25 燕貞のたくらみ
女神は瑠璃瓦の上に立っており、魅音が来たのを確認してから、すらりと手を伸ばして団扇で遠くを指した。
「あそこだ、見てみよ」
『ええと……あっ!』
再び、ドーン、という地響きとともに、遠くの方で砂煙が立った。そして煙の中から、長い爪をした大きな手がニュッと出てくる。
近くの宮の屋根をガッと掴み、ぬうっ、と屋根の上に現れたのは――
――あの巨大な、人間の顔だった。
『うっひゃあっ、キモっ!』
思わず声を上げて、魅音はピュッと西王母の背後に隠れた。
恐る恐る顔を出し、観察する。
珊瑚宮のあたりで靄越しに見た時よりも、その姿がはっきりと見えた。中年の男の顔をした頭、二本のぐるりと巻いた角。猪のような身体から四本の足が生え、しかし前足には指が五本あって人間の手に似ている。
そして、やはり口から鎖が垂れていた。どうやら、鎖の輪の一つが牙にはまって取れなくなっているようだ。
「先ほど話したであろう、陰界で無体をはたらく下級神を追っていると。あれのことだ。時々現れては暴れ、金品を食う。饕餮に似ているな」
西王母が言う。
饕餮というのは伝説の怪物で、様々なものを食らうとされていた。
「あれは饕餮とは違い、私や、この玉秋でも倒せる程度の下級神なのだが、倒そうとすると陽界に逃げる小賢しいやつでな。それに、あれは陽界で生まれたようだから、陽界の者に責任をもって片づけさせたいと思っていた。魅音と昂宇が協力し、あの『饕餮もどき』を倒すなりおとなしくさせるなりできたら、昂宇を陽界に帰してやろう」
『わかりました、やります!』
魅音は即答する。
「玉秋、それでよかろう?」
西王母が振り向くと、いつの間にか背後に九尾狐が立っていた。
『でも大姐、せっかくオトコ連れてきたのにっ!』
「私が悩まされているのを、お前も知っているはず。オトコはいつでもよい。私の矜持が傷ついたとお前が思っているのなら、その償いをこの二人にしてもらおう、と言っているのだ」
そして西王母はわざとらしく、片手を頬に当てて大きなため息をついた。
「あぁ、困った困った。まさか私の後宮にまで侵入するとは、面倒なことだ。早くこの件が片づかないものか」
『んんんんんっ』
九尾狐はうなり声を上げていたが、やがて叫んだ。
『ええい、開け!』
バン! と音を立てて、牡丹宮の全ての戸と窓が開いた。
すぐに、昂宇が飛び出してくる。
「魅音!」
『昂宇!』
魅音は屋根から飛び降りると、昂宇に駆け寄った。
『やっと出られたね、よかっ、わっ⁉』
いきなり、昂宇は無言で膝をつくと両手を広げ、狐姿の魅音をギュッと抱きしめた。もふっ、と首の毛に顔を埋める。
『あれ? ええと、昂宇?』
「…………」
『何よ、前に抱っこして癖になっちゃった? 人間がフワフワするものが好きって本当だね。おーい』
魅音がジタバタしていると、ズドーン、と間近の廊下に石灯籠がめり込んだ。
『イチャイチャするんじゃなーい!』
キレた九尾狐が投げたのである。
「あっハイッ」
まるで降参を示すような格好で、昂宇がパッと両手を上げた。解放された魅音は『ブハァ』とため息をつく。
九尾狐はわめき散らした。
『さっさとしな! 大姐のために、あの饕餮もどきを何とかするんだよっ!』
「はいっ。ごめん魅音、やろう」
『あ、うん。そうだ、あのね昂宇』
魅音は注意を引くように、昂宇の膝に片方の前足をかけ、早口で説明する。
『あの下級神、宏峰の土地神だと思う』
昂宇は目を見開く。
「あれが、海建⁉」
『そうそう。あ、昂宇は詳しいことはまだ知らないよね』
魅音は、海建が追放されて当然のことをしていた件、そして息子の燕貞が冤罪であるかのように言いつくろっていた件を話す。
『それでね。燕貞はたぶん宮廷に取り立てられたくて嘘をついてるんだろう、土地神が暴れてるっていう話も見せかけだろうって思って、私も翼飛様も無視してたの』
「でも、本当に現れたんですね。宏峰に」
