22 最後の宮
窓の外側に降り立つと、そこは建物の中ではなく、屋外だった。
壁に挟まれた細長い空間だが、空が見えている。どうやら大門と二門を繋ぐ前院のようで、魅音たちは壁に作られた飾り窓から出てきたらしい。
振り向くと、【美朱】の寝台だったはずの空間にはあっという間に靄が満ち、珊瑚宮は見えなくなっていた。
「さっきはありがとうね、笙鈴。助かった」
「いいえ。でも……ここはどこなのでしょう?」
小丸を肩に乗せた笙鈴は、あたりを見回す。
「もう、お妃様の宮は三つとも通りましたし……」
「わからないけど、牡丹宮だといいなと思ってる」
魅音も見回した。
笙鈴が聞く。
「牡丹宮……皇后様のための宮ですね。なぜですか?」
「おそらくそこに、昂宇がいるからだよ。昨日ここに来た時、陰界の美朱が、鏡で昂宇の姿を見せてくれたでしょ?」
その時のことを思い出しながら、魅音は説明する。
「あの時に私、昂宇の周り、つまり彼のいる場所の様子を観察してたの。どこにいるのか知りたくて」
「……! そうだわ、魅音様、すごく鏡を凝視してらっしゃって」
驚いた笙鈴が、両手で口を覆う。
「私、まるで皇帝陛下みたいな格好の昂宇さんに目を引かれてしまって、全然気が回りませんでした!」
「んふふ。それで昨日、陽界の青霞に会いに行って説明してみたのよ」
魅音は、昂宇のいた場所のことを事細かに、青霞に報告した。
格子に組まれた天井は、その一つ一つに極彩色で様々な絵画が描かれ、美しく装飾された灯籠がいくつも下がり、また香炉や壺が飾られていた。
様々な縁起物が装飾のテーマになっていたが、鳳凰の絵柄が多かった気がする、大きな玉座のようなが椅子があったけれど背もたれの彫刻も鳳凰だった……というところまで話すと、青霞はきっぱりと言い切った。
『牡丹宮ね』
鳳凰は、皇帝を表す龍と対で描かれることが多く、皇后を象徴する絵柄でもあるのだ。
また、青霞はかつて、先帝の妃・高文晶の侍女だった。文晶に付き添って、先帝の皇后・愛寧皇后に会うために牡丹宮に入ったこともある。それで、魅音の説明に当てはまるのが牡丹宮だとわかったのである。
『牡丹宮は広いわよ。ずっと昔に改築されて、元々二つだった宮を繋いだ作りになっているの。ぐるりと廊下を巡らせてね』
青霞は説明してくれた。
『でもその、鳳凰の彫刻の椅子があるのは、奥宮の方よ』
「奥宮。では、そこまで行かないとですね」
「うん」
二人はうなずき合い、二門と思われる門に近づいた。
戸を押し開けると、広い内院に出る。
突き当りに建物があったが、その片方の脇を廊下が突き抜けて、向こう側にもちらりと内院が見えている。奥にも建物があった。
(内院が二つ……二つの宮を繋いだと言っていたけれど、建物が『日』みたいな形に配置されているのかな)
手前の内院の中央には池があり、赤い欄干の橋が渡され、その中央に四阿がしつらえられている。
見ると、そこに人影があった。
小柄な老婆が立っているのだ。橋をゆっくりと降りてきながら、魅音たちに話しかけてくる。
「おや、こんにちは」
「こんにちは、おばあさん」
魅音はごく普通に挨拶を返しつつ、じっくり観察した。
(この人も、写しとられた宮女の幻影かな?)
