68 人々の反撃
無精髭を生やした、髪ぼさぼさのオッサン。
そう不細工というわけでもないし、三十くらいに見える男にちょっと言いすぎかもしれないが、敵の魔物憑きは見た目そのような姿をしていた。素性を隠すためのローブを着用していても、引き絞った体に質の良い筋肉を身につけているのが分かる。先月の兜男は見るからに鍛えに鍛えたマッチョマンだったが、今回の相手は野生動物のようだ。やたらと体格がでかいわけでも無いのに、しなやかな強靭さ、力強さが見て取れる。
「オイ、ちょっと気が変わった。これ以上熱が入る前に言っとくが、やっぱテメー俺の部隊に来る気はねえか」
「部隊。魔物憑きの軍団か?」
ナイフをちらつかせた相手からの突然の勧誘に、眉をひそめながら鋼は問い返す。
「おうよ。全員そうだ。魔物憑きだけで作った俺の部隊よ。目についた魔物憑きは片っ端から引き入れてんのさ」
「それが今この街で暴れてる奴らってわけかよ。いいのか? そこらで冒険者とか騎士達に、殺されてるか捕まってるかしてるみてえだが」
「はっはは! ま、仕方ねえわ。負けるのが悪い。気にすんな」
「お前はもっと気にしろよ。お前の部下だろうが」
部下に勧誘しておいて、部下に対するその関心の無さを堂々と見せ付けるとは恐れ入る。本気で誘い入れる気があるのだろうか。
「ま、ぶっちゃけ寄せ集めでなぁ。魔物憑きってだけでとりあえず入れてくから、全体的に質は低いし隊員の差もひでえ。俺も来る者は拒まねえが、別に守ってやる事もなし。その代わり好きなだけ暴れさせてやる。ここはいいぜ? 敵には困らねえからな」
「困らない通り越して、敵の真っ只中に放り込まれて捨て駒にされてるように俺には見えるがな」
「くくっ、まあな! そこは嫌われ者だから仕方ない。死ななきゃあ何の問題もないさ」
にいっと男が笑う。
「本気で誘ってんだぜ? お前、俺が今まで見た魔物憑きの中じゃダントツに最高だ。見込みがあるどころか、俺と並ぶかもしれねえなんて思わされたのは初めてだからな! 力ある者に帝国は優しいぞ。あれは人間主義国家だが、それ以上に実力主義! 亜人を差別する人間どもが、俺の前では片っ端から大人しくなりやがる。中々痛快で、悪くないもんだ」
「なんだ、やっぱお前らは帝国の差し金で確定か」
「おっと、口が滑ったか。まあいい。やる前に返事を聞かせろよ」
殺る気満々の男の言い草に鋼も笑う。返事など言うまでもないようだが、こちらも敢えて口にした。
「熱心に誘ってもらって悪いが、あいにく帝国と組む気は無い。何より――」
戦いが興に乗ると顔を出す、自身の内に潜む凶暴な魔力。普段から抑えているそれを鋼は解放した。
「俺の連れを殺そうとしたお前を、半殺し程度で済ます気はねえぞ?」
「くっはは! そうこなくちゃあな!」
呼応するように敵の魔力の気配もまた変化する。ミオンのような察知能力は鋼には無いが、分かる。互いにさっきまでよりも、存在が魔物に近づいたと。
鋼は最近、自身の魔物憑きの特性ゆえにあまり本気で戦わないようにしていた。魔力を消費する行動はなるべく控え、それを分かっている仲間達に前に出てもらう事が多かった。ルデスのような魔物だらけの僻地ならともかく、人のいるような場所でそれは出すべきものではない。
戦えば戦うほど。極限状態に身を置くほど、鋼の魔力は変化する。集中力はより増し、感覚は冴え渡る。平行して、精神がどんどん好戦的に、凶暴になってゆく。それが鋼の魔物憑きとしての特性だ。
もしかするとだいたいの魔物憑きはそうなのかもしれない。この敵もどうやら同じようだから。
「そうだお前、名乗れよ! これから始まる最高の殺し合いは、この先ずっと忘れられないもんになるに違いない! だってのに、名前も分からないんじゃ締まらねえだろ?」
激しい戦いの予感に、男は爛々と瞳を輝かせている。最初より妙にテンションが高い。
「んじゃ、お前からどうぞ?」
「あー、確かにそうだ。俺も名乗らなくちゃな。言っちまうとまずいんだが、まぁ……、今更か。この勝負が終わる時はどっちかは死んでるしなぁ」
