第八章 暁屋の日々 壱、新入社員桜、或る春の日
春の或る日。
春の日の光が窓から差し込む。
一郎はコーヒーを啜りながら、目を細めて緊張している妻の方を見やる。
「ふう」
桜はぴょんと何気に上に跳ねて心を落ち着かせる。
長い黒髪を後ろで手を回し束ねる。
暁屋の法被を羽織り、鏡台に映る自分の姿を見た。
「よし」
自分を言い聞かせるように気合を入れる彼女。
一郎はコーヒーを飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。
「行くか」
「ええ」
今日から桜の異世界日々がはじまる。
暁屋に新しいメンバーが加わった。
一郎の嫁桜が突然現れたことに、皆は驚きを隠せなかったが、茜の事例もあったので、割とすんなり受け入れられた。
桜の担当は、バリーの輔佐配舟係となり、途端に忙しい暁屋の日常がはじまった。
毎日慌ただしくも充実する日々。
そこに一郎がいる。
身体は年老いていた頃と比べ、若さに溢れている。
健康もそうだが、思うように動けることに感謝と喜びを感じていた。
そんなある日のこと。
暁屋の近所に住む世話好きのおばさんが、暁屋へとやって来て、きょろきょろ辺りを見渡した。
桟橋で煙管を吹かしている一郎を見つけると、足早に駆けてきた。
「イチローさん」
「ジュリさん」
ジュリとよばれた恰幅がよくておかぶり頭巾をかぶった女性は、ニンマリと笑顔を見せると、
「今日はお話したいことがあって」
「なんでしょうか」
一郎はにこやかに笑顔を返すと、彼女の方に向き直った。
「あのね、イチローさん」
ジュリはそう言い一息吸い込むと、一気にまくしたてた。
「ね、あなたいい年でしょ。いつまでやもめ暮らしを続けるつもりなの。この国を救った英雄なのに、やっぱり相応しい人が必要だと思うのね。ねっねっ、それでイチローさんがよければいい人がいるのよ。ほんっとに本当に素敵なお嬢さんなの。筋もしっかりしていて、ここの村長さんのお孫さんでね。年の頃は22歳、とってもおしとやかで可愛らしいの。おばさん、イチローさんが良ければ、すぐにセッティングするから、ね。絶対、悪い話じゃないから・・・」
一郎は手で制し、話を止めようとする。
「あの」
ジュリは大きくかぶりを振り、
「分かってる、分ってるって、生き別れた奥さんに操を立ててるんでしょ。それはとても素晴らしいこと、でもね。人は前を向かなくっちゃ、いつまでも振り返ってばかりじゃ・・・」
彼女が熱弁ふるう中、隣に桜がやって来た。
ぺこりと桜は頭を下げる。
「あら、愛らしい新人さん」
一郎は苦笑いを浮かべ、
「家内です」
「どしゃあ!」
のけ反るジュリ。
「奥さん?」
「はい。桜といいます」
「・・・・・・ん、もう。そうならそうと言ってよ!奥さん帰って来たのね。おばさん知らないもんだから」
「なんか、申し訳ない」
「いいのよ、いいのよ。じゃ、また川下り来るから」
「御贔屓にありがとうございます」
と、ジュリはバツが悪そうに手を振ると、そそくさと帰って行った。
一郎と桜は顔を見合わせて笑った。
「あなた」
「ん」
彼女はぎゅっと彼の二の腕裏を摘まんだ。
「いって!なんで」
「なんとなく」
じっと一郎を見つめたあと、桜は破顔し悪戯っぽくまた笑った。
一郎の縁談破談(笑)。