『うん。陰界と陽界を行き来できるほど強くて、太常寺の方術士も太刀打ちできなくて。危険だから、次に現れたら全力で倒すって翼飛様が言ってた』
「…………」
昂宇は拳を口元に当て、数秒の間考えていたが、すぐに顔を上げた。
「なるほど、わかってきました。宮廷に取り立てられたいだけなら、調査に来た僕を騙せば事足りるのに、燕貞は手練手管を使って領民全員を騙していた。それがなぜなのか、ずっと不思議でしたが……」
彼は、きっ、と砂煙の方に視線をやる。
「領民たちの『信仰の力』が必要だったんだ」
「『信仰の力』?」
「民が信じれば信じるほど、神の力は強くなります。燕貞の狙いは、海建を強くすることだったんだ」
『はぁー! それであんなにすくすく育っちゃって……ん?』
ふと、魅音の脳裏に嫌な記憶が蘇った。
『こ、昂宇?』
「なんです?」
昂宇にじっと見つめられて、魅音の耳が垂れる。
『あのー、そういえばね? 翼飛様が言ってたんだけど……燕貞が、領民を集めて大規模な祈祷をやろうとしてたって……その準備に忙しそうだって』
「っ、まずい!」
昂宇が焦った声を上げる。
「そんなことしたら、ますますアレが強くなります。燕貞が操れるとしたら大変なことになる。止めないと!」
『だよね、でもでも、間に合うかな? これから陽界に戻って、私の足でも宏峰まで二日かかる』
その魅音の言葉に、笑いを含んだ声が答えた。
「魅音、一つ助言をやろう。お前、本来は狐仙であろ」
西王母だ。今の会話を聞いていたらしい。
「ここは、鏡写しの後宮。陽界の後宮にあるものなら、何でもあるのだ。狐仙堂もな」
『ああっ!』
俊輝が後宮内に狐仙堂を作った、という話は笙鈴から聞いていた。陰界の後宮はその後に鏡写しにされたので、当然、こちらにも狐仙堂があるはずだ。
『そうだ、それに宏峰にも狐仙堂がある! 壊れたのを、昂宇が直してくれたんだったよね。霊力で作られたこちらの狐仙堂からなら、繋いで直接行けるかも!』
「よし。魅音。僕がこちらで、あれを攻撃します」
自分の膝に乗っていた魅音の前足に、昂宇は優しく手を重ねた。
「陰界では霊力が強すぎて、おそらく倒せない。陽界側に追い出します。領民たちの信心の力を断って力を削いでしまえば、翼飛様と協力して倒せるはず。できますか?」
『やるしかないでしょー!』
魅音は狐アタマでこくんとうなずいた。
『行ってくる。昂宇、終わったら、ちゃんと身体に戻ってきてよね!』
「はい、必ず。……ふふ、この手」
昂宇は視線を落とし、毛でふんわりした魅音の前足を、軽く握る。
「白くて丸っこくて、何だか茹で卵みたいですね」
『やめてえええ! もはや幻覚見そうなのよっ』
ぴょんと大きく跳んで彼から離れると、魅音は笙鈴の側に降り立った。
『笙鈴、あなたと私と小丸、まだ糸で繋いであるよね?』
「はい!」
『じゃあ一緒に来て!』
魅音は小丸を頭に乗せ、笙鈴を引き連れて、牡丹宮の二門に向かって走り出した。門は、大きく開いている。
そのすぐ外に、グルグルと靄が渦巻いたかと思うと、小さな堂が現れた。狐の像が祀られている。
(あれが、陰界の狐仙堂! 探すまでもなく、西王母様が繋いでくれたんだ!)
そう悟った魅音は、
『西王母様、ありがとうございます!』
と一声、門から飛び出して狐仙堂に突っ込んだ。
二人と一匹の姿は、一瞬で消える。
「……さて、僕もやることをやらなくては」
昂宇はいったん腰帯を解き、袖の大きな上衣を脱ぎ棄てると、軽装に整えた。そして、西王母を振り向く。
「西王母様。少々、お騒がせします」
「好きにおし」
西王母は、楽し気に笑う。
「そなたには、陽界に帰るべきもう一つの『理』があるようだからね。私はもう手は出さず、見守るだけにしよう」
「もう一つ、ですか? それは一体……?」
寿命を全うするために身体に帰るという『理』以外にも何かあるのかと、昂宇は不思議に思ったが、西王母は微笑むばかりで答えない。
『フンッ』
九尾狐はそんな女神にまとわりつきながら、鼻を鳴らした。




