったことを思い出す。今も男爵家の人間に対しては、“外面”としか言い様のない丁寧な物腰と言葉選びで接してくるのだ。おかげでシャーロットだけが躍起になってわがままを言っているように思われている。
シャーロットへの対応が変わったのは、部屋に忍び込んでの一件が境だった。互いに相手を犯罪者だと思っていたのだから、誤解が解けるまでの間は険悪でも仕方ない。手をあげたのだってお互い様だ。
(……突っかかってくるのは、わたしとフェリックスのことよね、主に)
目の前のガラスがくもった。シャーロット自身のため息によるものだった。
容赦はないが、まともな感性だと思った。ロマンチックだろうとなんだろうと、人に隠さないといけないような関係は、本来誉められるものではない。
(しかも、伯母様の質問に答えたときの、あの怖い目。人よりそのへんは潔癖なのかも)
シャーロットは渋い顔でカップを口元に寄せたが、中はとっくに空になっていた。
皮肉なのは、それは夫としては喜ばしい人間性だということだ。
(……ま、その前に婚約は解消されるはずだけど)
ふと、そこでシャーロットは相手の過去の発言を思い出した。
『こっちは初めてではないし』
あれがどういう意味だったのか、シャーロットは結局問いただせていない。
どうでもいいといえばどうでもいい。しかし、当時の話の流れを、シャーロットはカップの底の茶葉に目を移して考える。
(婚約解消の醜聞は、“初めてじゃない”ってこと?)
シャーロットは思い至って、眉間に深くしわを寄せた。
彼は、自分の前にも婚約までして、それを取り止めにしたことがあるということか、と。
「……それを繰り返すことに、なんの躊躇いもないの? く、屑だわ……」
シャーロットは寝台の上の枕を叩いた。貞操観はまっとうでも、婚約は軽々しく取り付けたり取り止めたりだなんて、相手はたまったものではない、と。
結婚に関する醜聞は、男より女の方が後に大きく響く。加えて、おそらくは同じ醜聞でも、ステューダー伯爵本人ともなれば、夫候補として引く手あまたなのだ。
地位の高さと厚かましさを兼ね備えた男は厄介だ。一見、性格も好ましく見える皮を被っているから余計に。
「……やめやめ。なんか温かいもの、貰ってこようっと」
シャーロットは、冷たくなったカップとソーサーを持って食堂車へ行くことにした。
気のきく女中を父親と執事への謝罪の手紙とともに追い返したおかげで、シャーロットは自分で飲み物を注文しに行かなくてはならない。
しかし、たまにはそういうことも悪くないと思った。
地位高く、シャーロットには好ましく映っていたフェリックスの、皮一枚の下の本性はどんなものだったのか。
頭を掠めたそんな灰色の思考を振り払うのに、動くのはいい気分転換だった。
しかし、シャーロットは失念していた。
ただでさえ王立美術館の一件でコートリッツに醜聞が流れたばかり。
そのうえ、こんな閉鎖空間で、先ほど車掌を呼ばれる騒動を起こしてしまったところだ。
おかげで、一等車利用客専用の食堂車に足を踏み入れるなり、居合わせた乗客たちの注目を一身に集めるはめになった。
好奇心に満ちた視線の中には見知った顔もある気がしたが、シャーロットは全て気づいていないふりを決め込み、給仕に声をかける。
「……あれがイヴリン男爵の」
「成り上がりでしょうに」
ボックス席で向かい合って腰掛ける姉妹らしき乗客のささやきに、むっとしないわけでもないが、シャーロットは聞こえていないふりをした。
幸いか否か、家のことを言われるのは、貴族の娘たちが多く集められた寄宿学校時代で慣れていた。
「どうせお金の力でしょうけど」
「でもなんだってステューダー伯爵ほどの方が婚約なんて……」
わざと聞こえるように言っているとしか思えなくとも、シャーロットは蜂蜜とシナモン入りのホットワインを言いつけてさっさと個室に戻ることだけを意識した。コンパートメントの番号を伝えれば、ここで待つ必要はない。
こんなところで見知らぬ令嬢の前に置かれたスフレを潰すような真似をしては、また格好の話題を提供してしまうだけである。
なんでステューダー伯爵が、だなんてことは、それこそ本人にきいてほしかった。もっといい方法があったのではないか、と。
「それにしたって、お顔もご実家も、先の方にはずいぶん見劣りするではないの」
「それはアデル様と比べたらねぇ……」
そこでシャーロットは思わず振り返ってしまった。
すぐに後悔したのは、娘たちがさっと窓の外に顔ごと逸らしてしまったからだ。
(……アデル?)
シャーロットはその名前について、もっと詳しく聞きたかった。
しかし、娘たちはそ知らぬ顔でスフレの中央をつつくだけで、もうひそひそ話を再開してくれそうにない。
当代で二代目の、商人あがりの男爵家と並んで勝る家はとても多い。“先の方”に該当しそうな家など数を上げたらきりがない。
どこの家のアデル嬢かと、シャーロットはここ一年ばかりの社交場で知り合った女性のことを思い出そうとするが、いまいちピンと来る顔がない。
ただ、どこかで聞いたことがあるような、そんな気はしていて、妙にすっきりしなかった。
とりあえず、やはりヴィクターはかつて別の女とも婚約していたようだとだけ心に留めて、個室でワインを待とうときびすを返した。
「供もつけずに、あの年で昼間っからお酒なんて」
「やっぱり男勝りなのねぇ。正式に婚約発表されないのも頷けるわ」
「……」
通り過ぎざまに聞こえた声に、ゆっくりと息を吸って吐いたシャーロットは、ヴィクターの言いざまに比べればなんてことないと己が拳を宥めた。
ただ、食堂車の出口ですれ違った別の給仕に料金とチップを握らせると、「あそこにいるわたしのお友達へ、サプライズプレゼントとして」と笑って、一番大きいエールのジョッキを二つ運ぶよう言いつけた。