男から漏れる魔力、本来無色透明なはずのそれが、陽炎のように揺らめき景色を歪める。
「グレンバルド帝国軍、第二特化兵団上級兵! ついたあだ名は『狂獣』、ルイーガルだ!」
それはもう、大層な肩書きと二つ名を名乗られる。第二特化兵団とか言われても聞き覚えはないが、この男でさえ最上位の地位を与えられていないのなら、集団そのものがとんでもないのだろうと予感させられた。
「……俺は、神谷鋼。特に大仰な肩書きはなし」
「その強さでかぁ? ま、いい。一対一で全力出す機会なんてまあ無くてな! 楽しい殺し合いにしようぜ、カミヤぁ!」
大振りなナイフをその手に、その名の通りの笑みを浮かべ。『狂獣』が前傾姿勢で駆け出した。
鋼もまた剣を振るう動作に入る。そこに、強化系統以外の魔術による小細工など一切ない。敵も同様である。
互いに、笑う。
凶器を手にして怪物達の戦いが再開された。
◇
破壊の音を撒き散らしながら、その元凶が遠ざかってゆく。
〈黒金竜〉がこの場を離脱したのだ。囮となってくれている、日向とクーを追って。
「行くぞ」
バートが短く声を出し、隠れていた建物の陰から身を乗り出した。伊織を含む騎士学校のメンバーと、バートの部下達と、成り行きで同行している冒険者の面々は無言でそれに続く。この期に及んで余計な口答えをする者はもうこの場にはいなかった。
「……大丈夫でしょうか」
ぽつりと小さく雪菜が呟く。答えなど誰にも分かりはしない。日向とクーが常識外れなのはよく知っているけども、彼女達の強さの底を伊織は知らないし、魔物の最上級である『竜骨級』についても同様だ。気休めだと伊織自身も気付いているけど、頷いておく。
雪菜に答えたのは意外にもバートだった。
「正直倒せるとは思えんが、足手まといも無く逃げに徹するだけなら心配ないだろうよ」
この場にいるこちらの世界の人間は、敵が竜骨級と知った時から目に見えて萎縮し、雰囲気は重々しくなっていた。その空気に当てられて日本人達も深刻になっていたのだけれど、そんな中で最も楽観的に考えていたのはバートらしい。
意味の無い慰めを言う人物ではないだろうから、本当にそう思っているのだろう。伊織も少しほっとして、皆の空気が和らいだ。
結局自分達は足手まといでしかないんだな、という実感にはため息をつきたくなったけども。
「あんなもんまでうろついてるとなると、他に何が出てもおかしくないな。とっとと避難所まで行って引きこもるぞ。騒がずについて来い」
皆が頷く。先頭にバート、最後尾に護衛官のターレイが配置され、集団は移動を開始した。
バートが引率する集団が迅速に目指したのはターミナルと呼ばれる施設である。
日本人街のほぼ中心にあるその巨大な建物の内部には、日本への門が存在する。概念的には地球で言う空港と同じものだ。パルミナに住む日本人は全員、入国審査を受けてここを通って異世界へとやってきた。重要も重要、最重要施設だ。
魔物の襲撃が始まった後で一度見てきているバートが言うには、そのターミナル周辺のいくつかの大きな建物が避難所として使われていたそうだ。ただ、あの〈黒金竜〉みたいな大物相手に篭城を想定していない建物がどこまで耐えられるか分からない。入れてくれるかは分からないけど、最も堅牢なはずのターミナルをまずは直接目指す事となったのだ。
道中、〈黒金竜〉はさすがに無いにしても〈岩沼王〉のような強敵らしい魔物に遭遇する事も無かった。黄土色の犬魔物、〈グルウ〉が横道から飛び出して来た程度だ。バートの部下の傭兵が飛び出して一刀の下に切り伏せたので脅威になったわけでもなく、順調に歩みを進めた一行は、ほどなくしてターミナルのあるエリアに辿り着いた。
「チッ、こりゃ来るべきじゃなかったな」
舌打ちと共にバートの足が止まる。皆も歩みを止める。
全員が見ているのは、今立っている道の先にあるドーム状の建物だ。日本の東京ドームにも似たその丸っこい建造物こそが、世界を繋ぐ門を擁するターミナルである。建物自体も頑丈だとは聞くけれど、まず侵入者対策として立ちはだかるのは背の高い塀だ。高さは6、7メートルくらいだろうか。見た目の威容ではかなりの高さに感じるけれど、強化魔術に頼れるこの世界においては侵入自体は出来ない事もなさそうだ。とはいえそれは人の場合であり、魔物避けとしては優秀な壁になる筈である。
