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一般向けのエッセイ

「龍が如く0」のシナリオからクリエイターの技術の問題について考える


 ゲームなどを見ていればはっきりとわかるが、技術というのは大抵、年々向上していく。僕が子供の頃遊んでいたスーパーファミコンのグラフィックを今の十代が見れば「しょぼ!」と言うと思う。


 技術というのは年々、進歩していて、それは様々な領域でそうなっている。その根底にあるのは、理数系の学問は論理による積み重ねができる、という事にあると思う。今、自分は「物語 哲学の歴史」という本を読んでいるが、哲学なんかだと、過去に比べて今の方が進歩しているかというとかなり微妙な感じがする。とはいえ、理数的な、論理学の取り扱いなどは進歩しているのだろうと思う。


 自分はゲームなんかも昔から好きで、ちょいちょい時間があいたらやっている。それで、新作ゲームなどでよくあるのが「華麗なグラフィック! 壮大なストーリー! 新しい戦闘システム!」みたいな宣伝文句だが、実際やってみると「大した事ない作品だなあ」と感じたりもする。この時、宣伝文句自体には間違いはないのだろうが、結局の所、製作者の『意図』あるいは『理想』そのもののレベルが低いので、いかに高い技術を駆使しても、全体としては『低い作品』しか出てこないという、根底的な構造があると思う。


 以前に、ある大きなゲーム会社の元社長の講演文章を読んでいて、反発を覚えた事がある。うろ覚えなのだが、要するに「今の時代は昔と違って、少数の天才がゲームを作るのではなく、大多数の人の努力の積み重ねで作品を作っていくべきだ」みたいな事である。これは言葉だけで見ると正しいように思える。しかし、実際的には大多数の人を一つの方向に束ねる統率力、全体を一つの方向にまとめる意志、理想がなければならず、結局の所そうした場所には、何かしらの形で有能な人間を入れなければならない。そしてこの有能な人間とは言われた事をできるという意味の有能ではなく、何をなすべきかを知っており、目的そのものを作り出すようなタイプの「有能」という事だ。


 こうしてビジネスという部門で考えていっても、自分がシンパシーを感じるのは、任天堂の山内溥とか、スティーブ・ジョブズだったりする。彼らの語録を読んでいた時期があるが、彼らの言葉は非常に真っ当で、地に足がついている。今言った大会社の元社長の言葉はそれとは逆に、地に足がついていないというか、要するに頭でっかちな優等生という雰囲気を抜け出せていなかった。ソーシャルゲーム、クラウド、新興市場を開拓する、ネットとの融合……などの、きらびやかな言葉の陰でその人物が一体何を理想とし、どのような作品を『具体的に』生み出したいかという事が結局見えてこない。


 元の話に戻ると、VRやARなどの技術が発展していく事は基本的には良い事には違いない。しかし、それが「何であるか」という事を洞察するある視点は、そのまま作者の理想という形に結晶する事になる。どれほど技術が高くても、製作者の意図そのものが低ければ低い作品が生み出されるに留まる。


 これを言うと怒られるかもしれないが、初期のドラクエやFFなどは、作品単体として見てしまえば、過大評価されている作品だと自分は思っている。自分は元々、ドラクエやFFドンピシャの世代で、友達と一緒に熱心にやったタイプの人間だ。ただ、大人になってドストエフスキーやらカントやら何やらを個人的に知っていくと、ドラクエやFFがここまで皆に評価されるほどの凄いものではないという事が段々見えてきた。


 とはいえ、もちろん、世の中がこれだけ評価するのには理由がある。それは何かと言えば、ゲーム黎明期の時代には、グラフィック、ストーリー、音楽、キャラクターなどを一つのパッケージに詰め込んで、一つの流れる体験として味わせてくれる作品はほとんどなかったのであって、先陣を切ったのがドラクエやFFだったという事なのだろう。つまりは、ドラクエやFFの大きな評価というのは、作品単体の評価というよりは、時代的な、ジャンルの黎明期に、一つの模範を作り出したという意味での評価が大きいと思う。