「あの、こちらに西王母様はいらっしゃいますか?」
聞いてみると、立ち止まった老婆はのんびりと答える。
「今、ちょっと外に出ておいでです。もうすぐお帰りになると思いますよ」
魅音と笙鈴は、ちらりと視線を交わす。
(ここでよさそうね)
(はい)
「お二人は、どちら様で?」
老婆は、二人の顔を交互に見た。魅音は名乗る。
「青鸞王の妃、魅音です」
老婆が知っているかはわからないが、神仙である西王母にそのように取り次いでもらえれば、通じるはずである。
すると、老婆はわかったのかわからないのか、とにかく何度もうなずいた。
「お妃様なのですね。どうぞ、あちらの四阿でご休憩下さいまし。今、お茶をお持ちしますからねぇ。あ、そちらの、侍女の方の分もねぇ」
笙鈴は、よけいな口を挟まないようにと思ったのか、黙って礼をする。
老婆はえっちらおっちらと内院の奥へ行き、建物を回り込んで姿を消した。
魅音と笙鈴は橋を上り、二重の屋根が立派な四阿に入った。ながいすに腰かける。
見上げると、屋根やそれを支える部分が複雑に入り組んでいて、凝った作りだ。陽界の牡丹宮にもある建物なのだろう。
「魅音様。西王母様が『お帰りになる』ってことは、ここにお住まいってことなんでしょうか」
小声で、笙鈴が尋ねた。
魅音も声を潜める。
「元々のお住まいはあるんだろうけど、ここも使っていてもおかしくないかな。わざわざ鏡写しで後宮を作ったわけだから、最高位の皇后の宮にお住みになりそうとは思ってた」
「そうですね。すんなりお会いできるといいんですが……昂宇さんにも」
「奥に探りに行きたいけど、失礼を働いて怒らせたら元も子もないわ。まずは待とう」
そんな話をしているうちに、老婆が戻ってくるのが見えた。茶托盆に茶杯を二つ載せ、えっちらおっちらと橋を上ってくる。
「笙鈴」
魅音はささやいた。
「飲んじゃダメだよ」
「はい」
笙鈴は小さくうなずく。
その世界のものを口にするのは、その世界の住人になってしまうのと同義だ。
泰山娘娘が『お茶やお菓子を出されてもガッつかないで遠慮するんですよ!』と言ったのは、実はそういう意味を含んでいたのである。
老婆が、茶托盆ごと卓子に置いて、茶を勧めた。
「さあさ、どうぞ」
「ありがとう」
魅音は茶杯を取り上げた。両手で包むように持って、温かさを楽しむ体をとり、老婆に話しかける。
「おばあさんは、西王母様の侍女かしら」
「いいえ、ただの下働きでございますよ」
老婆は立ったまま、ニコニコしている。
「そうですか。美しくて、広い宮ですね。西王母様は、こんなに広いところに一人でお住まいなの?」
「お住まいというか、お休みになる場所のひとつ、と申しますかねぇ。客人がお泊りになることもありますから、お寂しいとかそういったことはないのではと」
「あら、じゃあもしかして私たち以外にも、どなたかいらしてる……とか?」
話を少しずつ、昂宇に近づけていく。
すると、老婆は両袖で口元を隠し、くすくすと笑い出した。
「なるほど、なるほど」
「え、なんです?」
魅音が首を傾げると、老婆はスッと、手を下ろした。
唇が綺麗な弧を描き、口調がはっきりとする。
「お前たちの目的は、難昂宇か」
はっ、と、魅音と笙鈴は腰を浮かせた。
老婆の曲がった腰が、すうっ、と伸びた。
白かった髪は銀色に艶めき、頭を取り巻く黄金の簪が輝きを添える。
両手がたおやかに広がると、地味な襦裙は花弁が開くように、隠していた色を露わにする。白、紫、橙。瑞雲にも似た虹色の被巾が、ひらりと舞う。
そこに立っていたのは、冥界を統べる女神、西王母だった。
魅音と笙鈴はサッと四阿から出ると、西王母の前で両膝をつき、両手を重ねて頭を下げた。
「西王母様とは知らず、失礼をいたしました」
「私が化けていたのだから、構わん。許す。立つがいい」
魅音たちが顔を上げると、西王母は目を細めた。
「私の作った後宮に、陽界から誰かがやってきたことには気づいていた。青鸞王の妃、魅音と申したな。ならば、ここに来る資格もあろう」
(よかった。どうやら、青鸞王妃としての私は認められたみたいね)
立ち上がりながらホッとした魅音に、西王母は露台に置いた茶杯を示す。
「茶を飲まなかったな。よい判断だ、それは孟婆湯であるゆえ」
(……っぶなー!)
ホッとしたのもつかの間、魅音の額にブワッと冷や汗が吹き出た。
この世界では、人間は死んだ後、一部が仙人になる他は次の世へ生まれ変わる。
その際に、冥界で孟婆という老女の神が出す孟婆湯、別名を迷魂湯ともいう茶を飲まなくてはならないのだが、これは前世の記憶を消す茶なのだ。
(めちゃくちゃ試されてるー! 危うく、何でここに来たのか強制的に忘れさせられるとこだった!)
笙鈴は何のことかわからない様子だったが、後で説明することにする。
簪から下がる玉を揺らしながら、西王母は魅音に視線を流した。
「難昂宇を探しに来たのか?」
「は、はいっ」
神の前で取り繕うのは意味がない。気を取り直した魅音は、正直に説明した。
「昂宇は、陽界の照帝国になくてはならない存在なのです。どうか、返してはいただけないでしょうか?」
すると、西王母はさっきまで魅音たちが座っていたながいすに腰かけながら、答えた。
「返すも何も……昂宇のやつ、まだ陽界に帰っていなかったのか」