本来であれば。
壁があろうと昇ってくる魔物がいる今回、あの程度では難攻不落とはとてもじゃないけど言えないそうだ。
それを証明するように、戦いが展開されていた。
こちらから見えるターミナルの東口。正しくは東口に行くための、塀をくり抜く通用門。普段は衛兵に守られているだけで開いている鉄の門扉が今日ばかりは固く閉ざされている。その門前は、人と魔物による殺し合いの真っ只中にあったのだ。
ターミナルの周囲はレンガ敷きの幅広の馬車道で囲まれていて、門前も戦うのに必要なスペースが十分にある。魔物に立ち向かうのは十数人の人間達だ。対する魔物達の数はそう多くはない。多くはないといっても人間達よりやや少ない程度の数が駆け回っているけど、大群に囲まれ孤立無援、なんて状況ではない。しかも地に立って戦う彼らには、ターミナルからの援護がある。
通用門の上だ。見張り台の足場でもあるのか、人間達の顔がそこから並んで出ており、戦いを見下ろしている。もちろん見下ろしているだけでなくそこから飛ばすのは遠距離攻撃だ。主に弓矢と魔術による火球が放たれている。矢が犬の魔物〈グルウ〉に突き刺さり、ライオンみたいな姿の魔物が火球に牽制され後退していた。本日初遭遇のあのライオンは多分、教科書でも見た〈憑き獅子〉とかいう奴に違いない。
一見、援護を得て人数でも勝る人間側が優勢の戦いのように見える。特に最も格下の〈グルウ〉などは邪魔だとばかりに隙あらば狙われ、着実に数を減らしていた。そう簡単にはいかないのが獅子の魔物で、知性を感じられる慎重な立ち回りでしぶとさを見せている。が、それだって無敵というわけじゃなく、戦士達の連携の前ではあえなく討ち取られるものもいる。
だが、二体だけ無敵の存在がいた。
さっき死体を見たから、本当に無敵ではない事は伊織自身分かっている。それでもそう思わざるを得ないくらいに、たった二体だけあの群れに紛れ込んでいる〈岩沼王〉は圧倒的だった。それはもう好き勝手に暴れ回っていた。
人間の戦士達は奴らをどうする事も出来ないようだ。沼王が突っ込んでくれば、今戦っている獅子の相手すら放り出し彼らは逃げ惑う。一人が豪腕で狙われれば、その人物は必死に回避にだけ専念し、周囲の人間達が他の魔物を無茶してでも押しとどめる。隊列も何もない、即興の連携だけで無理やり繕っているギリギリの戦いだった。それでもなんとか戦線を維持できているのは、彼らが優れた本職の戦士だからであり、的確な援護射撃があるおかげだろう。
沼王周辺は常にはらはらさせられる展開が連続しているものの、それ以外の部分では着実に魔物の数は減らせている。一方的に人間が優勢だとも劣勢だとも判断がし辛い戦況である。雑魚を一掃できれば全員で〈岩沼王〉にとりかかれるだろうけど、その沼王の相手をしている人間達は限界が近そうに見える。伊織達の前で繰り広げられているのは、互いの命運を賭けた削り合いであり、正真正銘の殺し合いの光景だった。
――これが、戦い。
――すごい。
伊織の胸に去来した感想は、ただそれのみであった。
死なないために、あるいは守るために。人間達は必死だ。余裕も何もなく、ただ全力で勝利を目指し、自分が生き残る未来を信じて彼らは抗っている。伊織にとってそれは、輝かんばかりに美しいものだ。命がきらめく瞬間だ。
飛び込みたい、と思った。
今すぐあれに混ざりたい。彼らの一員として、魔物と戦いたい。
自分の働きが勝利への一助となればいいとか、そんな遠慮がちな思いではなかった。あそこに混じって、必死に命を振り絞って、そうして勝利に大きく貢献出来れば。それはどれだけ誇らしい事だろう。やりがいのある事だろう。
それは尊大な妄想である。自分の今の実力ではそんな事出来やしない。武器の一つも握っていない現在、貢献どころか一助にすらなれないだろう。さすがにそれくらい弁えている。
それでも尚思う。戦いたい、と。妄想かもしれないけど、この思いは本物だ。
