第40話:リリィの夢
家に風呂を作ってから数日が経つ。
風呂は命の洗濯。
お蔭で家のみんなの体調は良くなっていた。
「パパ、行ってきます!」
「ああ、気をつけな、マリア」
家から正門前までの通学路。今日もマリアを送る。
正門からマリアは元気に校舎の中に入っていく。
ここから先は保護者は入れないのだ。
「さて、オレも仕事に取りかかるとするか」
だがオレは学園内で仕事している。
そのまま敷地内の事務室に向かう。
清掃の仕事にとりかかるためだ。
事務室に到着して、清掃道具を手にする。
今のオレにはこれが仕事の獲物だ。
「さて。この仕事にも、だいぶ慣れたな」
清掃員の仕事に就いてから2週間近くになる。
仕事内容にも慣れて、効率よく進めるようになっていた。
今日の仕事は清掃と補修工事。
備品の補充や点検作業となる。
「よし、今日は少しスピードアップしてみるか?」
意識を集中。
今日の仕事内容を、頭の中でイメージしていく。
「さて、いくぞ!」
闘気術で身体能力と集中力を向上させた。
その効果は凄まじい。
こうしてオレは午前の早い時間に、全ての仕事を終わらせてしまうのであった。
さて、仕事が終わったら、上司に報告をしないと。
「事務局長、仕事が終わったぞ」
「えっ? もうですか、オードルさん⁉ いつもよりも早いですね⁉」
「慣れてきたからな。念のために確認をしてくれ」
「はい……完璧です! 素晴らしい仕事内容です。では、また明日よろしくお願いします」
この学園は成果主義。早く仕事を終わらせたら、勤務時間も終わりなのだ。
「さて、マリアは授業中だな……」
さすがに今日は早く仕事を終わらせすぎた。
少しやり過ぎた感がある。
まだ授業中のマリアは平穏で、観察も必要ないであろう。
「家に一度帰るとするか? そういえばリリィが、相談があると言っていたな」
今朝。オレが出発する前に、聖女リリィに声をかけられていた。
帰ったら個人的な相談の話がしたいと。
「さて、戻って話を聞いてやるとするか」
このまま学園にいても、暇を持て余してしまう。
オレは自宅に戻ることにした。
◇
家に戻って、リリィから話を聞いていく。
「なんだと。普通の仕事をしてみたいだと?」
「はい、オードル様。ご迷惑でなければ、この街で仕事をしたいと思っていました」
相談された内容は、就職活動についてである。
「別に迷惑ではない。何か理由があるのか、リリィ?」
たしかにリリィは働きものである。
だが聖女が一般の仕事に就きたいとは。流石のオレの想定外であった。
「はい、実は……先日、繁華街に買い物に行った時に、こちらの求人をもらってきました」
「これは……パン屋か?」
「はい、そうです! パン屋さんです!」
リリィが見せてきたのは、パン屋の求人のチラシであった。
朝から昼過ぎまでの短時間での仕事。賃金はそれほど高くはない。
内容はパンを作る作業の手伝い。あと売り子の仕事である。
「パン屋か。率直に聞くが、大丈夫なのか?」
パン屋の仕事は、一般人が思っている以上に重労働である。
傭兵仲間にパン屋の息子がいた。
そいつの話では実家のパン屋の手伝いより、傭兵の仕事の方が楽だという。
「実はパン屋さんになるのは、私の幼い時の夢でした……だから頑張りたいのです!」
リリィは真剣な表情だった。
なるほど。そういう理由か。
彼女は幼い時に、聖女として大聖堂に連れていかれた。
だが聖女になる前は、普通の村の娘。彼女の実家はパン屋。両親ともパン職人だったという。
「パン職人だった父と母の背中を見て、私は育ちました。その時の将来の夢も、パン職人になることでした。だから、あの時の夢を、もう一度叶えたいのです!」
リリィの家族は聖教会によって殺されていた。『聖女の家族である父は天神のみ』という教えにのっとった“慈悲”である。
リリィはそのことを恨んではいないという。
だが自由になった今。パン職人になるという夢だけは、叶えたい。
亡くなった両親の分まで、自分の家の味を再現したいという。
リリィは静かな口調で自分の想いを語っていた。
「そうだったのか。だが大変な道だぞ、リリィ?」
「大丈夫です、オードル様! こう見えて私、力はけっこうります。聖女時代は自分で家事も、自衛の訓練もしていましたの」
リリィは笑顔で小さな力こぶを見せてくる。
亡くなった両親のことを思い出した悲しみ。それを自分の笑顔で表に出さないようにしていた。
「そうか……」
そんな少女の健気な姿に、オレは思わず言葉を失う。
聖女と聞けば、お姫様のような人生を想像してしまう。
だが実際のリリィは過酷な人生を歩んできた。
自由になった今は、その過去を乗り越えようとしている。勇気を出して、前に向かおうとしていたのだ。
「そうだな、パン屋の求人に応募してもいいぞ」
