21 針と糸
その時、グゥ、という奇妙な音がした。
魅音が腹を押さえ、えへへ、と笑う。
「お腹が空きました」
くすっ、と美朱は笑う。
「陰界で動き回って、頭も使って、さすがに疲れたのでしょう。少し待ちなさい、今、あなたと笙鈴の食事を用意させているから」
「ありがとうございます! でも、あの、卵料理は」
今度こそ先に言おうとした魅音の言葉に、美朱は得意げに被せて来た。
「もちろん、あるわ。鳩の卵って、食べたことはあるかしら? 茹でると白身の部分が透明になって、黄身が透けて見えてとても綺麗なのよ。野菜と一緒に餡かけにすると、見た目もいい上にトロリとして美味し」
「うあああ、見たいし美味しそうですけど今はダメなんですううう」
半泣きの魅音に、もはや慣れたもので、笙鈴が駆け寄って涙をふく手絹を差し出した。そして、美朱に向き直る。
「美朱様、魅音様は昂宇さんが無事に戻ってくるように、卵絶ちをして願掛けをしておいでなのです」
と説明する。
「あら」
美朱は軽く目を見張ってから、団扇を口元に寄せてささやいた。
「魅音、それこそ、『愛』ね」
「ふえぇ? 制限をかけて、祈りの力を高めたいだけですよっ。だから食べないんです! 卵はまだ食べないんだから! わあああっ」
両手を振り回して料理の想像を振り払う魅音に、美朱はクスクス笑いながら、食事内容を変更するよう侍女に言いつける。
「あ、そうだわ。二人とも、食事だけじゃなくて今日はここに泊って行ったらどうかしら」
美朱の言葉に、魅音が笙鈴を振り向くと、笙鈴は丁寧に辞退した。
「申し訳ございません、私、医局を放っているのが心配なので今夜は戻ろうかと……。お食事だけで十分光栄です、ありがとうございます」
「そうだ、私も用事があるんです」
魅音は美朱に向き直る。
「食事が済んだら、こっちの青霞に会いに行ってきます。もう一回、聞きたいことができたので」
青霞に会い、色々と準備も済ませた魅音たちは、医局で一晩を過ごした。
翌日、改めて陰界に戻る。
どういう仕組みなのか、泰山堂から入ると直接、珊瑚宮の廊下に繋がっていた。
(不思議な場所よね……ここだけの規則で作られている。『天雪や青霞の宮を通れた者は、美朱の宮に立ち入っていい』と決まっているんだろうな)
思いながら居間に入ると、椅子に腰かけた【美朱】が振り向いた。どうやら、刺繍の続きをしていたようだ。
彼女は魅音に微笑みかける。
「あら。あなた、また来たのね」
その微笑みの妖艶さに、魅音は少々ひるみつつも、微笑み返した。
「あっハイ。そのー、やっぱり、ここを通していただこうと思いまして」
上目づかいで頼むと、【美朱】はスッと立ち上がる。
「もちろん、いいわ。……では、私と一緒に寝室に行きましょうね」
妃の寝台、という特別な場所を入口にしておけば、陽界なら俊輝、陰界なら西王母だけに通る権利がある。そういう理屈のもとに作られた入り口なのだ。もしもそれ以外の人物が通ろうとすれば、術で縫い止められてしまうのだろう。
一度術にかかった魅音は、それを理解していた。
「そこしか道はないんですね? ちょっと待って下さいねー、考えるので」
魅音は目を閉じ、腕を組んだ。
『小丸、どう?』
視界が、小丸と同調した。美朱と話している間に、小丸がちょろちょろと走っていって、寝室に侵入しているのだ。
寝台には短い脚がついているのだが、それを隠すように、花の模様が掘りぬかれた板で囲われている。小丸がその花を通り抜けて潜り込むと、陽界の美朱が言っていた通り、底板に霊符が貼ってあるのが見えた。
『小丸、はがしちゃって』
魅音が念じると、小丸は後ろ足で立って、霊符の角を前足でひっかいた。めくれてくると口にくわえ、カジカジとかじり始める。
やがて、霊符は引っ張られてペリッとはがれ落ちた。
