第9章ー4
舞台は日本へと移ります
実際、日本の情勢も、決して明るいとは言い難かった。
中国内戦に介入を余儀なくされており、それに対処するために国家総動員法が制定される等、日本国内は戦時色を強める一方だった。
陸軍は治安維持のための師団(俗に丙師団と呼称された。)を、別途、新規に編制して、万里の長城以南の中国本土に展開する有様だった。
本来の師団は、対ソ戦に備えて、準備を整える必要があったからである。
また、海兵隊にしても、半年毎に、中国本土に展開する部隊を交代させる、という基本方針を立てざるを得ない有様だった。
1938年の後半、半年余りの間に、江蘇省等の中国本土の治安維持、共産ゲリラ掃討作戦によって、日本軍と、いわゆる満州国軍の連合軍は、共産ゲリラ50万人を死亡、又は捕虜にしていた。
だが、その一方で、日本兵1万人余りが死亡し、3万人が負傷するという損害を被ってもいたのである。
そして、共産ゲリラの兵力に、消耗は全く見られなかった。
日満連合軍の攻撃に反感を抱いた中国本土の民衆が、喜んで共産ゲリラに参加していたからである。
このままいくと、中国本土の住民、3億人が死亡する代わりに、日本兵600万人が死亡するという悪夢が起こってもおかしくなかった。
そんな損害に、日本は耐えることはできないが、共産中国は、喜んで耐えるだろう。
かつて、首相代理まで務めた幣原喜重郎元外相の、対中戦争絶対不可論を、噛みしめながら、この当時の日本軍は中国内戦を戦っていた。
陸軍はともかく、この頃の海兵隊が、半年ごとの部隊交代を採用したのは、この共産ゲリラ掃討作戦に伴う将兵の精神的損耗が無視できなくなった、という側面があった。
何しろ、日本に居れば、中学生にもならない子供や、赤子を抱えた若い女性の自爆攻撃さえ、稀ではないという悪夢が、日満連合軍の占領地では起こっていたのである。
東京からは、住民を敵視するな、という指令が届くが、そんなことでは、自分や仲間の兵の身が護れないという地獄が、中国本土では起こっていたのである。
なお、第二次世界大戦に本格突入後、米軍は、別の方策を講じて、この問題を解決することになる。
ともかく、中国本土だけでも頭が痛い現状にもかかわらず、ソ連軍侵攻に備えねばならない。
日本陸軍の参謀本部や海軍軍令部は、頭を痛める羽目になった。
ソ連軍が満州や韓国への侵攻作戦を発動するとして、日本軍の採る作戦は、それこそ満州事変以来、基本的に決まっているといっても間違いなかった。
北満州を放棄して、南満州、又は韓国に集結、その上で日本本土からの増援を待って、反攻に転じるというのが、基本作戦である。
だが、1939年前半、日ソ戦の際の米軍の関与や次の戦争が世界大戦になるという予測が、この基本作戦に変更をもたらそうとしていた。
「米陸軍12個師団を、最低でも投入するので、海兵隊6個師団は、欧州に赴かれたい、か」
「確かに、フランス等、欧州諸国に対する影響は多大なものがある、と考えます」
参謀本部次長の小畑敏四郎中将は、梅津美治郎陸相に力説していた。
「日本海兵隊の旗が、フランスの地に翻るというのは、フランスをはじめとする欧州の諸国民に、先の世界大戦の記憶を思い起こさせ、独ソの侵略に抵抗しようという気を起こさせると思います」
「米軍が単に欧州に行くよりも、日米共同で軍を派遣した方が効果的かもしれないな」
梅津陸相は、小畑次長に説得されつつあった。
「しかし、海兵隊だけ、欧州に赴かせる訳にはいかないだろう。海軍本体等も、欧州への派遣を迫られるのではないかね」
梅津陸相は、疑問を呈した。
「その辺りは、外交交渉次第でしょう」
小畑次長は楽観的な予測をしていた。
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