「本当ですか⁉ ああ……ありがとうございます、オードル様!」
まさか許可されるとは、思っていなかったのであろう。リリィは驚きながら、喜んでいた。
「その代わり条件がある。パン屋の仕事の時は、護衛としてフェンをつける」
「えっ、フェン様をですか?」
「ああ。そうだ。こう見えて、あいつは意外と頼りになる」
家の庭で、蝶蝶を追いかけているフィン。指差してオレは説明する。
「何しろリリィは元聖女だ。何が起こるか分からない」
大聖堂の連中は、聖女リリィが死んだと思っているであろう。
だから追っ手が来る心配はない。
だが世の中は何が起こるか予想もできない。
特にリリィは美しい少女。人さらいなど、危険はどこでも転がっているのだ。
《という訳で、仕事だぞ、フェン。焼きたてのパンを、食べられるかもしれないぞ?》
《焼きたてのパン⁉ えっ? なんの仕事だワン!》
オレの念話を聞いて、庭にいたフェンがダッシュでやってきた。
食べ物に関する反射速度だけは、このオレ以上かもしれない。恐ろしい奴だ。
「フェン。リリィにも口を開いてもいいぞ」
『わかったワン! よろしく、リリィ!』
「リリィ。実はフェンは……」
フェンが白魔狼族であることは、まだリリィには言ってない。
これまでの事情をリリィに説明しておく。
「そうでしたか、オードル様。実は出会った時から、フィン様は特別な存在だと思っていました」
「なんだと? フィンの正体を見抜いていたのか?」
今までフィンの正体は誰にも気がつかれてこなかったのだ。
だがリリィは最初から勘付いていた。これは少し驚く。何か原因があるのであろうか?
「実は私は他の方と感じ方が、少しだけ違うのです」
「聖女の力……というやつか?」
「はい。見えないモノが見えたり、聞こえないモノを感じたりできます」
なるほど。そういう力があるのか。
さすがは大陸に一人しか存在しない聖女。闘気術とは違う、不思議な感知能力があるのであろう。
「それなら話が早い。フィンはこう見えて強い。頼りにしてくれ、リリィ」
「はい、分かりました、オードル様。よろしくお願いします、フィン様」
『うーん、なんか分からないけど、パンが食べられるのなら、このボクに任せてワン!』
フィンも了承してくれた。パン屋に就職することは、後で説明しておこう。
これでリリィの仕事の件は片付いた。
「オードル様、本当にありがとうございます。あと、もう一つお願いがあります」
「願いだと? ああ、気にせずに言ってみろ」
願いだと? かなり神妙な表情だが、いったい何であろう。
「もしも、私が思い出のパンを再現できたら、一番にオードル様に食べていただいてもいいですか?」
「ああ、お安いご用だ。楽しみにしているぞ、リリィ」
「はい、ありがとうございます! 頑張って立派なパン職人になります!」
一人前のパン職人になる道は険しい。一年や二年では成れないであろう。
だがリリィは覚悟を決めた顔をしていた。清々しいほどの表情。
こういう顔の者は強く、必ず夢を実現させる。
傭兵時代に多くの者の夢を見てきたオレは、そう実感していた。
「さて、これで我が家も、全員が順調に仕事を始めたな」
改めて感慨にふける。
マリアは学園の生徒として、毎日立派に勉強を頑張っている。
オレは清掃員としてマリアを見守りながら、仕事に精を出していた。
そしてリリィもパン職人として、人生への再チャレンジを決めている。
護衛のフィンもこれから何かと忙しくなるであろう。
この街に引っ越してきて、何週間か経つ。
ようやくオレたち一家も、ルーダの街に根を下ろした感じがした。
◇
「おっ、オードル、帰っていたのか?」
そんな時である。
奥の部屋から女騎士エリザベスがやってきた。
汗をかいているところ見ると、剣の稽古でもしていたのであろう。
「今ちょうど、リリィが仕事に就くための話をしていた」
「な、何だと⁉ リリィが仕事をするだと⁉」
「ああ、そうだ。フィンも護衛の仕事が出来て忙しくなる」
「な、なんと、フィンまで⁉」
エリザベスは仕事と聞いて驚愕していた。
そういえばエリザベスは何の仕事をしているのであろうか?
村とは違い開拓の仕事や、教師の仕事も今はない。
「わ、私は無職だ、オードル……」
「そうか。まあ、無理をすることはないぞ、エリザベス」
「いやだ! 私も今から職業相談所に行ってくる! 私だけ無職は嫌だ!」
エリザベスは半泣きになきながら、家を飛び出していく。
相談所に仕事を探しに行くのであろう。
だが、はたして大丈夫か? 家事もできない公爵令嬢に、市民の仕事が見つかるのであろうか?
苦難の道が容易に想像できる。
「やれやれ……相変わらず賑やかになりそうだな」
とにかくリリィの新しい夢へのチャレンジが決まった。
こうして我が家は、街での暮らしに馴染んでいくのであった。




