第五十話 譎詐の掉尾と秤の形成
救わねばならないものをその手から零れ落とし、代わりに訪れた両手の変異。
虚空を握りしめたものの、赫く血に染まる手の中にあるものは何もなく、何も得るものなどなかった。
俺を救い出した両親は、俺の異変に当たり前だが、気が付いていた。人の肌とは思えない程赫く、黒い両腕。そして血にまみれた俺はコンクリートに蹲るばかり。
言葉を発するものはここには居なかった。ただ無言で必要な処置を施し、然るべき施設へ。母さんも父さんも目を背けていた。そこに居るはずだった、欠けた娘の存在を。
病院で目が覚めた俺を、二人は優しく包んでくれた。そして両親は優しい嘘をついた。
「お前たちは通り魔に襲われた。対馬の腕はその時に怪我を負ったんだ。幸い傷は深くなかったが出血がひどくて、気を失っていたんだ。その時に薊は心に怪我を負ってね......。今は遠い親戚の所で預かって貰っている。なに、互いに元通り元気になればすぐにでも会える。だから、これから暫くは父さんと母さんとお前の三人で暮らしていこう」
父は、慮る声で、俺の頭を撫でながらそう言った。母もその後ろで微笑みながら何度も首を振っていた。
だから俺も、二人に嘘をついた。二人の優しい嘘に気が付いていない、という嘘を。
暫くして、傷の癒えた俺に両親はとある人物と俺を引き合わせた。
姉である薊が行方不明と聞き、叔父が訪ねてきたのだ。
叔父にあたる六道は、物心ついた頃から小学生のその頃まで、何度か顔を合わせた覚えがあった。けれど記憶の中の彼は、常に眉間に皺を寄せており、俺は恐怖心を募らせていた。
その選択は確かに正しくて、最良だった。最善ではなく、最良。
だが俺にとってその選択は、忌むべきものとして、今までもこれからも、焼け跡の様に残り続けるだろう。
そんな叔父と俺は中学に上がるタイミングで一緒に暮らすことになった。
俺の両親には、事件のトラウマを克服するためのリハビリだと欺いて。
俺は叔父に姉を攫った元凶の死蟲と、この手に宿った丕業を教えてもらった。初めは冗談だと思った。きっと俺は酷い錯乱状態で、辻褄を合わせるための方便だと。けれどそんな思いも、硬い顔をした叔父に連れられた公園で見た存在を前にして、儚くも砕け散った。
人影が木の陰に蹲ってこちらを見ていた。
そこらの服屋で見るようなありふれた紺色のジャケット。ベージュのチノパンも特段珍しくもない。コンバースのスニーカーはやや泥にまみれているが、それもおかしなことではない。そう、首から下は何もおかしなものは無いのだ。ただ、その頭部だけがおかしいのだ。
ジャケットの襟元から薄灰色の体毛が見える。それは頭部をも覆って、ガラス玉の様な目が、頭部の中央に四つ。それを縮小したような眼が更に四つその上あたりに。
通常の人の顔における口に部分は、硬そうな毛で扉の様に閉ざされており、呼吸をすると共に僅かに開くその隙間から、決して人の持つものではない歯が見え隠れしていた。
「ぁ......」
反射的に声が漏れた。同じとは断定できないが、確かにあの時姉を攫った【アレ】に酷似していた。
背中の皮膚が削られたように冷たくなった。立つのも辛くなって、その場でしゃがみ込んだ。けれど目だけは俺の意思とは反して、その様相をまざまざと映しとっていた。
「対馬、あれが死蟲だ。お前が屠るべきものだ」
公園に立ち入って漸く口を開いた叔父は、俺を見ることもなく言葉を並べた。
「死......蟲」
あぁ、アレは夢ではなかったのか。頭の中に初めに浮かんだものは夢ではなかったという妙な安心感。次いでその安心を蝕む憎悪。
――なら、俺は姉の為に。姉に手を差し伸べる為に。
「運が良いのか悪いのか。お前にはあれらを屠る力が備わっている......それが丕業だ。見せてみろ」
「けど、どうやって......俺何も教わってない。母さんにも父さんにも教えて貰ってない......」
その時の叔父の顔をよく覚えている。岩肌を削った様な顔をした叔父が、ふと、柔和な笑みを携えたから。目尻に柔らかな皺を寄せ、朗らかな声音で言った。
「姉の事を、心に思い浮かべなさい。人気者だった姉、誰からも祝福されるべき存在だった姉、甘やかで激情家だった姉。大切な姉。そして、それをお前の手から遠ざけた存在を」
理不尽な訪れは、前触れもなく、姉を攫った。それまでの俺の行いに恥ずべきものが無いとは言えない。けれど、これはあんまりだ。望んだ場で起きる奇跡なんて無い。在るのはたらればという仮定のみ。
じゃあこの怒りは、理不尽だとでも言うのだろうか。そんな訳ない。なら、この怒りは肯定されるべきものだ。否定なんて誰にもさせない――。
俺の憎悪を糧にするかのように両手は熱を帯び始める。血が沸騰しているようだ。顔には汗という汗が張り付いていて気分が悪い。
次第に爪先から赤黒く変色する。乾ききった血の様にどす黒く硬化してゆく。
「それでいい」
俺の変質に満足いったのか、叔父はまた元の硬い顔に戻っていた。先ほどの柔和な顔は後も残さず消え失せていた。
「それで、叔父さん。これでどうすればいいの?」
両手が落ち着いた頃を見計らい、問いかける。
「なにも考えなくていい。ただ、怒りのまま、成すがまま振るえ」