伊織はざっと周囲を確認して、道中の路地の隅に鎧姿の人間が横たわっているのを発見した。フルプレートではなく上半身を胸当てで守っているだけの、軽装といえる装備だけど、材質の銀色の金属はそれなりに上等そうだ。ターミナルの守備についていた騎士なのだろう。彼はとうに事切れていた。
胸当ては全体的に煤けて、顔は見るも無残に焼け爛れている。男か女かぐらいは判別出来る、という具合の男性の焼死体だった。
もっと余裕がある時にそれを見れば気分が悪くなっただろう。しかし伊織はその周辺にすぐに視線を移す。お目当ての騎士剣が、抜き身のまま転がっているのを発見できた。
拾い上げる。
「これ、借りてもいいわよね? 私達武器が無いんだし、念のため」
「好きにしろ。アレに加わる気は更々ねえが、持ってて損でもない」
加わる気はない。バートのその言葉を残念に思う伊織は、しかしそれに逆らってまで飛び出す気などさすがに無い。それしか選択肢が無くなるほど追い詰められていれば、伊織は嬉々として武器を手に乱戦に加わっただろう。しかしまあ、実力不足を分かった上でわざわざ自分から命を捨てにいくほど、見境が無いわけではないつもりだ。
「どうするの?」
「あれを問題なく撃退できるってんなら、あそこでてめえらを保護してもらうのも悪くないか。黒いのに追い詰められたら逃げ場もねえが……」
バートは完全に様子見の構えのようで、騎士達を心配するでもなく悩んでいる。すぐに結論は出た。
「いや、そもそも俺らだけじゃ、どこで奴に出遭っても逃げ切れずに終わりか。一番良いのはやっぱ引きこもる事だな。そうしよう」
「あの戦いが終わるまで待つの? 手伝いに行かなくてもいい?」
「どんだけ戦いてえんだよ、お前」
伊織が呆れ顔を向けられていると、その内に門前の広場では新たな動きがあった。
妙に大きな魔法陣が、ターミナル入り口に続く通用門の上に出現したのだ。
「お……?」
上から戦いを援護していた人間達の中で、何者かが更に一歩前に出て、広場を見下ろしていた。そこそこ年のいった金髪の男性だ。その横に、妙にゴテゴテした装飾がこちらから見えているのは、彼が手に持っている杖のようなもの。学校で魔術を教える教師であっても、杖を使っている魔法使いというのを伊織は見た事がない。
大きな魔法陣の左右に、同じような大きさの魔法陣が出現して半ば重なる。横向きの小さな魔法陣がその下方にポツポツと現れた。いかにも大掛かりな魔術が発動しようとしているのは素人目にも明らかだった。
「おうおう、いかにもなのが出てきたな。さすがに重要な施設だけある」
「……バート殿、傍観している場合ではないかもしれません! 彼が宮廷魔術師であれば、もしかすると……!」
ターレイが警告するのと、ごうごうと風の音が鳴り出したのはほとんど同時だった。伊織達の背後から強風が吹きつけてくる。何事かとそちらを見ても、特に何かがあるわけではない。
「これは……! おい、そういう事かよ」
「早くこの場から退避を!」
「おう! お前ら、即座に後退しろっ! 死にたくなけりゃあな!!」
言って、バートは率先して風が吹いてくる方へと走り始めた。さすがの付き合いの長さか、彼の部下達が即座にそれに続く。慌てた様子の冒険者達も離脱を始めた。もちろん伊織達騎士学校組も、戸惑いから少しだけ遅れたものの同じようにする。一番足が遅い雪菜をターレイが横から抱える。
「じい! これは一体何だ!?」
向かい風の中を走りながら、伊織は風の発生源がどこなのか、ようやく気付いた。
これは前から吹きつけているのではない。伊織達の背後へ、あの魔法陣の元へ、周りの空気が吸われ集められているのだ。
「《竜嵐》でしょう! 巻き込まれれば命はない! 可能な限り離れるのです!」
ただ真っ直ぐに逃げているからターミナルはまだ一応見える。ちらりと確認してみれば、二体の〈岩沼王〉の上から焦げ茶色の何かが浴びせられていた。後で聞いたところによると、あれは《竜嵐》とは関係のない別の魔術だそうだ。《縛泥》という相手の動きを阻害する魔術で、大魔術を準備している者とは別の術師の仕業だろうとの事。
