第8章ー5
1939年9月30日午前1時30分頃、ミュンヘン会談は、事実上終わった。
ミュンヘン会談の結論は、独ソの要求を、全て米英仏日は、事実上は受け入れるという、ある意味、米英仏日にとっては屈辱的なものだった。
米日の多くの新聞は、わざわざ欧州まで首脳自ら赴いて、独ソの要求を丸呑みするとは国辱だと喚いた。
英仏の多くの新聞は、これによって、欧州に平和がもたらされる、と歓迎した。
伊では、ムッソリーニ統領が、欧州に平和をもたらすために努力した、という論陣を新聞は示した。
独ソでは、自国の断固たる決意が、自国の要求を押し通した、と新聞紙上で、高らかに表明した。
「これで、ヒトラーやスターリンは、図に乗ってくれればいいが」
「図に乗ってほしいものですな」
ルーズベルト米大統領と、米内光政首相は、ミュンヘン会談後に、半ば密談していた。
張鼓峰事件の後始末として、米日は、ソ連の国境線の主張を丸呑みし、張鼓峰に作られたソ連軍の国境監視哨の存在を認めること等を、声明していた。
韓国政府は、この声明の第一報を聞いて、早速、日米両国政府に対して、同盟国を見捨てるものだ、と激しい抗議を行っているし、満州国政府も、不快感を示している。
「我が国のイエロージャーナリズムは、早速、独ソの侵略意図を、黙認することになる、とミュンヘン会談の結果に反対するキャンペーンを始めることを決めたようです」
「我が国でも、毎朝夕新聞を始めとする複数の新聞が、ソ連の脅威に、きちんと政府は対処せよ、というキャンペーンを行うことを始めたようですな」
ルーズベルト大統領と米内首相は、お互いに苦笑いをしながら言った。
恐らく、独ソは、この結果により、図に乗る筈だ。
戦争を起こす、と脅せば、米英仏日は腰砕けになり、唯々諾々と従う、と考えるだろう。
何しろ、日米に至っては、遥々、欧州まで首脳自ら赴いたにも関わらず、独ソの要求を丸呑みするという屈辱に甘んじている。
すぐには無理でも、ソ連は、満州や韓国を、共産中国と分け取りできる、と考えるだろう。
独も、ポーランド回廊やチェコの残部を、自国のものにできる、と考えるだろう。
日米の愛国主義者を標榜する新聞等は、こういった考えに基づく独ソの行動を非難するだろう。
それによって、最終的にどのような事態が引き起こされるか。
言うまでもない、第二次世界大戦につながる事態だ。
ルーズベルト大統領と、米内首相は、そこまで見据えていた。
「英のチェンバレン首相や、仏のダラディエ首相は、我々と行動を共にすることについて承諾しました。それに、ポーランドも、自国民を宥めるために、チェシン問題については、チェシンを自国領にさせてもらうが、いざという時は、助けてほしい、とのことです。その見返りとして、エニグマ解読等に協力するとのことです」
米内首相は、ルーズベルト大統領に、そう伝えた。
ルーズベルト大統領は、含み笑いをした。
「それだけの協力の輪が広がるのは、ありがたいことです。チェコスロバキアを見捨てることに、忸怩たるものはありましたが、それだけの価値はあったようですな」
「全くです。現時点で、独ソと開戦した場合でも、我々が、勝てなくはないでしょう。ですが、それによって生じる損害は大きなものになるでしょう。後、1年経てば、我が国の軍備は、それなりに整いますし、英仏の軍備も強化されます。米国も、同様とお伺いしてよろしいですか」
「我が国の軍備も格段に強化されます。軍備の基礎となる国力について、独ソを、我々は圧倒しているのですから」
「平和を望みたいものですが、戦争への備えを怠れませんな」
「全くです」
ルーズベルト大統領と米内首相は会話した。
ご意見、ご感想をお待ちしています。