 これを「技術」の問題として、元に帰って考えてみると、ドラクエやFFは音楽、グラフィック、ストーリー、操作性などの、それまではバラバラだったものを一つの、ある程度高い次元で融合できるというモデルを示してくれた。そのプレイ経験があるからこそ、僕達はドラクエやFFをこうも評価しているのだと思う。だから、今、同じ事をこの時代にやろうとしても、当時のような高い評価は得られないだろう。


                           ※


 さて、ここでこの文章は終わってもいいのだが、具体的な作品に沿ってもう少し、技術の問題について掘り下げて考えてみようと思う。例として取り扱うのは「龍が如く ゼロ」という作品で、最近これをプレイした。(ここからは『ネタバレあり』で行く)

 

 龍が如くシリーズというのは人気の高い作品で、キャラクターとかストーリーとか全体的に非常によくできている。ほかのゲームをしていても、イベントシーンにそこまで引き込まれるゲームはあまりない。龍が如くゼロもよくできている。


 しかし、自分はこの、非常によくできたゲームをしていて、物語が後半に行くにつれて、色々疑問を感じた。物語が盛り上がりを見せるにつれ、段々自分はこのゲームから気持ちが離れていった。


 何故そうなったのだろうか。一つには、やたらどんでん返しや、隠された謎が明るみになる、伏線回収、みたいな事が多いからだ。謎めいた〇〇という人物は実は××の兄弟でした…みたいな事が次々と出てくる。それから違和感としてあるのは、主人公の桐生にしろ真島にしろ、イベントシーン以外では大量の敵を一人でぼこぼこにやっつけるのだが、イベントになると急に相手の策略にかかってピンチになって、そのピンチが次の物語を生む、という仕掛けになっており、これを連続でプレイしていると、プレイヤーは製作者の手のひらで自由に転がされているような、人工的な感覚が出てくる。


 (ここからネタバレあり)

 そうしたなかでも自分が一番違和感を感じたのは、立花という社長が死ぬ場面だ。立花というのは基本的にいい人、いいキャラで、主人公側の味方だ。それが物語終盤で敵の拷問にあって殺されてしまうのだが、それまでに立花は何度も窮地をくぐり抜けている。立花の死と共に、妹が現れ、彼女は立花の遺骸を抱いて、果たせなかった兄弟の出会いがそこで果たされる…という感動の場面が出てくるのだが、自分はどうしてもそこに感情移入できなかった。何故なら、立花はそれまでに死にそうなピンチを何度もくぐり抜けていて、言ってみれば製作者の側で立花をいつ殺す事も可能であると感じてしまうからだ。もっと言えば桐生ちゃんにしろ真島にしろ、彼らをピンチにするのも、そこを切り抜けさせるのも、製作者の手腕一つでどうにでもなり、またそうした手腕を駆使して、上記のような感動できる場面を作っている…そういう人工的な感覚がプレイ途中から違和感となって出てきて、自分はどうしてもゲームにのめりこめなくなった。これと同様の感じをメタルギア3なんかで経験した事がある。


 もちろん、シナリオというのはシナリオライターが作るものだから、ある程度は制御してコントロールされなければならない。しかし、視聴者にこれでもかこれでもかと謎解き、どんでん返しを見せ、なおかつ感動できる場面を、自分の作ったキャラクターを殺す事によって現出させる…それは本当にシナリオづくりとして素晴らしい事なのかという疑問が自分の中に湧いてくる。


 ではどうすればいいのだろうか。これは、もしかしたら視聴者の方にも問題があるのかもしれない、と自分は思う。ゲームプレイヤーももう色々な刺激になれっこになり、色々なストーリーを体験済みだ。だからこそ、龍が如くのシナリオライターは、手を混んで複雑なストーリーを創りだそうとする。普通のストーリーでは満足できない、ボリュームの少ないゲームは嫌だ、もっと遊びたい、もっと楽しみたいという人工的な欲望に応える形で最近のゲームは手の込んだ作品を送り込んでくるが、そうした応答にはそもそもある欠陥があるのではないかと自分は感じている。


