第五十九話 縹渺たる校舎
職員室を出てから暫く廊下を進んだところで、伊織はその足を止めた。
(これはあまり使いたくないんだが......四の五の言ってらんねーな)
腰にぶら下げていた鉄鎚を右手に持ち、罅の入った窓ガラスに向けてその先端を下ろす。
「八咫烏」
打ち付けられたはずの窓ガラスは割れることはなく、ただ衝撃を音に変えただけだ。
窓ガラスは、鉄鎚とぶつかった辺りから黒い染みのようなものを生み出す。徐々に輪郭を広めてゆき、人の頭程の大きさまで先を伸ばすと、中央から何かが染みを突き破る様に生まれてくる。
「カァーー!ガァガァ!」
三本の足と、三つの目を携えた漆黒の烏。黒色の絵の具が烏の姿を模したように、全身を構築する色に黒以外は存在しない。
烏は数度確かめる様に羽を広げると、伊織の頭へと降り立った。
「ガァガァ!」
一度深いため息をつく伊織。呼び出した本人だというのに、まるで歓迎しないその様子にどこか矛盾が生じる。
「お前な......烏の真似をする烏がいるか?」
頭上の烏に目線を寄越す。もっとも、頭上に居る為目線が合うことは無いが。
「......ヒサシブリノソトダ。ガキドモヲオドロカセヨウト......ダレモイナイ!?」
それまでどこか神聖さを醸し出していた烏が、奇妙にも人語を巧みに操り、会話を続ける。
ここへきて二度目のため息をつく。さっきよりも吐き出される息が多い。
「その“ガキども”を探すのがお前の仕事だ。いいか、最優先はこの丕業の根源だ」
足元に蔓延る根を指す伊織。
「ショウガナイ......。カシダゾ!イイカ、ワスレルナヨ!」
伊織の頭上で暫く寛いでいた烏が大きく羽を広げる。
すると、四つの黒く流線形をした羽根がふわりと空中に漂う。紙が風で飛ばされたようなひらひらとした動き。
羽根が地についたと同時、それらが先ほどの様に染みとなり廊下に吸い込まれる。
そこから生まれ落ちてきたのは、やはり先ほどと同じように、伊織の頭上に居る烏と寸分違わず三つの足を持った烏であった。
「イケ!サァサァ!」
羽をまるで手の様に指し示す。それに倣うように四羽の烏が羽を巧みに操り低く飛んでゆく。
四つの黒い塊は打ち合わせをしたかの如くバラバラに散り、もう既に伊織の視界からは消えていた。
「んで、お前は何でここに居んの?」
「オマエヲマモルタメダロウ?」
当たり前の様な事を聞くな、とでも言うように軽く首を傾げる烏。
「せめて降りてくんない?重いんだが......」
「ナマイキナンダヨ。ダマッテススメ!オラ!オレモサガスノヲテツダッテヤル!」
三度、大きくため息を漏らす伊織。その息の量がどれほどかは、言うまでもない。
(だから使いたくないんだこれは......)
* *
伊織に呼び出された烏が更に呼び出した四羽の烏。そのうちの一羽が校舎の三階を低空で羽ばたく。
烏の目に映るのは白い壁と、灰色をした根。どこまで進んでもそれらしか目に映らなかった。
伊織本人が呼び出した大元とは違い、この四羽には感情というものは備え付けられてはいなかった。
どちらかというと、高速で羽ばたく監視カメラの様なものに近い。
烏が目にしたものをリアルタイムで大元の烏へと送信し続ける。
直線の廊下に終わりが見え、次の探査場所へ移動しようとした瞬間、ちらりと蹲る人影が写った。
「ンッ!?」
「どうした!?見つけたか!」
「ハヤルナ!......コレハ......チガウ......ガ......オマエハイクベキダロウ」
焦りからか、烏の遠まわしな言い方に苛立ちが募る。
「何だよ一体......」
「コッチダ!ハヤクシロヨ!イドウシテイル!」
こっちだ、と指示する癖に頭の上で尚も寛いでいる烏を小突く伊織。
「イタッ!イタイゾイオリ!イオリ!?イオリ!」
「悪かった、手が滑った。もう一発滑るぞ」
二度目の拳を叩き込みながら足早に烏の案内する場へと赴く。
一階の廊下を真っ直ぐに進む。不思議と物音といえば足音だけしかないが、気にせず駆ける。
突き当りを左に曲がり階段を一段飛ばしで上ってゆく。
「ニカイハオレガミテイル!トバセ!」
丁度二階に差し迫った所で、頭上の烏から指示が飛ぶ。返事をせずに肯定の意で首だけ縦に動かし、目指す三階へ進む。
「この階のどこだ!」
つくと同時に伊織の怒号が響く。
「ミギガワノロウカヲススメ!フタツメノキョウシツノナカダ!」
烏の言葉を耳に入れて、撥ねる様に教室を目指す。
躊躇いもなく、勢いのまま強く扉を開く。
視界に映るのは、今なお平然と授業を続けている奇怪な光景。
教師が居ないというのに、その事に誰も気が付かず、何も書かれていない黒板を生徒たちが必死にノートに書き写している。
だが、この異常な光景に対し、伊織はぴくりとも反応を示さない。
――幽霊船。
丕業の有無を区別して、特定の領域を作り出す丕業。
全てを把握しているわけではないが、大体の事は本人から聞いている。
ここまで大きく使用したところを見たことが無かった為、この異変に初めは戸惑ったが、もう慣れていた。
(教師が居ないという事に気が付いていないのか......あれはッ!)
