29 もう一つの理(ことわり)
昂宇の身体は、長いこと魂が離れていたとはいえ、魄は残っている状態だった。
そこで、身体が衰えないようにという翼飛の指示で、『王』家の使用人によって歩行訓練がなされていた。おかげで回復も早く、数日で馬車に乗れるようになった。
こうして、彼は天昌に帰還した。もちろん、魅音や笙鈴、小丸が一緒だ。
翼飛も、演習中の軍と合流してから天昌に戻って来る予定である。
「無事を信じてはいたが、よかった。顔を見てようやく安心したぞ」
永安宮の一室で、俊輝は安堵の笑みを見せた。昂宇も笑顔を返す。
「心配をかけて、すみません。ありがとう」
「宏峰はどうだ、新しい領主を手配しておいたんだが」
「ええ、僕たちが発つ直前に会うことができたので、事情を説明して後を任せてきました。それと、以前の領主には医者がついています。軟禁状態が長かったので、精神状態があまり良くないようですが、多少は回復が見込めるだろうと」
「そうか。……魅音、本当に助かった。やはりお前に頼んで正解だったな」
「それほどでもぉ」
得意げに胸を逸らす魅音の横で、昂宇はため息をつく。
「まさか、魅音を呼び出すのに僕の文を使ったなんて……」
「まあ、あれはびっくりしたよね。今度こそ本当に妃⁉ って」
魅音は笑うしかない。
そんな彼女から、昂宇はそっと視線を逸らした。
「その……二人には、おめでとうと言ったらいいのかな」
「『おめでとう』? 二人って、私と陛下? 何がめでたいの?」
魅音が首を傾げると、昂宇は切なそうに目を伏せる。
「いや、だから、今度こそ本当に俊輝の妃になったんでしょう? 不思議な称号でしたね、ええと……青鸞王妃、でしたっけ」
「あぁ! それなんだがな」
ぽん、と椅子の肘かけを叩いた俊輝が、いきなり謝った。
「すまん、昂宇。実はお前がいない間に、お前を太常寺所属から外したんだ」
「え? 僕?」
魅音の話をしていたのに、なぜか自分の話になったので、昂宇は不思議そうに自分を指さした。
「いや別に、今回の件が解決したら天昌を離れて山に籠るつもりだったので、全然かまいませんけど」
「いや、それもすまないが……別の仕事でもう少し、ここで働いてもらいたい」
俊輝は、傍らの卓子から巻物を手に取った。紐を解き、昂宇に見えるように上下に開く。
「お前に、称号を授ける。――『青鸞王』だ」
しばし、その場に沈黙が流れた。
「…………は?」
ほんの一音だが、昂宇はひっくり返った声を上げ、そのまま固まった。
目を丸くした魅音が聞く。
「陛下、どういうことです?」
「どうもこうも」
俊輝は巻物を巻き直しながら答える。
「俺を支えてくれている上に俺の従兄弟である昂宇など、とっくに出世してなきゃおかしかったんだ。だから、称号を与えて皇帝の相談役にした。ああ、官吏の誰からも反対は出なかったぞ。それに、俺にしてみたら昂宇を皇帝にする第一歩だな」
「えーと、じゃあ『青鸞王』っていうのは最初っから、陛下のことじゃなくて……」
「ああ。昂宇のことだ」
にや、と俊輝は口角を上げる。
「別にいいだろ? 西王母に会うために高い地位が必要だからって、俺の妃じゃなくても」
「言われてみれば確かに」
魅音はあっさりと納得した。
「ちょちょちょ、ちょっと待って⁉」
固まっていた昂宇がようやく我に返り、汗をだらだら流しながら俊輝に詰め寄る。
「つまり、み、魅音は僕の妃ってことに、なってるんですか⁉」
「うん」
俊輝は軽くうなずく。
「先に、魅音を昂宇の妻にする手続きをしたんだ。それから昂宇の地位を引き上げれば、自動的に魅音の地位も上がる。わざわざ身分のために翼飛の養女になる必要もない」
「なーるほどぉ」
指を鳴らした魅音が、面白そうに笑う。
「順番も大事だったわけですね。さすがは陛下、策士だ」
「褒めてるんだよな?」
「もっちろんですともぉ」
魅音と俊輝が和気あいあいと(?)している横で、昂宇はもはや二の句が告げずに真っ赤になっている。
そして、両手を変な風に動かしながら、しどろもどろに魅音に尋ねた。
「あの……魅音はその……いいんですか? 僕の、妃で」
「え、うん。逆に何か問題ある?」
「いやないですよ僕はね? ないです、けどっ! あああ」
昂宇は頭を抱えた。
