第七十三話 供花はここに 三
男はどこにでもいるごく平凡なサラリーマンの様相で、くたびれた濃紺のスーツがどこか哀愁を漂わせている。目にかかるかかからないか、といった程度の髪の毛は整髪料もついてはおらず、少しハネていた。三十前後と思われるサラリーマンはゆっくりと歩を進め、橋を渡り切ろうとしていた。
「その場から動くんじゃない!!」
後刻が声を荒げ、静止を要求する。
先ほどまで穏やかな雰囲気を醸し出していた後刻が一変して、決死の顔でサラリーマンを睨み付ける。その豹変ぶりに瓔は身体を縮める。
「ヒッ」
後刻は悪いとは思いつつも、サラリーマンから目を逸らさない。
これは刑事の勘というものだろうか。キャリアで言えばまだまだ下積みで、経験と呼べるものも未だ浅い。だが、全身が鳥肌立ち、この男が危険だと知らしめる。
サラリーマンは困ったように眉をくねらせ、分かりやすく表情を作る。
「えっと......あなた、どこかでお会いしましたっけ?用があるのはあなたではなく、そこの花なんですが」
「動くな、といったんだ。刑事だ......不審な動きをみせたら発砲する」
幸い内ポケットに手を突っ込んだ状態であったため、さも、今から拳銃を取り出すような仕草を見せつけることが出来た。勿論これはハッタリ。そもそも現在、後刻は拳銃を所持していない。
「まぁ、いっか。時間の無駄だし......人もあまり居ないみたいだし」
諦めた様に踵を返す男に、安堵のため息をつく後刻。知らないうちに顔には汗が張り付いており、頬を流れる。
「――殺せばいっか」
次の瞬間には、男が後刻の左前方に迫ってきていた。
死の間際、走馬燈がよぎるとよく言う。だがそんなものは全く訪れず、後刻は全てがスローモーションになった世界で、一秒を永久に感じていた。
サラリーマンの男が手刀で首を狙ってきているのが良く分かった。見れば、手の辺りの皮膚がどす黒い紫に変色していた。考えなくても分かった。これは『毒』なのだと。
ゆっくりと手刀が振り下ろされる。見えていても、身体は世界の速度についていくしかないようで逃れることは出来ず、振り下ろされた手を受け入れる未来しか待ってはいない。
瓔は漸く、男の行動に目が追いついたようで、やがて訪れる未来の惨劇に悲鳴を上げていた。
「――間に合った、か?」
振り下ろされた凶器は、後刻の手前でぴたりと止まった。
「え......?」
男の手首を何者かが握りしめ、受け止めていた。あと数センチ振り下ろされていたら、間違いなく後刻は命を落としていただろう。
一人の少年が、心配そうにこちらを見下ろす。
「怪我はありませんか?」
――右の瞳が、薄ぼんやりと闇夜に浮かんでいた。灰色に染まった瞳は妖しく、けれど優し気にこちらを見ている。
暗がりであまりはっきりとは分からないが、髪の一部にも同じような色を宿していた。
「......あ、あぁ」
つい、言葉に詰まってしまう。
「邪魔しないでほしいんですけど【鎧骨】君?」
苛立たし気なサラリーマン。尚も手は捕らわれたままの様だ。
「なんでお前がここに居るんだ【六本腕】」
どうやら面識があるらしかったが、この場で問いただす程、後刻に余裕は無かった。
六本腕と呼ばれたサラリーマンが手を払うと、大きく後退して距離を開ける。
「ま、いいですよ......。その子が持ち歩いているんでしょ?必要になったらまた取りに来るんで。それじゃあ」
それだけ言い残すと、サラリーマンは闇に溶け込むように逃げ出した。
「ふぅ......」
サラリーマンが消えた先を見据え、吐息を漏らす少年。
「刑事さん......ですよね?先ほど少し声が聞こえました」
「ああ、そうだ......。君は......いや、さっきの男も、この子も、一体何が何やら」
一息つくと、頭が再び混乱しそうになる。
「何から話せばいいのか......とりあえず皆無事でよかった。瓔君も、ね」
しゃがみこみ、瓔と目線を合わせる少年。朗らかな顔で頭を撫でる。本人は訳もわからずされるがままの様だが......。
「お兄さん、何で僕の名前を......?」
頭に置かれた手にそっと触れながら疑問を口にする瓔。不思議なことに、あの白い花も少年に寄り添っている。
「君と......君の姉を助けに来たんだ。我孫子 瓔君」
後刻が聞きそびれたフルネームを口にして、少年は瓔の手を優しく握る。
「いや、助けるは違うな......約束したんだ、君のお姉さんと。その約束を果たしに来た。俺の名前は――八夜千草」
八夜千草と名乗った少年は、京都の夜風に持ち上げられた灰色をした髪をくしゃりと握り、穏やかな顔をして立ち上がる。
後刻は少年の神秘的な容姿に暫く目を離せないでいた。
瓔の手をひいて立ち上がる八夜千草が、後刻の瞳にはおとぎ話に出てくる救世主の様に映った。




