第六十五話 雨は止んだというのに 三
「さて、仕切り直しといこうじゃないか」
全員が無事校舎の中へ入ったことを確認すると、定規を構え餓鬼と対峙する辰巳。
向かい合う餓鬼は、今なお止まらぬ涎を零しながら辰巳の様子を伺っていた。
「貴様は......多分、そこらの死蟲とはわけが違うのだろう。何となくわかるよ。だが、俺の視界に入る限りは、逃がしはしない」
握っていた定規を掌の上で器用に回す。
「では、行こうか!」
回転する定規を再び手にし、空中に三角形を描くように切る。
「ッハァ!」
「――!?」
すると、触れてすらいないというのに、辰巳の眼前に飛んでいた大柄の蝶の羽が切り離された。
先ほど空中になぞった定規の跡が、まるで見えない刃の様に距離を詰め、切り裂いた。
餓鬼は間一髪のところでこれを躱し、数歩後退する。
「考える事が......出来るのか」
その光景を興味深そうに目で追う辰巳。実験の様に次々と試行を繰り広げる。
今度はバツを描くように、空中に二度切りつける仕草をする。
やはり、触れてすらいないのに死蟲たちが四肢を切り裂かれ、朽ちた身体が灰になる。
「ならばこれは!!」
腕を大きく横に振るう。地上から凡そ一メートル付近をなぞる様に定規が低空を這う。
餓鬼は身の危険をいち早く察知し、地べたにひれ伏すように身体を下げる。
僅か数センチ上を目に見えない死神の鎌が飛来する。
反応できなかった数多の死蟲が首に、身体に、翅に――別れを告げた。
ものの数分で、累々と辺りを飲み込んでいた死蟲を殺した辰巳は、額の汗をゆっくりと拭い喉を鳴らす。
「どうにもその反応を見ていると......嫌な感じだな。貴様......本当に死蟲か?」
――その問いかけが引き金となった。
「い......いいいいぎいぎぎぎ俺俺俺俺が!!!???なんだって!!!!!」
声を荒げ、流れる体液を辺りにまき散らす。
まるで癇癪を起した子供の様だーーと、辰巳は感じていた。
「なんで!??俺!??あの時!!!ずっと母ちゃんの帰りを待っていた!!!!待っていたんだ!!!」
高ぶる感情に振り回されるように手足を大地に叩きつける。
「学校も!!!終わった!!良い子にしてたら!!!好きなもの作ってあげるってていってたから待ってた!!!!のにのに!知らない人が家に入ってきた!来て!俺は出されたものを食っただけなのに!!!のにのにのい......気が付けばこんな事になってた!俺が変わってしまった!変わった俺はかえってきたかあちゃんをおれはたべてしまたったたた!!!!!」
餓鬼の慟哭にピクリと反応を示す辰巳。
「そそれから......腹が空いて仕方ないんだ......かあちゃん帰ってきたらビーフシチュー作ってくれるっていいてた......俺のこうぶつをつくってるれうえうって......まだ俺はあの日からたべれてない......!俺の好きなものを返せ!!!かえせよぉぉぉおおおお!!」
立ち上がり、辰巳の元へその巨体を揺らし駆ける餓鬼。
その光景に応えるものがあった。
完全に理解したわけではなかったが、点と点がうっすらとつながったように思える。
――眼前に広がっている光景は、好きなものを取り上げられ駄々をこねる子供の様にしか映らなかった。
知らず、閉じていた口に力が入り、一筋の血が流れ落ちる。
「すまない......君に殺意を向けた事を......先に謝らせてくれ」
震える声で、謝罪を口にし頭を下げる。
その姿を見ても止まらぬ餓鬼は、勢いをつけた腕を辰巳に払い、吹き飛ばす。
「がッッ......ぐぅ」
勢いのまま校舎の壁に身体を打ち付る。
側頭部に傷を負ったのか、顔の右半分が赤く染まる。手にしていた定規も元居た場所に落としてしまっており、もはや手の届く距離ではない。
「あいつあいつ!!あのグレーの奴!ゆゆるさない!俺を返せ!俺の母ちゃんを!元の俺を!!!ぉぉぉぉぉおおおお!」
吹き飛ばした辰巳の元へ、止めを刺そうと再び駆け寄る餓鬼。
「おまえももももあいつの仲まかぁぁ!!???」
「君の事を知れて......本当によかったよ......ありがとう......そしてもう、休め」
ゆっくりとした挙動で左手を真横に振るう。その手に定規は存在していないというのに、駆け寄ってきた餓鬼の身体が真横に裂け――乖離した。
別れを告げた下半身はゆっくりと足を止め、びちゃりと血をまき散らしながら倒れる。上半身はまだ死を理解していないのか、突然低くなった目線に驚きの声をあげる。
「あ......え?」
ふらふらと立ち上がると、下半身と別れた上半身の餓鬼の傍へ寄る辰巳。
目を伏せた状態で、別れの言葉を残す。
「君の怒りは......俺が引き継ごう。だから、安らかなる心で母親に甘えるといい。こんな世界だ......天国があるかは定かではない。だがきっと今よりは良い所だ。どうか......どうかそこで、君たち母子が安寧を享受できるよう......俺は願うよ」
「あれ......いつものビーフシチューの匂いだ......母ちゃんはね.....俺の嫌いなニンジンを食べてくれるんだ......代わりに俺は母ちゃんの嫌いなジャガイモを食べて......ありがとうって......ぁり」
事切れた様に動かなくなった身体の端から徐々に消えていくのが視界に入った。
全てを見届けた後、辰巳は曇る空を見上げていた。
雨はとうに止んだというのに、辰巳の頬に濡れた感触があった。




