第四十六話 願わくば 一
「な、なんなんこれは......」
黒い布地に血を零したような髪色を持つ躯高校の女生徒、飛鳥井郡は眼前の光景にただただ口を開くことしか出来ないでいた。
口の隅から洩れる息は、凍り付く身体とは相反して強く熱を籠らせていた。
眼前にそびえる、灰色をした化け物。梅雨の曇り空を模した骨の鎧はまるで彼を守るかのように全身に出現し、奇怪な音を立てながらその鎧だけが今なお蠢動している。
数秒前までは、そこに一人の男子生徒がいた。
――八夜千草。郡は彼を自身の住処である躯高校、そして参華咒が根を張る京都へ連れ出そうとしていた。
初めは言葉での説得を試みた。けれど郡が想定していたよりも千草という少年は自身の命に執着しており、それも断念せざるを得なくなった。
強い否定を示された郡は連れ出すのではなく、持ち出すという方法へ考えをシフトした。
自身の呪いで手足を削いだまでは良かった。後は気を失ったところを参華咒の部下に回収させ、さっさと京都へ戻る予定だった。予定、だった。
しかしその考えすらも大きく改めなければならなくなる。途中、彼が彼でなくなったのだ。
同じ姿、同じ声帯から声を発している。それは確かに八夜千草の声だ。けれど、その声の主は絶対に八夜千草ではないと断言出来た。
一つの身体に、二人存在している。多重人格?いいや、そんなものではない。根本的に違うものであると郡は感じた。
そのもう一人の千草は一方的に郡に対して言いたいことを言うと、再び元の千草に戻った。数分かそこらだろう。
まるで悠久の時を生きてきたかの様な意味ありげな言葉に、疑問を抱かないわけが無かったが、それを問う前に元に戻っていた。
元の千草に戻った途端、口にした言葉。
「――俺の命と俺の日常。どちらかなんて、分かり切っていた事だ」
まるでそれが、この悲劇の引き金とでも言うかのように。言葉と共に八夜千草は灰色をした化け物となった。
「全ッッ然、理解できひん!!」
狙いをつけているのか、そうでないか。郡にとってはどうでもいい事であった。なにせ、それがどちらにせよ自身の命を脅かす事には違いなかったのだから。
廊下を遍く灰色をした枝がしなる。その一閃は、コンクリート壁なんか容易く、それこそ悪戯の様にちぎる。一振りで命を断つ枝が、幾重にも眼前にのさばっている。
千草の元の身長は百七十前後、高くもなく低くもない、平均的な身長だ。体格はやや細身でどこか男子にしては頼りなさげである。
どこにでもいるようなありふれた少年。これだけならそう思う人間が大半を占めるだろう。けれど、彼には人と大きく離れている部分があった。
右目が灰色だった。そしてその周りの髪の毛もまた、同じく灰色であった。
それが、彼の性格に大きく深い根を張り続けてきた。それは容易く抜くことのできない柵。
もがき、数多を無に帰すこの根が、彼の柵を体現したかのようで、郡の背には薄ら寒い汗が流れ落ちる。
彼自身の根幹ともいえるその灰色をした化け物が今、郡の目の前に顕現していた。
「なぁ!あんたは八夜君なん!それともさっきの別人なん!」
突然の邂逅にあっけに取られていた郡は、自身がなぜここにきているのかという明確な目的を思い出し、何とか口を動かし問答する。
骨の様な根を身体から伸ばし続け、ゆっくりと郡が削ぎ落した、彼自身の手と足を絡めとる。身体は一ミリとも動かさずただ器用に根の先を手繰り拾い集める。
今度はそれを元の位置にまでゆっくりと、だが確実に持ってくると、互いの傷口から同じような骨の根が生え、根の先同士が複雑に絡み合った。
すると、その絡み合った部分が次第に人の肌を模して赤く色付く。気が付くとまるで何事もなかったかのように元の削ぎ落される前と同じ状態へと戻った。
「ばけ、もんが......!」
全身を骨の様な鎧で覆われた化け物。人の姿をしてはいるものの、その中は鎧に覆われ目視することが叶わなかった。鎧の関節の隙間からはおぞましいほどに鋭利な棘が飛び出しており、文字通り、その鎧は八夜千草を覆い、外部からの脅威を遮断していた。
外部からの脅威と認識されていたのは、言うまでもなく郡であった。
この時になって漸く、郡は自身の選択を間違えたことに気付き、後悔した。
(まさか、こんな化けもんが......。これが人の未来を救う?笑うわ......。強引にするべきやなかった。協力関係に持ち込むべきやった。けどもう遅い)
いまだ、その場から動き出せないでいた。隙を見せると、攻撃してくるという予想が郡にはできていた。
(今はできるだけ、刺激せぇへん方がええな)
動かない、という動き。それはこの場において死と隣合わせであった。呼吸で上下するその大きな胸元にも細心の注意を払い、耳と目にだけ力を入れた。
傷の癒えた化け物は満足したのかそれ以降根を伸ばすことは無かった。ただじっと、郡の方へ顔を向け静止したままであった。
(これがもし、八夜君であったなら真っ先にうちを狙う筈。そうでないという事は、もう一人の方......?)
