292話
「そうなのですか。てっきり元はピアニストを目指していた方々が、なにかをきっかけに目指すもの、だと思ってました」
例えばケガや病気。特にピアニストは手首などに慢性的な障害を残す人も多いと聞く。ジストニアやレイノー症候群はその代表的な例。
「まぁ、そういう人も多いけどね。プロを諦めたり、趣味で弾くくらいがちょうどいいと思ってる人だったり。あたしは最初からピアニストは目指してもいないし、習ったこともない。こっちのほうが少ないんじゃない?」
どちらかというと珍しい存在だとサロメもわかってはいる。もちろん、弾けたらそれに越したことはないけど。努力してまでそうなりたいとは思わない。朝目覚めて、なにかに覚醒して上手くなってたら、と夢見る程度。
事実、調律師はかなり弾ける場合が大半。人によっては、プロでも難曲と認めるほどの曲を弾きこなす人物も。そうすれば試弾の際にも役には立つ。音大や音楽院などで学び、その後楽器店に就職して調律の道に進む者も。
しかしそうなるとハイディには懸念点がひとつ。
「なるほど。ですがそれはそれで困りましたね。弾き手としての意見も欲しかったのですが……」
演奏に関して素人二人。それでもかまわないのだが、値段が値段なので二の足を踏んでしまう。もちろん、好みというものがあるので全てのピアニストに合う、なんてことは不可能だとわかりつつも。
数秒間の沈黙。逆にサロメには僥倖。
「さぁ? やっぱやめとく? ここまで来ちゃったけど。別にあたしはいいわよ。一七区にあるスイーツでも買って帰るだけだから。ざーんねん」
せっかくだったのにねぇ、とニヤニヤ悪い笑みを浮かべながら。これは仕事したってことでいいでしょ? これ以上どうしようもないし? お客様にご満足いただくことが生きがいですんで?




