第八十一話 迫る音 一
「皆無事か!!」
銭湯から脇目もふらず宿泊先へ帰ってきた。もしかしたらここもバレているかもしれないという強い恐怖心が、俺の身体を強く動かした。
玄関は何事もなかったように、俺たちが出て行った状態で沈黙を守っていた。
板張りの廊下を駆け、リビングに繋がっている扉に手をかける。
「んお。どーした千草」
髪が濡れたままの状態で、寝転んでいる阿南の姿が目に入った。
いつの間に買っていたのか、漫画本が近くに積まれている。
「......よかった、何もなかったか」
俺の背中側から声を出す辰巳先輩。安堵の息が漏れる。
「なんか、わけありそうっすね?」
ソファーに深く腰かけていた大御門が不審げに顔をこちらに向ける。
「......参華咒の下っ端に襲われたよ」
リビングに入り、腰を下ろす。漸く落ち着けたため直ぐに立ち上がれそうにもない。
寝転んでいた阿南は瞳を大きく開くと立ち上がり、俺に詰め寄る。
「......やっぱりあいつらか!」
「あぁ、お前の予想通り俺たちはつけられていたみたいだな。ここも、もしかしたらバレているのかも。別れた刑事さん達が心配だ......」
「まぁ、だからと言ってどうすることもできないな......。とりあえず連絡だけでも入れておくか?」
「あぁ......」
俺は部屋に置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、渡された番号を入力する。
『――はい、松木です』
『俺です!八夜です!今どこに!?』
『八夜君か。どうしたそんなに慌てて』
スマホから流れる声は随分と穏やかだった。とりあえず彼らは無事の様だ。良かった......。
『――という事があったんです。松木さんも気が付いていたと思いますが、くれぐれも用心してください』
先ほどの事を手早く伝える。暫しの沈黙が流れ、松木刑事が返す。
『なるほど、分かった。後刻にも連絡は入れておこう。ありがとう。俺は今自室にいるから大丈夫だろう......君もあまり、無理をするなよ』
『えぇ。俺は大丈夫です......。また、何かあったらすぐに』
『そうだな。明日また連絡するよ。おやすみ』
おやすみなさい、と返事をして通話を切る。
「刑事さんたちは無事みたいだな」
俺の会話を聞いていたのか、阿南が安堵の表情を見せる。辰巳先輩は良く分かっていないようで、黙ったままこちらに顔を向けていた。
「とにかく、参華咒が俺たちを狙ってるのなら......こちらも気を付けなきゃならないな」
俺はスマホを机に置き、部屋にいる人全員をぐるりと見渡す。紫吹先輩の姿が見えないが恐らく風呂にでも入っているのだろう。
「電話中、阿南からざっくりと聞いたけど刑事さんと知り合ったんだって?」
大御門が髪をくしゃりとかきながら俺に聞いてきた。
「うん。たまたまだったんだが......有り難いことに俺たちに協力してくれるそうだ」
「ふーん。まぁ......そうか。けど......参華咒がね......」
何か思いつめるような表情を作る大御門。参華咒の事を知っているのだろうか......?