「確かに、西王母を助ける鳥の名が僕の称号、って、ピッタリだ。どうして気づかなかったんだろう。それに、西王母が言っていた『もう一つの「理」』って、これのことだったのか……!」
魅音は正式な手続きで青鸞王妃になっていたので、西王母はとっくに、魅音が昂宇の妃であることを知っていたのだ。
そうなると、まだ寿命のある昂宇の魂が身体から離れていることに加えて、妻のいる昂宇が西王母の後宮に閉じ込められていることも、『理』に反する。だからこそ、西王母は昂宇が帰ることを後押ししてくれたのだろう。
鷹揚に、俊輝は笑う。
「まあ、昂宇が無事に戻った今、この状態を押し付けるつもりはない。これからどうしたいかはそれぞれの自由だ。……ただ、昂宇」
彼は、昂宇を見つめた。
「お前は一人ではない、ってことは、もうわかっているよな。その上でもう一度、帝国を治める立場になることを考えてみてほしい。皇帝になれとは強要しないが、『難』家にこだわらず、中央に残ることを考えてくれないか? 魅音も一緒に」
「私もですかー? でもなぁ」
「お前、面白いことは大好きだろ。……さて、俺は仕事に戻るから、二人はゆっくりしてくれ。……ああ、そうそう、魅音に文が来ていたから渡しておくぞ」
懐から出した手紙をポンと魅音に渡すと、俊輝は部屋を出て行った。
はぁ、と昂宇がため息をつく。
「頭が追いつかない……み、魅音もでしょう?」
「あぁ、うん」
魅音は適当な返事をしつつ、俊輝に渡された手紙を開いて読んでいる。
「はぁ。へぇ。ふーん。……あのさ、昂宇。これからのことなんだけど」
「は、はい」
たちまち緊張して、昂宇は背筋を伸ばすと、片手で何かを止める仕草をした。
「言わないで下さい、わかってますわかってます。やっぱり嫌ですよね、巫の妻なんて。気持ち悪いですよね」
「え? 何で? いやそんなことよりさ」
彼の言葉を軽くいなし、魅音は真顔で言う。
「私、しばらく天昌で暮らすわ」
「……えっ?」
「私ね、翠蘭お嬢さんに手紙を出したのよ。昂宇のことを助けたいから帰るのが遅れる、お嬢さん付きの下女をクビになっても仕方ないと思ってる、必要なら新しい下女を雇って下さい、って。そしたら、見てよこれ」
魅音はバサッと、手紙を昂宇に見えるように持ちかえた。
「お嬢さんからの返事っ。『結婚相手が数年間、仕事で天昌に赴任することになったから私もついていく。天昌で会いましょう』だって!」
「陶翠蘭が、夫とともに天昌に? そんな偶然……あっ!」
昂宇は思わず声を上げた。
「また俊輝だ!」
俊輝は、昂宇を皇帝にするのを諦めていない。だからまずは青鸞王に封じた、と、さっき本人が言ったばかりである。
さらに、陶翠蘭の夫の仕事に手を回し、翠蘭が天昌に来るように仕向けた。そうすれば、魅音も天昌に留まることになり、昂宇も天昌を去り難くなると考えたのだ。
どさっ、と椅子の背もたれに身体を預け、昂宇は天を仰ぐ。
「やられた……」
「わっ、昂宇、大丈夫?」
驚いた魅音がひざまずき、昂宇の膝に狐のように両手をかけて、顔を覗き込む。
「まだ本調子じゃないんだから、無理しないで」
昂宇は力の抜けた笑い声をあげた。
「はは、大丈夫です。もう開き直りました」
(そう、魅音がいるなら)
昂宇は身体を起こす。
「魅音」
「ん?」
「僕ももうしばらく天昌に残って、今後のことを考えてみます。で、こうしましょう」
彼は魅音の顔の前で、指を一本立てた。
「前にも言いましたが、あなたに優秀な老師を手配します」
「老師?」
「下女ではなくて青鸞王妃になったんだから、こそこそしないで好きなだけ学んだらいい。陶翠蘭も、学ぶのが好きなんですよね? しばらく故郷を離れるわけだし、こちらで魅音と同じ老師について一緒に学べるように計らいましょう。どうですか?」
「……わぁ」
たちまち、魅音の大きな吊り目が、キラキラと玉のように輝いた。
「それ、すごく素敵! いいね、青鸞王妃! やったー!」
彼女は跳ねるように立ち上がり、大喜びでくるくる回り出した。
「うん、まあ、僕と結婚した事実よりも喜んでくれて嬉しいですよ……」
少々複雑な気持ちになってしまう昂宇である。
しかしそれでも、そんな魅音が可愛くて、しかもその彼女が妃であることに幸せを感じないわけにはいかないのだった。