そうして動きを止められた〈岩沼王〉たちの前で、いよいよ大掛かりな《竜嵐》とやらが発動しようとしていた。
《竜嵐》。
言葉が示す通り、それは風系の魔術の名称である。
これを使用できるというだけで、その者は最高レベルの風系魔術師である事を意味するという。風系魔術を志す者の一つの到達点であり、最上級魔術とも呼ばれている。
引き起こす事象は至ってシンプルである。人為的に竜巻を発生させ、ある程度軌道を限定して放つというものだ。
竜巻というのは風のエネルギーの塊だ。建物があれば砕いて、人も物も空へと吹っ飛ばす。なるほど、恐ろしい魔術だ。説明された時伊織はそう思った。そして、こうも思った。『最上級という割には、想像の範囲内に収まったな』と。
伊織が竜巻というものをナメているだけかもしれないけど、凄い力で空へ飛ばされ落とされたとして、魔術で体を強化できるこの世界では確実な死とは言えないのではないか。少なくとも伊織は、全力で強化を駆使すれば高所から落下しても死なない自信がある。もちろん怪我は免れないだろうが……。
そのような思いでいたので、バートとターレイの動揺ぶりが腑に落ちなかった。そしてもう一人、かなりシリアスに震えている娘がいる。
ターレイが小脇に抱える雪菜である。説明など後回しだと言わんばかりのバートとターレイに代わり、逃げる途上で彼女が《竜嵐》の解説をしてくれていたのだ。雪菜の異世界知識の豊富さは、こちらで自主学習をしているようで最近ますます磨きがかかっている。
「確かに竜巻ってやばいだろうけど。巻き込まれれば命はないって断言されるくらいだから、よっぽど凄いのが出てくるの?」
「りゅ、《竜嵐》自体はっ、本当にただの竜巻ですよ。そんな、メチャクチャ巨大なのが出てくるわけでもないそう、ですっ。というか作りやすさ、操作のしやすさ、あともう一つの理由から、竜巻はむしろ小規模なものが良いとされていますっ」
移動しながら揺らされる雪菜が舌を噛みはしないだろうかと心配しながらも、先が気になるので伊織は聞きに徹する。
「は、派生技というか。普通《竜嵐》は、一工夫して攻撃力を上げるんですっ。お手軽にいくなら、事前に砂でも集めて竜巻に乗せて、《砂竜嵐》にします! 準備をちゃんとしておくなら、砂鉄を常に持ち歩いておいて《鉄竜嵐》にっ。必要な量を下げるためにも竜巻は小さくして、その分風の速度と循環がこの魔術では重要視されますっ。と、とにかく結果だけ言いますと、この竜巻は対都市、対城塞魔術! 人間が受けたら砂や鉄に削り殺されて、粉々になりますっ」
「怖っ!!!」
「そら全力で逃げやわ!」
想定を超えてきたえげつなさに顔を青くして、伊織と省吾の顔にも必死さが追加された。
「お前ら、竜巻が発生したら動きをよく見ろよ! あれは熟練の術者でも軌道を完全には制御できん! だからその場に『置く』んじゃなく、最低限自分とこに戻って来ないよう前に飛ばす! 術者の正面方向のどっかに飛んでくるが、真正面とは限らんし、曲がる事もある! とにかく離れつつ、進路上に自分達がいる時だけ、横に動く! それで確実に回避できる!」
話している間も走り続けて、さすがにかなりの距離を稼げている。唸るような風の音も背後に空気が吸われていく感覚ももはや遠く、バートの注意もよく聞こえた。ここはもう恐らく安全地帯だろう。全てを破壊する竜巻を、街中で、ここまで届くほどの勢いで放つとは思えない。バートが走り続けるのは、術者が制御を盛大に誤った時を想定しての念のためだろう。そう、状況を読んで伊織は緊張を解きつつあった。今の状況に高を括っていたと言える。
「竜巻の発生確認しました! 《鉄竜嵐》! 進路こちらを向いています」
「丁度いい、真正面にゃ獅子の群れだ! 相手なんぞしてられねえし、全員そこを右に曲がれ!」
この状況下の街で、脅威は竜巻だけではない。
バートの報告通り、道の先にはライオンっぽい魔物が三匹ほどこちらに側面を向けて移動していた。赤褐色の獅子が二匹に、青みがかった体毛の奴が一匹。いや、伊織達が進路を曲げて奴らの視界から立ち去る直前、その向こうにも赤い獅子が見えたので、少なくとも四匹以上。まだまだいるかもしれない。こちらに気が付き、顔を向けてきていた。
