第四十四話 罪を穿つ矜持 三
「原罪ってのは、私も知ってるわ。まぁ勿論見るのは初めてなんだけど、ね」
目の前にいる【人】と【何か】が混ざった異物がギチギチと嫌な音を立てて立ち上がる。
「あぁ?お前、何なんだよこれ。くそ、思うように動かねぇ。どうなってんだこの体はよぉ!!」
思い通りに動かず苛立ち始めるその異物。人の身体に二つの頭。そのうちの一つは完全に人の枠組みを外れ、大きな蠅の頭を模していた。そして、その背中からは薄く、透明な羽が四枚小刻みに震えながら存在していた。
「どーお?アタシのパンチ。効くでしょ?本当はこんな使い方美しくないからしたくはないんだけど、四の五の言ってらんないわ」
白衣を身にまとった、渚ちゃんと生徒たちから親しまれ呼ばれているその男は心底嫌そうに呟いた。
もののついでの様に、その異質な身体に向けてその剛腕から繰り出される拳を何発も見舞う。
「ごがっ!ぽげが!」
その異質な身体の持ち主である矢田と呼ばれる生徒の声ではない。その男子生徒は一目見た時から気を失っているのか、既に手遅れなのか薄ぼんやりと目を開けているだけで何の変化も、見られない。
ではこの声の主は誰か。それはその異質な身体から生えるもう一つの頭。
決して人ではない。人と同じような頭の大きさをした、蠅。その蠅の頭が、さも自分の身体の様に痛がり、声を上げていた。
「ほんっとうに嫌んなるわアンタみたいな気味の悪い奴も、生徒を危険に曝していることに気が付かなかったアタシ達も」
物憂げな溜息とともに、殴りつけた異質に目をやる渚ちゃん。
殴りつけられた箇所はくっきりとその跡を四つほど残している。そして、その跡からブクブクと、肉が沸騰するかのように膨れ上がっていた。
「がぁぁ!クソが!なんなんだよその力は!その呪いは!」
膨れ上がる箇所を抑えながら、蠅の頭をしたその異質は吠える。
「呪い、ね。躯高校がそう言うってのは知ってるけど、アンタらもそうなのね。いいわ、教えたげる。これはね、アタシの寿命を分け与えているのよ。つまり次から次へと新しい皮膚が生まれてきているってわけ。小さな隙間に無理やり流し込んで決壊させてる、って方が分かりやすいかしら?」
聞きたかった答えが返ってきた蠅頭は、暫く言葉を出せないでいた。彼がその事に疑問を感じていたからだ。
他人に寿命を分け与える。なるほど確かに恐ろしい力だ。それはつまり、死に瀕した者を、ともすれば死者すらもその手で救えるというのだから。
そして、この身体に対して行った攻撃。僅かな傷跡にその力をねじ込み、暴発させる。攻撃も防御も一手に担える力だ。
だがそれは、命の徒消と同義だ、と感じていた。そして、その疑問が彼の動きを止めていた。
「つまりよ、お前は有限の命を他者に、敵に使ってるわけだ。わからねぇな、全然分からねぇよお前。怖くねぇのかよ」
その、立ち止まった蠅頭の問いが、なぜかこちらを慮った様に聞こえ、少しだけ口角を上げた。
「この力で寿命を縮めることが、かしら?そうね全く怖くないと言えばそれは嘘ね。いつ寿命が尽きるのか分からないというのは怖いわ。もしかしたら明日かも知れないし今かも知れない。けど、けどね。そんな恐怖よりも、目の前で生徒が怪我を負っていることの方がアタシは怖いわよ。どうしようもなく、ね」
「それで自分が死んでもかよ」
「えぇ、それは悔いのない死よ。目の前で救えるはずだった生徒を救えなかったら、悔いを残して心が死ぬわ。だったらアタシは前者を取る。それがここで働くアタシの矜持よ」
その言葉を聞いていても、蠅頭は未だ分からないでいた。自身が絶対で一番であるという考えと正反対にいるこの奇怪な男が、理解できなかった。
「この事、誰にも話してないの。内密に頼むわね」
ウインクを決め、人差し指を口に当てる、その男に、蠅頭はどうしようもない怒りを抱いた。
「ああ!ああ!理解出来ねぇよ人間は!考えるのもめんどくせぇ!全部腹の足しにして、全部が無かったことにしてやる!」
「なによ、やぁっと死蟲らしいこというじゃない。いいわアタシも後腐れなく潰すわ!」
動きを止めていた四枚の羽根が再び小刻みに震え出した。それを目で追っていた筈の渚ちゃんは、その姿を見失った。
大して広くもない教室の隅から隅へと蠅頭は羽を巧みに使い高速で移動していた。それは人の目では負いきれない速度で、渚ちゃんは目で追うのを半ば諦めた。
「ぐっ!」
右足のふくらはぎの辺りから激痛が走る。後ろから前へ移動した際に蠅男が傷をつけたらしく、鮮血が白衣を染める。
そして、同時に今まで傍観に徹していた1-Aの生徒たちが椅子や机をその手に持ち、遠巻きから投げつけてきた。
「こいつらは今!お前に恐怖を抱いている!近づけさせはしねぇ!てめぇの呪いでどうにかされるかもしんねぇからな!」
事実、彼が生徒達に触れ、その丕業を使えばこの生徒達に伝染している呪いは解けていたが、そのことを理解していた蠅頭は渚ちゃんを中心に生徒たちを輪の様に並べ、近づけさせないようにしていた。
彼の呪いによって恐怖心が増大されたからと言って、行動を操れるというわけにはいかなかった。