郡の額にジワリと脂汗がにじみ出た。一つの滴が、その端正な鼻を通り、地に落ちる。
(けど、どっち道うちはこのままやとあかん。今は部下の呪いでこの学校に幻覚をかけている状態やけど、それも長くはない。それが解けたら全部ばれてまう。解けるのが先か、それよりもこの化けもんが元に戻るのが先か)
――カツ、カツと、階段を誰かが上がって来る音がやけに大きく、郡の耳に入った。
(こんな時に!誰!尸の教師?それとも生徒会の......)
「――郡様、彼に謝罪を。例え彼が許さないと言っても、それは必要な【願い】です」
躯高校の制服に身を包んだ、その生徒は階段を上りきると、一瞬だけ灰色の化け物に目をやり、次いで郡の方へ顔を向けそう言い放った。
「八尾!!あんたこんな時に!!」
『アァァァああアア!!』
郡が八尾という少女に殺意のこもった目を向け口を開くと同時、灰色の化け物はこの世の憎悪を絞り出すように叫び声をあげた。
塞き止めていた激情が、僅かな綻びから決壊した。
「......っ!」
その場から恐ろしいほどのスピードで、階段を上がってきた八尾に向け襲い掛かる化け物。
咄嗟の事にも関わらず、彼女は冷静にどこかから取り出した戟を手にし難なくそれを往なすと階段から離れ、教室の前へと躍り出た。
「千草、この前見せてもらった君の丕業とは随分違う。まるで殺意を固めたような......」
『アァアア......』
目の前から消えた八尾を声の場所から探り当てた化け物は、ゆっくりと階段に向けていた首を後ろへひねる。
「何故君が、こんな事になったのか......分からない、とは言わない。だって私は、全部知っていてここへ来たのだから。君が特殊な丕業を持っていると知っていたから、あの時見せてもらったんだ」
少女の独白は、続く。
「君は優しい人間だ。出会っていきなり刃物を向けた私と一緒に昼ご飯を食べ、くだらない会話の相手をしてくれた。その丕業の姿も人には見せたくないはずなのに、私の願いを聞き入れてくれた。君のその優しさに、報われたんだ」
『アァアァァ!』
八尾の言葉を耳にした途端、まるで暴走する力を抑えきれなくなったかのように、鎧の端々から骨の根を伸ばし、またも廊下を侵食しはじめる。
「これは......」
「あかん!八尾!はよ逃げな巻き込まれるで!」
大樹の様に深く根差し、その場から至る所へと先を向け、建物を揺らす。
「こんなんもう手に負えへんわ。はよ京都へ帰ろ、八尾」
根に目をやりながら、諦めが付いたのか郡が催促させる。
「どうせうちらの事は六道さんが手ェ回してくれるやろうし、こんなところおりたくないわ。ほら、はよしぃ」
「......私は、残ります」
「はぁ?」
「私にはまだ、約束が残っています。それを聞くまで京都へは、帰れません。例え郡様の命令でも」
またも、殺意を孕んだ目を八尾に向ける。
「あんた、うちの言うことが聞けへんの?次期当主の命令が?」
その問いが来ることを予想していたかのように、八尾はぶれることなく、変わらない返答をする。
「次期当主であり、現当主ではございません。私に命令を下せるのは参華咒の当主のみ。郡様ではございません」
パスッと、音がした途端、濡れそぼった烏の様な黒髪を結っていた紐が切り落とされ、重力に従った八尾の髪が中空を舞う。
「ほんま、言う事聞かん人間ばっかりで胃が痛いわ。別にお父様に伺って許しを得てもええけどそんな時間も無さそうやしな」
蠢動する根を見つつ、答える郡。どうしようもない事態を、嘆く隙間すら見出せず、その声の節々には苦しい棘が含まれていた。
「ええ?あんたも贄の子。今更人と同じ人生なんか歩まれへん、もう諦め。諦めることは罪ではないんよ?」
「それを口にしていいのは、私と千草です。断じて貴方では、無い」
数秒の沈黙ののち、郡はその場から逃げる様に立ち去った。