竜巻との板ばさみの状況で、人間達はただ走るしかない。
「こういう時こそ〈グルウ〉出てこいや! よりによってなんで〈憑き獅子〉の群れやねん!」
省吾が言っても詮無い嘆きをこぼす。追い掛けるように後ろから吼え声が届いてくる。
戦闘になり自分の出番がくるかもしれない可能性を考え、伊織の手に力がこもった。拾い物である抜き身の剣を汗で落とすなんて間抜けはしないように、手の平に軽く意識をやる。
〈憑き獅子〉の知っている限りの情報を頭に浮かべた。
基本的には、少々頭が回る程度の獣。その爪が伸びてきたり、牙が鉄をも砕くほど鋭かったりはしない。見た目通りの四足の獣であり、それ以上の存在ではない。地球のライオンと明確に違うだろう点は一つだけ。魔術を使ってくるという点だ。
ほとんどの獅子は《火炎》を使う。使ってこない個体もいる。そういう獅子はちょっとだけ数が少ない、別の魔術を扱う奴だ。体表と体毛の色でその違いは判別できるので、それにより想定を変えて戦わなければいけない。さっき見た赤褐色の獅子たちに混じっていた青いのは、水の魔術を使う筈だ。具体的にどう攻撃してくるのかは分からない。教科書で多少詳しく解説されていたのは一番多い赤い奴だけだったのだ。
もう一つ確実に目安になる情報がある。〈憑き獅子〉は魔物の強さを表す等級の『獅子級』、その代表格の魔物なのだ。
異世界の仕様だとなんたら級とか魔物の名前がついているものの、結局のところ数字に直せば5段階評価でいう3にあたる。最低値である1が武装した一般人でなんとかなるレベル、という話なので、実際に脅威になる魔物達で並べれば真ん中にすら至らない。つまりけして、強敵ではない。
ただし弱敵でもない。
「前のこの世界で聞いた話や! 〈憑き獅子〉を安定して倒せるようになって、ようやく冒険者は見習い卒業! 一人で安定して倒せるなら、もう冒険者としては安泰、一人前以上! ただし群れは相手にするな、一流の冒険者か倍以上の人数がいない限りは! わいはそう聞いた。有坂ちゃん、変な事考えたらあかんで!?」
ゴオオォォォ、というすごい音がするので何かと思ったら、黒い竜巻が腹立たしいほど上手い事、こっち方面に向かっているのが見えた。距離はまだ、結構ある。多分このまま走り続ければ進路上からは脱出できる。直線距離でやって来ても、届く前に消えるんじゃないかとも思う。それでもぞっとしてしまうのは仕方ない事だろう。
風がうるさくて、省吾の言葉もちょっと聞き取りづらいし、それどころではないのでまともに相手もしていられない。でもこれ、ジグザグに曲がるならともかく、真っ直ぐだと獅子に追いつかれるんじゃ……、などと思って振り返れば、〈憑き獅子〉の集団との距離がじりじり詰まっていた。
遠くとも、死の竜巻の音がはっきり聞こえる状況になって、共に逃げている冒険者集団の奴らも取り乱し騒いでいる。バートが何事か叫ぶものの、こちとら逃げるのに必死だし、足音や獅子の唸り声で気が散るし、何より風がうるさいし、集団の人数が多すぎて先頭の彼とは既にかなり距離が空いているしで、ほとんど聞こえない。とりあえず前についていく。それしかない。
余計な事を気にしていたら強化の魔術が乱れて、意識と体の性能にズレが生じて、すっ転びそうなのだ。
状況はもうぐちゃぐちゃ、しっちゃかめっちゃかだ。
冒険者の人達の一部が息を切らし、遅れ始めている。竜巻が来そうな範囲からはもう脱出できただろうか。このまま逃げ続けても体力を使い果たし、獅子と戦えないんじゃないか。色んな事を考えた。切迫した状況下ではその思考もまともな形にならない。独断で、ここで足を止めて振り返り、剣を構えてみるとどうなるだろう?
だからバートが一際大きな声で全員にこう指示した時、伊織は望んでいたその言葉だけは決して聞き逃さなかった。大歓迎の意思をもって受け入れた。
「てめえら止まれぇっ! ここで獅子どもを殲滅させるぞ!!」




