第七十話 朽ちる躑躅と溶ける群青 二
「千草、ちょっといいか」
言うべきことがあるのは分かっていた。しかし、どちらが先に口を動かすか、探り合っていた。
既に時刻は夕方に差し迫ろうとしている。雨雲はとっくに立ち去り、剥き出しの太陽がこれ見よがしにその存在を俺に差し出す。
湿り気を帯びた空気を纏いつつ、未だ口は動かない。
階下の校舎では先生たちの声が響き合っていた。その声には様々な感情が含まれているように聞こえた。
「――謝らなくちゃいけない事がある」
先に言葉を発したのは阿南だった。
俺たちは錆びれたフェンスに背中を預け、互いに前を向いていた。
「前に姉の話をしたよな」
「あぁ、覚えている」
阿南は幼少時に姉と二人でいるところを死蟲に襲われた。丕業が発現したのはその時の筈だ。
「その後俺は、校長の六道に指導を受けた。丕業の扱いとか諸々。当時俺は何も感じなかった......いや、憎しみを抱いていたからそれは嘘だな......けど、それ以外は本当に......何も無かったんだ」
そっと横顔を見る。阿南は穏やかな顔を前に向けていた。
「ただただ死蟲を殺す。それ以外は死蟲を殺す為の技術に。姉を奪い返す一心で」
「......」
「この高校に入学したのは、さ。死蟲をより多く殺して、姉に近づくためだった。校長との繋がりがあれば、姉の情報もより多く入るだろうという打算だ。尸高校における【阿南対馬】という人間も効率的に人と仲良くなるための演技でしかなかった」
演技、という割には随分と楽しんでいる様にも思えた。
「――ここに入学する前に、千草の事を六道から聞いた。姉のことも」
「......ちょ、ちょっと待て。それじゃあ......あの時姉さんの病院にいた死蟲は......そういえばあの時窓の外で、黒い染み......みたいな影が......阿南......」
「今の【黒い染み】というので合点がいったよ......六道が裏で手をひいていたんだろう。千草は知らないかもしれないが、土師ノという人間が死蟲を病院に放った......筈。あいつは影を媒介に物を出し入れできる」
「うそ、だろ......」
いても居られず、阿南に詰め寄る。怒りのままに襟を強く握ってフェンスに押し当てた。
「なんで......そんな事......だって、お前だって姉が......わからないのか!?」
言葉がうまく紡げなかった。感情だけが、浮き沈みしてやるせなかった。
「言い訳はしない......全くもって知らなかった、とも言わない。けど......もしかしたらと、あの時俺は千草をつけていたんだ」
諦観の表情で、俺に言いようにされる阿南。
「これが俺だ。阿南対馬だ......。良い様に踊らされて、全てが中途半端で、不完全な、俺だ。お前の姉を危険に巻き込んだのは、姉を必死に追い求める......俺だったんだ」
俺はしばらく口を閉じた。
何故あの時姉が襲われたのか――それはたまたまでは無くて俺自身によるものだった。
何故あの時都合よく阿南がいたのか――俺を知っていたからだ。
ふとした時に阿南の表情が陰る時があった――知っていたからだ。
「気のすむまで殴ってくれ。到底許されることではない......そうしてくれないと......俺はここにいる資格がない」
互いの視線がぶつかり、阿南が折れた様に目線を逸らす。
「――あぁ、分かった......」
言われるまでもなく、そうするよ阿南。
拳を強く握り、振り上げる。
渾身の力で振り下ろし、阿南の顔――をすり抜け背後のフェンスに叩きつける。
「いいか阿南。俺は殴ってやらない。何の解決にもならないからな!お前の罪悪感が薄れるだけだ!」
痛みを堪えるために目を瞑っていた阿南がそっと瞼をあげる。
「この貸しは高くつくぞ!姉さんの為に、無償で働いてもらう!」
ポカンと口を開け、未だよく呑み込めていないようだ。
「姉だけじゃない......。俺の都合にもお前を巻き込んでやる。俺は誓ったんだ、俺が選んだ道に訪れる全てを受け入れるって。誹謗も中傷も受け入れる。受け入れる強さを手にする。前に言っただろう?強くなるって」
「......あぁ」
「腕っぷしの強さだけじゃない......人間として強くありたい。守れる強さがあるなら......手に届く範囲で良い......守りたい」
「......あの時扉の前でおどおどしていた奴とは思えない顔だな......わかった、わかったよ。俺のこの手を貸そう」
ずっと空の色を履き違えていた。灰色の薄暗い曇り空。
人の目線が気になっていて、空を満足に見上げていなかったんだ。
橙の太陽が傾き、白熱灯の様にぬくもりを感じる空だ。先ほどまでの雨雲はいつしか存在を消していた。
俺たちは子供だ。大人になるまでまだ幾分か時間がある。
だから、色々と考えなくちゃいけない。考えて悩まなくちゃいけない。たとえ答えが出なくとも、その行動に意味があるのだろう。
初夏の夕暮れを万全に感じる。
「あぁ......ヒグラシがもう鳴いているのか」
耳を傾けると、遠くの林で気の早いヒグラシが独特の鳴き声で、自身の存在を声高に証明している。
「もう夏か......」
そう口に出したのは俺か、阿南か。
消えゆく六月を微かに思い起こしながら、迫る群青の夏を想像する。
蝉時雨にはまだ遠いヒグラシの渦中で、屋上を惜しむように俺たちは錆び付いたドアノブに手をかけた。




