第八十八話 未だ遠く
爺さんは目が特殊だと言った。つまるところ、通常人の目で見えない物が見えているのだろう。
皮肉にも、俺自身の目で確かめろと言ってのけた。笑えない冗談だ。
「俺は端からそのつもりだったんだぜ。時間は有効に使おう」
言葉を言い切る前に俺は駆けだす。もっとも、無策で突っ込めばそれこそ一巻の終わりだ。認めたくはないが、この爺さんは丕業とは関係ない所で随分とまぁ化け物染みている。
薬死は使えない以上、俺の残された手は限られる。
「大蛇!」
俺の手持ちの蛇で最高硬度を誇る大蛇を先行させ出方を伺う。
爺さんは俺の方へとちらりと視線を向けるとすぐに目の前に迫る大蛇と向き合う。
獲物に覆いかかろうと大蛇がその大きな口を開く。全長二十メートルにも及ぶ長大な身体を撓らせ、爺さんの頭にかぶりつく。
だが、またしても狙いを......いや、心を読まれていたように最小の動きで回避すると、死角に潜りこみ、姿を消す。
「クソ!これだ!」
俺から見える景色の端、おそらく死角を常に移動している。だから俺は奴が瞬間移動してるように感じてしまうんだ。死角から死角へ。見えないところから、目の見えるところへ。
見失った姿を必死に追い求め、夢中で辺りを見回す。
「!? そこか」
だが、種が分かってしまえば対処はそうそう難しいものじゃあない。
絶対的な死角は人にはある。眼球が前方についていているという事は、その真裏が俺の死角。つまり、今奴は俺の後ろ、細い枯れ木の裏!
「大蛇そこだ! 食らいつけ!」
俺と大蛇は心中で会話ができる。もっとも奴の言葉は酷く拙い言葉でしかない。「嫌だ」とか「分かった」程度のものだ。
今、心の中に肯定の意思が流れ込んできた。間に合う!
空ぶった頭を揺すり、百八十度回転させ背後の枯れ木をなぎ倒しながら土を飲み込む。
確かに何かが大蛇の口腔内に入り込んだのが感覚で分かった。
大蛇も憎き敵が口の中に放り込めた喜びからか、喜色の念を送る。何かを噛み砕く音、すり潰れる音、流れ落ちる音。一貫して壊れる音だった。
ここまで来て俺は漸く安心できた。
「本ッッ当に気味の悪い爺さんだった。二度と会いたくないね」
「おや、それは残念だ。私は今にでも会いたかったというのに」
――腹の底に響くような、重低音は耳元で生まれていた。
「ばか......な!?」
「言ったではないか。誰が一番最後まで生き残るか、身をもって体験したまえ......と」
目の前の光景が受け入れられず、大蛇の方へと目を向けた。
眼前に広がっていたのは、血の溜まりと肉片。数分前まで友がその場で蜷局を巻いていた筈だった。けれど、おかしなことにその友の姿は無く、今はただの肉の塊しかなかった。
「外皮の硬度は先ほどの一手で分かった。手持ちの物では傷をつけることが叶わないと踏んだ。なのであえて飲み込まれてみたが......内側は随分と柔かったな。知らなかったのか」
淡々とただ当たり前の事象を説明するように口を開く爺さん。所々が血で染まり、赤黒い斑模様が出来ている。
「友の内臓の強度を知ってる奴がいるとでも思ってんのか......」
声が震えていた。爺さんの様に腹から響く声は出なかった。やるせなさと、絶望と、悲しみが声帯を震わせていた。
「私の説明で、君は一つ勘違いをした。私の呪いで『心の中を見られている』とな。まぁ、そういう風に誤解を生むために説明したのだがね。私の呪いはそんな大仰なものでは無い」
執事服の内ポケットから取り出した絹製と思われる純白のハンカチで顔を拭きながら、爺さんはわざわざ俺に説明をしてくれる。
「だから君は慢心した。自身の丕業で作られた蛇だったらそうはいかない、と。反撃をされない距離からの奇襲は確かに上手くいったが......」
「あんたは、ただ動きの流れを読んだだけ......」
言い終える前に俺はぽつりと一つの答えを零した。
「そう、それを悟られれば私の勝ち目はないからな......心を読むという力で虚勢を張り続けた。結果としては上々といった所だ」
準備が整ったのか、どこからか取り出したナイフを左手に構え、ゆっくりとこちらへとやってくる。
クソ......。クソクソクソ......。クソが......。俺の友達を......。あぁ、やっぱり人間はクソだ。そうやって正当防衛面して綺麗ごとで俺たちを殺すんだ......。亡の旦那、やっぱこの世界は俺たちに優しくない。
「この優しくない世界にもう一度引っ張り出してごめん、芭禍羅。友達にはやっぱり生きていてほしかった......こんな世界といえど。旦那なら何とかしてくれるさ。だから階は頼んだ。後、次いでと言っちゃなんだが......俺のも託すわ......」
脳裏に蘇るのは、排他される俺の仲間。この生き辛い世界でひっそりと生きる、影の世界に住む者たち。人間が増え続け、その度に俺たちは減り続ける。世界は零に収束されている。増えれば増えるだけもう一つの世界が減る。そんな世界の天秤を旦那ならぶち壊してくれる。
「人にとっても......この世界は優しくはない」
俺の独り言に反応を示す爺さん。これから俺を殺すというのに憎しみや悲しみは欠片も見受けられない。在るのはただただ同情。
「黙ってろよ......人間」
「なぜそこまで、人を憎む?」
「憎まれたからだ」
「身から出たものはいずれ自身に帰って来る。より大きくなって......」
はは、笑えるな......。この人間は大層な事を言ってのけた。
「じゃああんたは俺たちと同じ運命だな」
精一杯の皮肉を唾と共に吐き捨てた。
「だろうな......。もう、彼らの様には生きていけまい。憎しみで生きているなど、死んだも同義だ」
「......」
振り下ろされたナイフがゆっくりと心臓に突き刺さる。鋭利な氷柱が生えてきたような感覚の後、マグマを流し込まれたような焼け付く痛みが襲い掛かってきた。
もう、避ける気も走る気も無かった。友が死んだ時点で俺も死んだんだ。
「ごほ......なぁ、爺さん。あんたの名は?」
器官に血が流れ込んで来たのか、一言喋ろうにも労力を費やす。
「幻秋だ。家名は捨てた......。ただの幻秋だ」
「そうか、幻秋か......良い名だ。そういえば......」
何十年と生きて、何百と人間を殺してきたが――
「俺の生まれも確か......秋だったように思う。燃えるように......赤い葉の絨毯で......小さなころ......あそ......で......」
――人の名前を聞いたのはこれが初めてだったな。
「こういった事を、彼らに背負わせなければならないのか......」