俺はその言葉に、うんともすんとも言わず、その場から足を動かし、木の陰に近づく。
隠れていた人影は、近づく俺に反応し、飛び掛かってきた。俺の背丈は同学年に比べても大きい方だが、小学生と大人の体格差は覆しようがない。
けれど俺は、飛び込んできた影に向かって手を横に薙いだ。ただそれだけの動作の筈が、影は苦悶の声と共に、空中で上下に断たれ、俺の後ろ側へと散らばった。
錆びたブランコの耳障りな音と、肉が焼ける音だけが、公園に響く。
何も、感じなかった。
清々しさや、爽快感は無く、人を殺してしまった後悔も、苦悩も、絶望も希望も。
何も無かった。
少し経てば、後から感情が溢れてくるかもしれないと思ったけれど、それらも皆無だった。
人が蟻を踏み殺すことを躊躇わないように、群がる蚊柱に悲しみを見いだせないように。 俺はただそこに存在していただけだった。
「おめでとう。お前は強くなる。なぜならお前には強い意志があるからだ」
散らばった死骸に目を向ける事もなく、叔父は膝を折り俺と目線を合わせる。
「その強い意志と、他を常に秤にかけろ。いいな?」
「はかり......?」
「そうだ。どちらが勝るか常に己に問いかけ続けろ。お前の強い意志はそうやって研ぎ澄まされて、やがて大望を果たす。忘れるな」
虚無を抱いていた俺には随分とその言葉が響いた。それこそ啓示の様にすんなりと胸に刻まれた――。
その後は、ただがむしゃらに叔父と共に死蟲を屠った。目の前で人が朽ちた事もあった。内臓が辺り一面に広がった光景も何度も見た。肌に死臭が付いて取れないかもしれないと思うこともあった。けれど叔父の言葉通り俺は常に天秤にかけた。そうやって考えれば匂いや俺の見た光景なんて、大したことではなかった。
死蟲を屠る中で次第に俺はまた嘘をつくようになった。そうして嘘を重ねていく結果俺は俺自身すら嘯くようになった。人当たりの良い優しい人間という嘘を顔に張り付けて生活するようになった。こうすれば人と人との摩擦を最小限に出来るし、余計な詮索もされなくなった。実に効率的だった。
――この時、阿南対馬という人間が漸く完成した。
俺の成長を見ていた叔父は満足したのか、実家に帰してくれた。勿論尸高校に進学するという条件で。
願ってもいない話だ。より死蟲をこの手で殺せる。姉の手がかりが見つかるかもしれないという淡い期待。
尸高校には何度か足を運んでいた。校長である叔父の力をもってすれば容易い事だ。
ここの教師は皆俺同様に丕業を発現させているらしい。そして非常勤講師という名目で叔父の直属の部下がこの学校に出入りしていることも聞いた。
しかし、それだけでは昨神市全てに手が回らず生徒会の人間が手を貸している、と叔父が言っていた。
俺にはあまり関係のない話だ。なぜなら俺には校長の叔父がいる。わざわざ生徒会に入らなくても情報を回してもらえるだろう。
――尸高校に入学する直前に叔父に一度呼び出された。
「これを見ろ」
尸高校の校長室で俺は叔父から手渡された一枚の紙に目を通す。
「八、夜......千草。この生徒がどうかしたのか?」
その紙は一生徒のプロフィールであった。そこに書かれていたものは生年月日、名前、家族構成、履歴ぐらいで、何度読み直してもそうおかしな所は無かった。
「その目と髪。私には少し思い当たりがあってな......」
張り付けられていた写真をよく見る。右目と右前髪が灰色に染まっていた。そこまでやんちゃな人間であろうか?否、そういった人種ではないように思える。ではこれは一体......。
「夜辺亡の話は覚えているな?」
叔父の鋭い眼光が、俺を捕らえる。
「あ、あぁ」
臆して言葉に詰まってしまったが、何とか顔を背けずに答えた。
「お前に全てを話したわけではない。が、この少年。夜辺亡と何らかのつながりがあると思える」
「はぁ?何を根拠に......」
「私の部下に調べさせたところ、この少年生まれつき灰色では無かったそうだ。数年前に事故に巻き込まれた結果、今の姿になったらしい。私はその時に夜辺亡と何らかの接触があったのではないかと睨んでいる」
何か確信がある様な口ぶりで叔父は口を動かす。
妙な胸の高鳴りが確かにあった。この高鳴りの原因は俺には分からないが。
「私自身調べるつもりだが、お前にもその協力を頼みたい。なに、いつもの様に仲良くなればいい。そうだな......この少年と死蟲を出会わせるのが良い。もし丕業を持っていればお前も見れるだろう。そうでなくとも土壇場で丕業が発現するやもしれん」
淡々と一人の生徒の命を右に左に放る。
「も、もし丕業が発現しなかったら......」
「その時はその時だ。別に死んでも構わん」
そう叔父は断言した。俺は両手を強く握り、すぐに力を抜いた。
「分かった。出来るだけ早く打ち解けられるようにする。こいつの動向にも目を見張っておくよ」
俺は、さも当たり前の様に笑顔で叔父に返した。
頷くと、もう俺に用はないとばかりに視界から外し、仕事につく。
ゆっくりと、音を立てないように校長室を出ると、一つ静かに息を吐いた。
「俺は嘘が下手だな」
気が付けばそんな言葉が出ていた――。




