320話
「良い腕をもってるなら、家にピアノがあるか音楽院で弾くってこと。あたしが言いたかったのはそういうことよ。これは。そういうピアノ」
もし世界を目指している、というピアニストのピアノ選びだったらよかったのだが、そうでないならやめたほうがいい、とサロメは決定づけた。このピアノはそう。知り合いで言えば『あの花屋の店主』くらいしか知る限り使いこなせない。あとは……アーロンソンの弟のほう。
非常に弾きにくいピアノ。であればハイディには解決策はシンプルに。
「でも、弾きやすいようにサロメさんに調律していただければ」
せっかくこれほどまでに、この人が興味を惹くほどのポテンシャルであれば。自分も気になってきてしまう。『マエストロ』。たしか指揮者、とか巨匠、とかそんな意味だったはず。だが。
「ダメよ」
即座にその提案をサロメは却下。強く吐き捨てる。
当然、ハイディからすれば理解できるわけもなく。
「……ダメ、とは?」
なんだか今日は振り回されてばかり。いや、もちろん自分で蒔いた種だけども。あまりにも天才調律師は読めなさすぎる。
吃りつつもサロメは説明を始める。
「……この音は。このユニゾンは残しておく。超上級者向けではあるけど、だからこそ使いこなせたら至高のピアノになる。あんたも。このピアノはその調律師以外には触らせないで。あと、そいつが来たらアトリエに連絡。わかった?」
「と言われても」
なぜか仕切られていることに懐疑的な目を向ける店員。そもそもこのピアノはウチの店のもののはず。なにを勝手に。店長とかに言ったら、なんでか俺が怒られるのだろうか。理不尽だ。
そんな気配を察したのか定かではないが、そのすぐ横にある一台のグランドピアノにカルメンは触れる。
「私くらいになるとわかる。個人的にはこっちのシュトライヒャーのほうが合ってると思うし、こっちはこっちですごく好き。優劣はない。個人の好みだから」
という前置きのもと、軽く試弾してみる。同じくシューマンの子供の情景から『木馬の騎士』。跳ねるようなリズムのハ長調。この小品の中では難易度はそれなりに高いのだが、軽やかに歌い上げる。こちらも短く三十秒ほど。弾き終えると「でしょ?」と全員に同意を求める。