教室をじっくりと観察していると、頭上の烏と同じ姿をした漆黒の烏が教室の隅を見つめていた。
目線の先を追うと、蹲る様に、膝を抱え丸くなっている我孫子の姿がそこにあった。
教室の一番後ろで遮光カーテンに身を預けていた。板書をとっている音だけが蔓延る世界で、我孫子は孤独に閉じこもっていた。
「おい!我孫子!怪我は無いか?」
心配だったことをまず先に確認した伊織。怪我をして動けないのではないかと酷く焦りはしたが、血の流れた跡が無いことを見て一つの安堵を抱いた。
「良かった無事か......どうした......何があったんだ?」
腰をおろし、目線の高さを合わせて顔を覗きこむ。無理強いをしないのは彼の美点であった。
「ぁ......先生......」
「あぁ、お前らの担任の伊織だよ。安心しろ......」
「先生!助けて!ねぇ!助けてください先生!」
一度伊織と顔を合わせると、その胸に飛び込むように抱き着く。
先ほどまで干からびたようにもぬけの殻だった我孫子の顔から止めどなく涙があふれていた。
決壊したダムは、ため込んだ水を惜しげもなく流し、渇きというものを置き去りにした。
「......あぁ、助けに来た。だからもう大丈夫だ。今職員室に皆居る。そこまで連れてってやる」
宥める様にそっと後頭部に手を当て摩る伊織。
「その中に千草は居ないでしょう......?助けて先生......千草を助けてあげて!」
「......!」
この時になって漸く、助けを求めているのは彼女自身ではなく、千草の事だと理解した。
「滅茶苦茶にしてしまったって......千草、自分を殺してくれって......」
我孫子の弱弱しい慟哭が伊織の胸の中で響いた。
「あいつがそう、言ったのか?」
知らずうち、伊織の声が震える。
肯定することが辛いのか、ただ涙を流し震える我孫子の両肩を持つ。
「俺はあいつの担任だ。お前らよりずっと年を取った大人だ......。けど、情けない所ばかりあいつに見せてきた」
かつての鬼との遭遇時、命を投げ捨てる決心がついていた。だが、それを救ったのは他でもなく八夜千草であった。
あの時灯した明りは、陰ることなく伊織の中で刻々と照らしていた。
――情けない教師だ。頼りにならない大人だ。口先ばかりでいつも手を差し伸べられてきた。
「あいつには死ぬほど恩を返さなきゃなんねぇ。けど、きっと。俺だけだったらまた失ってしまうかもしれない」
どこか遠い所へ目をやる伊織。
「我孫子、手を貸してくれないか?あいつはきっと、深く深く沈んでいる。引き上げる手は多い方が良い」
普段の仏頂面からは想像できないほどに、純粋無垢な笑顔であった。
我孫子の涙が切れていた。穴を塞き止めたのは、僅かに見出した希望であった。
「私にはその【資格】がない......」
掴んでいた肩をそのまま持ち上げ、伊織が我孫子を強引に立たせる。
「俺だってねーよ。けどあいつにお前の手を振り払う資格も無ぇ。色々あるのは知ってる。けど先ずはあいつを引っ張りあげてからだな」
「そう......ですね」
「オイ!オレヲワスレルナ!セッカクミツケテヤッタノニ!オシエネーゾ!」
「それを早く言えよクソ烏!......行くぞ我孫子」
「えぇ」
二人の人間と、二羽の烏が教室を飛び出す。
授業の終わるチャイムが、尸高校に響き渡った。