「......」
俺はあまりそこに踏み込むことが出来ず、黙るしかなかった。きっとそこは彼が着いてきた理由だと思ったからだ。
「お風呂あがったよー☆」
大声と共に扉を開き、紫吹先輩がリビングに入って来る。
「おま!フーロ!服装を考えろ!」
途端、慌てた様に辰巳先輩が詰め寄る。
「え?だって暑いじゃん」
「だからといって!!!」
「あーつーいーじゃーん」
「あーもう!」
紫吹先輩の姿はあまりにも刺激が強すぎた。彼女は下着の上から軽くバスタオルを羽織っているだけで、肌色がかなり露出している。健やかな太ももは部屋着以上に外の空気に触れ、へそは惜しげもなく俺たちの眼前に。滴を伴った健康的な四肢は随分と主張が激しい。
俺は咄嗟に目を伏せた。彼女は決して怒りはしないだろうがなんとなく気が引けた。阿南も同じように下を向いて目を瞑っていた。
「......ふむ」
そんな中、大御門だけが一秒すら惜しむように目を見開いていた。脳に焼き付ける事に全力を注ぎ、随分と前のめりだ。「ふむ」とか落ち着いたように独り言を言っているが全身は狂喜乱舞している。なんだこいつは。
「あーもう。分かったから!直ぐに着るから!」
根負けした形で紫吹先輩は部屋着に着替える。大御門は至極残念そうな表情を見せたのち、元のすまし顔に戻っていた。
「......んで、なにかあったんじゃん?」
着替え終えた紫吹先輩のその一言で、漸く本題に切り出せた。
* *
暗闇に葉が擦れある音が鳴り響く。風も凪いでいるというのに。
「あのー芭禍羅さん。ちょっといいです?」
茂みに声をかける男が一人。どこにでもいるような、特筆すべきものは無いスーツ姿のその男は気だるげに首を回す。
「例のあれ、見つけたんですけど......」
すると、茂みから男の首に絡みつくように枯れた蔦が、驚くような速度で飛び出す。獲物を捕らえると蛇の様に蜷局を巻き、男を持ち上げる。
「あれ?芭禍羅さん。もしかして怒ってます?やだなぁ。仕事は果たしたじゃないですか」
首をひっ捕らえられ、今にも絞殺されそうになりながらも男はにっこりと笑みを携える。そこには怯えも驚きも無かった。
「今、食事を、しているんだ。誰だって、ヤだろ。飯の、時ぐらい、穏やかで、ありたいと、思わないか?」
「言外に僕の存在を否定してます?」
「ハッキリ、と、言った方が、わかり、やすいか?」
「僕は傷つきやすいんです。デキれば心の中に閉まっていて欲しいですね」
「わかった、善処、しよう」
茂みがより一層大きな葉音を立て、揺れる。中から出てきたのは黒い薔薇に包まれた人の形をした何か。
芭禍羅と呼ばれたその人物は、手にしていた人間の身体を放り捨て数度口元を拭う。実際には口と呼べるものは見えていなかったが、おおよその場所で『口元を拭っている』と男は理解した。
「へぇー。人の体液でも吸ってるんです?そうやって触手を突き刺して?」
打ち捨てられた死体に目を落とす男。視線の先には夥しいほどの穴があけられており、そこから血を抜いとったのだろうと推測した。死体は枯れた様に干からびて、ぴくりとも動きはしない。
「別に、食べなくても、生きて、いける。けど、どうせなら、楽しく、食事を、したいから、な」
独特な間を持って男に説明する芭禍羅。
「人を突き刺して生き血をすすることは楽しい事なんだ?」
先ほどから微笑みを崩さない男。
「誰だって、そうだろう?俺だって、例外、じゃない」
顔の薔薇がカサリと音を立てる。
「東京の......えぇと......そう、尸!あそこの生徒が何人かここに来てるみたいですよ?見覚えのある顔と会いましてね」
「......階、の事に、気が付いているのか」
「さぁ」
数秒程、考えるように黙り込む。辺りは無音を貫き、誰も音を出さない。
「まぁ、早い、方が、いいだろう。参華咒の所に、アレ、は、あるんだろう?」
「そうそう、そこに......ってあれ、僕言いましたっけ場所の事?」
「さぁ、明日に、でも、取り返そう。アレが、ないと、時間が、かかりすぎる。時間は、惜しい」
そういうと、芭禍羅はその場を立ち去り宵闇に溶け込むように姿を消す。
「あれ?僕このままですか?芭禍羅さん?」
男は漸く事態を飲み込み、焦ったように足を動かす。だが、地面には届かず空気を切る虚しい音だけが、自身の鼓膜を揺らした。