 その正体はなんだろうと考えてみると、(ここからはゲームから外れる)、視聴者、クリエイター双方にある『傍観者意識』ではないかという気がする。何か、作品というものを手先で作り、それを自分とは違う場所にあるものとして感じ、それを巧妙に操作する事で、ゲームやアニメや小説ができあがる。読む側、見る側も傍観者であって、自分とは遠くはなれた場所で「面白い」「面白くない」と言う。結局の所、どんな大傑作がでてきたところで、それは視聴者の傍観者意識を揺るがす事はできない。どんな作品も彼らの根底にある、いわば椅子に深く腰掛けて、作品を歎賞するという態度を突き崩せない。クリエイターの方もそうした態度を共有している。例えば、上記の「死」の問題においては、安々と自分のキャラクターを、感動場面を作るために殺せてしまう。平和な時代の平和な作品で、そうした意識に浸り、自分の「死」について振り返らないからこそ、キャラクターの死をいくらでも手のひらで弄べてしまう。しかも、その弄びの技術が上手な人が、「プロ」のクリエイターとして尊重される。そういう、現代の先進国特有の問題が日本でもアメリカでも(アメリカの最近のゲームはある意味もっとひどい)あるのではないかと思う。

 (ちなもに、まどか☆マギカではマミさんがマミったりするが、死を弄んでいる」とは感じなかった)


 ここまで考えると、これは単にゲーム作り、シナリオ作りの技術の問題から大きく外れてしまうが、根底的にはやはり、作者の自己認識、世界認識が問題となっていると思う。またそれは視聴者の肥えた目線にも同様の問題が有り、視聴者が自分を疑わない、クリエイターが自分を疑わないという点に現在の問題はあると感じる。傍観者意識がどこにも染み渡り、希釈された基準の中で全てが演じられる。シナリオは「技術」でありピアノ演奏も「技術」であり、様々な事が「技術」であるのは、そもそもその技術そのものが行使される基準が一元的に規定されているという事だ。シン・ゴジラを見てもつくづくそう思ったが、この基準のうえで高得点を叩き出す作品は皆からこぞって絶賛される。しかしこの基準そのものを疑い、破壊するようなもの(例えば「地球は回っている」という真理)は賛否両論か、全面的に否定されるか無視される。しかし、歴史に残るのは既存の文脈を精巧になぞったものではなく、それを壊し、新たな文脈を作る作品だ。人々はこれに遅れてついてくる。自分としてはそういう作品を期待したい。

 

 (…しかし、まあ、そこまで望まなくても、シナリオを作るという時は、シナリオ作りの精巧さだけではなく、見る側が全体を「自然」と感じられる要素も考えられるべきではないかと思う。(この「自然」は違和感がないというような意味だ)エンタメのシナリオとしてうまくできていると思うのは、例えばジョジョの三部だったりする。ジョジョ三部は話としてはラスボス・ディオをぶっ倒しに行って、ディオをぶっ倒すというだけの作品なので、作品構成は単純とも言える。ただ、単純であってもつまらない作品ではなく、むしろ非常によくできたエンタメ作品になりうるという見本になると思う)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本物の傑作とは、新しい概念を高い次元で融合したものであり、後に一つの典型となって模造品が量産されうるもの、つまり先駆けとなるものである。 龍が如く0のシナリオはよく手の込んだものだが、逆…
2019/07/06 21:10 退会済み
管理
[一言] 龍が如く0下りの理不尽感はすごく判ります。 色々理由はあるのでしょうが、私はプレイヤーとゆうゲームでアクションを起こす側をいちいち意識していられない製作側の都合だと思います。 ゲームとは…
[一言]  日本のゲーム業界における問題は、『クリエイター』、つまり『創作者(作家)』の不在だと思う。  よく言われているゲームクリエイター()という人々は、実際には、ゲーム・エンジニアであって、彼ら…
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