小丸は口にくわえたまま、再び花の形の穴から出る。身体に対して霊符は少々大きく、一緒に通り抜けようとして詰まりかけたり、ガサガサ音を立てたりするのでヒヤリとしたが、【美朱】が気づく様子はない。
やや手こずって転んだりもしたが、体勢を立て直した小丸は短い足でちょこまかと走り、無事に居間に戻ってきた。
「えーっと美朱様、こっち! こっちの廊下の奥からは、次の宮に行けないんですか?」
やや大きな動きで魅音が指さして、美朱の気を引いている間に、笙鈴がさりげなく小丸を拾い上げて袖で隠す。
「行けないわ。次の宮への入口は、私の寝台だけ」
【美朱】の笑みは、ずっと変わらない。
「特別な人しか通さないのだから、特別な場所でないと。さ、いらっしゃい」
たおやかに手を差し伸べられて、魅音は恐る恐る、その手に自分の手を載せた。
(何だか背徳的……)
そんなことを思いつつ、ちらりと笙鈴に目配せしてから、【美朱】を見つめる。
「もう一度、連れて行って下さい。そのぅ、寝台に」
「ええ」
【美朱】は、魅音を寝室に引き込んだ。
寝台の紗をさらりと開け、魅音を先に入れる。
今度は落ち着いてよく見ると、奥の紗の向こう側にうっすらと、丸窓が透けて見えていた。格子になっているそこを開ければ、次の場所に繋がっているのだろう。
息遣いを感じて、魅音が振り向くと、【美朱】が彼女のすぐ隣に座っていた。
手には、銀色の針がある。
「さ……横におなりなさい」
彼女は言って、それを寝台に突き刺した。
しかし、魅音はケロッとしている。
「……あら?」
【美朱】は不思議そうに、もう一度針を振り上げて、寝台に刺した。その間に、魅音は膝でぐいぐいと寝台の上を移動し、奥の紗を開ける。
「ここですね、そりゃっ!」
格子に手をかけた魅音は、スパァンと勢いよく両側に引き開けた。
「えっ、嘘、待って、どうして?」
術が発動しないので、【美朱】は混乱している。
「ごめんなさい美朱様。術、破らせていただきましたっ」
「ダメ、ダメよ、そんなこと……! だって、仰せつかっているんだもの。通してはいけないって。だから!」
激しく動揺した【美朱】が、いきなり針を振り上げた。
魅音の顔に向かって、振り下ろす。
「あっ……」
俊輝のためにいつも一生懸命で、ツンツンしつつも実は愛情深い、美朱。
そんな彼女の攻撃に、魅音はとっさに反撃することができなかった。
瞬間、空中を、キラッと光るものが横切った。
ピッ、と【美朱】の手から針が跳ね飛び、弧を描いて落ちる。
落ちた先は、笙鈴の手のひらだった。彼女がもう片方の手でたぐるような仕草をすると、光る糸の先に針がぶら下がる。
霊力の糸を投げて【美朱】の針の穴に通し、針を奪ったのだ。
「す、すみません、いきなり……! でも、あのっ、私の妹は、刺繍がとても得意で」
笙鈴は動揺しながらも、おずおずと【美朱】に近づく。
「この針は、誰かを傷つけたり、縛り付ける方術を行ったりするのではなく……大切な方のための刺繍に、使って下さい」
【美朱】は呆然と目を見開いたまま、差し出された針を見つめる。
やがて、視線を落とすと、そっと針を受け取った。
「……ごめんなさい。傷つけようと、思ったわけでは……」
あくまで彼女が命じられていたのは、足止めだけだったようだ。
「もう、止められないわね。あぁ、西王母様に叱られてしまうわ。お詫びの香包を、作らなくちゃ……」
諦めたように、【美朱】は肩を落とす。
魅音は笙鈴に手を貸して寝台に上げ、丸窓の先に通した。そして、自分も丸窓の縁に腰かけ、振り向く。
「美朱様の、西王母様のためにという気持ち、きっと伝わっています」
(そして陽界の美朱様の気持ちも、きっと陛下に伝わる)
確信しながら、魅音は言った。
「私も、私が助けたい人のために、先へ進みますね。決して、西王母様を害したりはしませんから」
【美朱】は何も答えなかったけれど、ただ静かに、二人と一匹を見送った。
4章完
次回更新は1月4日です