恐怖の対象に対し、どのような行動をとるかはその個人によるものが大きい。故に、蠅頭は渚ちゃんに対して「人の姿に似た害虫」に抱く恐怖を生徒たちに与えていた。
たまらず片膝を立てて地に伏す渚ちゃん。傷は深く、辺りに血が流れ、鉄の匂いが辺りに立ち込める。
「んの......!いやらしい事するじゃない!ナイフなんてもってんじゃないわよ!」
「食事にナイフとフォークは必須だろ。俺は確実にお前を殺す。お前が呪いを使うためには俺に近づく必要がある。生徒たちも同様だ。まぁ俺自身近寄らねぇとお前に攻撃できないが、この速度を追えることが出来ないお前はもう詰んでんだよ」
ハァハァ、と息を荒げ立ち上がり蠅男目掛け走り出す渚ちゃん。
「うおぉぉ!!」
「だから、無駄なんだよ!」
寸でのところで走ってきた渚ちゃんの頭上に移動し、手にしたナイフで両肩を切りつけた。
「ぐぅ......ああぁ!!!」
その痛みを噛みしめ、耐え抜き、手を頭上に持ち上げようとしたが、既に両肩は切られておりその先端たる腕は微動だにしない。虚しくもその手が頭上の蠅頭に届くことは無かった。
生徒たちからの投擲が始まった。近くにあった椅子は勿論、鋏、定規、教科書、鞄。教室に置かれていたあらゆるものが弧を描き、円の中心で血だまりになっていた渚ちゃんを襲う。一つ一つはそこまで脅威ではなかったが、数十人からの圧倒的な物量は、人ひとりでは処理しきれず、次第に周りに積みあがっていった。
いつしかその身体は椅子や鞄の山で覆われ、身動きが取れなくなっていた。
「どうだぁお前?お前のその矜持も豚の餌だったな」
勝利を確信し、その築き上げた山の上にのさばる蠅頭は自身の膨れ上がった数か所を見ながら、笑った。
「心とか、矜持とか御大層なこと並べてたけどな、死んだら意味ねぇだろうがよ」
だから、彼は気付けなかった。生徒たちが未だ害虫に向ける眼差しを携えていた事に。
「えぇ、そうね。だからここでは死ねないわね」
その山の下から、真っ赤な線が天井に向かい幾つも迸った。
そして、そのうちの何本かが頂上に居た蠅頭を穿つ。
「はっぐぅガッ!んだこれは!!」
突然の出来事に蠅頭は誰にも向けていない疑問を口にした。
「ワタシの血、よ。さっきからその辺にばら撒いて置いたでしょ?その血に丕業を与えたの。まあちょっっとイタかったわね」
ガラガラと、音を立てて山を崩しながら渚ちゃんが這い出てくる。しかし、自身の傷を治癒してはおらず未だ鮮血が三か所から流れ出ていた。
真っ赤な線が床と天井を結び、その間で蠅頭が苦し気に張り付けられていた。それはさながら蜘蛛の糸に絡めとられた餌の様だった。
「まぁ、蠅の結末にしちゃあ上等じゃないかしら?」
「いてぇいてぇ!!クソがお前!これを解除しろよ!この身体はここの生徒だぞ!てめぇの矜持はどうした!」
人から逸脱した異形のそれは、幾度もそう口にした。そしてそれを聞く人間は冷めたように口を開く。
「アンタを消してから、治すわよ。例えアタシの寿命全部使ってもね」
「糞がァァぁぁああ!」
最後にそう吠えると、力を使い果たしたのか徐々に体が萎んでゆく。背中から生えた四枚の羽根も枯れたようにしなびれ、ついには身体から切り離された。
「っと、危ないわね」
元の人の形に戻り、血の柱から抜け出てきた男子生徒を受け止め、優しくその身体を床に下ろした。無理やりに動かしているためか両肩に作られた傷跡からは決して少なくはない血を溢れさせていた。
「これで、終わりよね」
かつて蠅の頭を携えていたその身体はその片鱗すらも残さず、元の一生徒の姿であった。
ゆっくりとその身体に向けて手を翳し、異能を行使する。それは、優しく一点の曇りのない心馳であった。
いくつもの穴が開いていた。両手はミキサーに手を突っ込んだのかと思う程にズタズタに引き裂かれていた。しかしその傷跡もさながら時を巻き戻したように何事も無かったかのようにふさがり、その生徒は命を拾った。
「流石に、キッツいわねこう何度も使っちゃあ......」
治療を施し終えると限界を迎えたのか、そのまま生徒と同じように地に伏してしまう。その身体からは未だ止めどなく命の欠片が流れ出ている。
「渚ちゃん!」
二人を囲むように立ち尽くしていた生徒たちが一斉に二人の場所へ集う。恐怖を弄られていた生徒たちはいつしかその呪いが解かれ、元の状態に戻っていた。
「俺、なんで渚ちゃんのこと怖がっていたんだろう、ごめんなさい!」
「なんか、人じゃないように見えて、それで、でも矢田君はそうじゃなくて......」
「そうだ私八夜君に死ねって......」
「俺も、なんだか無性に怖くなってそれで......」
生徒それぞれの独白が、荒れ果てた教室を埋め尽くす。
「アナタ達、後で八夜チャンにしっかり謝るの。いい?目を見て、ね。あの子怖がりだから......。けど優しい子でもあるの、きっと不愛想な顔して許してくれるわ」
そういうと、ゆっくりと目を閉じる渚ちゃん。それまで喧騒にまみれていた教室がぴたり、と止まる。
(あぁ、やっぱりアタシの矜持は間違っちゃいないわね。後悔なんてこれっぽっちも無いんだか......ら......)
その矜持は、確かに原罪を穿った。




