第8章-1 ミュンヘン会談とチェコスロバキア解体
第8章の始まりです。
「気に食わん。全くもって気に食わん」
1938年9月29日、ミュンヘン会談の場において、伊のムッソリーニ統領は、随員に呟いていた。
「あのヨナイが、わしの視界に入る度に、わしは腹が立って仕方がない」
ミュンヘン会談には、世界の七大国、米英仏独ソ伊日の首脳が勢ぞろいしていた。
その中で、各国の新聞記者達の一番人気なのが、日本の米内光政首相だった。
「あの男は、ヴェルダン戦等で、鬼貫と敵味方に謳われた猛将、鈴木貫太郎提督の右腕にして、清朝のラストエンペラー、溥儀を「北京政変」の際に、北京から救出した日本海兵隊の英雄。あの男の引き立て役に、わしはされている」
ムッソリーニ統領の憤懣は、米内首相の姿が、自分の目に入る度に募る一方だった。
無理もない話だった。
伊と日本海兵隊の因縁は、極めて深い。
第一次世界大戦でのチロル=カポレットの戦い、スペイン内戦におけるスペイン国民派支援、と伊陸軍は日本海兵隊と共闘した経験があるが、伊陸軍は、日本海兵隊の引き立て役と言われても仕方ない有様で、
「伊陸軍兵10人よりも、サムライ(日本海兵隊員の異名)1人の方が、戦場では役に立つ」
と英仏独西の国内では謳われる有様だった。
更には、最近のサッカーの伊代表の、(海兵隊員からなる)日本代表への敗北もあった。
ベルリンオリンピック決勝戦では、伊代表は日本代表に惨敗し、そのすぐ後のローマでの伊プロ選抜代表との親善試合でも、日本代表に伊は負けるという屈辱を喫していた。
今年のワールドカップで伊代表は雪辱を果たす筈が、日本代表は、中国内戦に海兵隊員が派遣されたために不出場という結果になり、世界各国の新聞で、日本がいなかったために、ワールドカップで伊は優勝できた、と書き立てられては、ムッソリーニ統領の憤懣が高まるのも無理はない話だった。
だが、各国の新聞記者の間で、米内首相の人気が高いのは、別の理由があった。
「いやあ、かなわないよ。英仏二か国語に加え、独伊二か国語でも、各国の新聞記者に質問され、何となくわかるから、つい答えてしまう」
米内首相は、吉田茂外相にぼやいていた。
「本当に注意してください。秘密を守れない、と各国首脳陣に思われては、外交が上手くいきません」
老練な外交官でもある吉田外相は、あらためて米内首相に注意していた。
米内首相は、(第一次)世界大戦で欧州に3年余り、派兵された際に、海兵隊士官として、英仏二か国語を叩きこまれ、更に英仏米各国士官とのやり取りの中で、英仏二か国語を実地に使用している。
かなりさび付いてしまったとはいえ、今でも英仏二か国語での日常会話が、米内首相は可能だった。
更に伊に1年ほどいた際に伊語を、独軍と戦う中で独語を、自然と米内首相は学ぶ羽目にもなった。
そのため、片言ではあるが、独伊二か国語も、米内首相は分からないことはなかった。
更に、本来から言えば、米内首相は、生粋の軍人と言っても過言ではない存在である。
つい、欧米各国の新聞記者にのせられ、口を滑らすことが、米内首相は多く、それもあって、各国の新聞記者の取材の的に、米内首相はなっていたのである。
最も、これは、米内首相と吉田外相が連携して行っている、半ば演技でもあった。
米内首相に注目が集まっている間に、吉田外相は各国の代表団の随員等と、秘かに接触することで、この首脳会談で、具体的な成果を挙げようとうごめいていたのである。
米内首相に、各国の新聞記者の注目が集まるほど、それ以外の動きが、各国の新聞記者の目に入らなくなり、吉田外相の影働きが、上手く行く公算が高まる。
吉田外相には、影働きの結果、首脳会談の落としどころが、徐々に見えつつあった。
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