19 昂宇の声を聞きたい
「あのー、美朱様?」
背後から話しかける。
「何かしら?」
「美朱様は、西王母様とお会いしたことがあるんですね。私も、お会いしたくて来たんです。どうか取り次いでいただけませんか?」
歩きながら、やはり一度は正攻法で頼んでみる。
しかし【美朱】は前を向いたまま、
「珊瑚宮でもてなすように言われているの」
と、にべもない。
「ですよねー」
どう攻めるか考えているうちに、【美朱】は回廊に上がり、母屋の居間に入った。
魅音は珊瑚宮に入ったことがあるので、続きの寝室があることを知っているが、そちらの戸は閉じられている。
卓子の上には、美しい絹の布地が置かれていて、どうやら美朱は刺繍をしていたようだ。あまり大きくない布地なので、香包か何かにするのかもしれない。
【美朱】は腰かけると、魅音にも身振りで椅子を勧めながら尋ねてきた。
「あなた、どうして西王母様にお会いしたいの?」
「私の友人、昂宇の魂を、連れていってしまわれたんです。彼は生きているのに」
隠してもしょうがないので、魅音は説明する。
「陽界の照帝国にとって、とても大切な人なんです。何とかして、返していただけないかと思っています」
「それは、その昂宇とやらも、望んでいるの?」
【美朱】は首を傾げた。
そして立ち上がると、飾り棚に近寄った。何か、布がかかったものが置かれている。その布を取り去ると、持ち手のついた鏡が鏡立てに載っていた。
美朱は鏡を手にとり、戻ってくると、魅音に差し出す。
「昂宇って、この人かしら」
「あっ!」
鏡を見た魅音は、目を見張った。
そこには、昂宇が映っていたのだ。
彼はまるで皇帝のような身なりをし、絹張りの美しい椅子に座って、何か考え込んでいる。目の前の卓子には山海の珍味を盛った皿や酒瓶が並び、とても豪華だ。
【美朱】も横から鏡を眺める。
「やっぱり、この人が昂宇なのね?」
「は、はい」
「こちらで西王母様に大事にされて、何不自由なく幸せに暮らしているように見えるわ」
「…………」
魅音は、心の中でつぶやく。
(もしかしたら、その可能性もあるのかもしれない)
昂宇が帰りたがらない、という可能性だ。
宏峰で、魂の抜けた昂宇の身体と対面した、その日の夜。
魅音は『王』家の屋敷の内院に出て、月を眺めていた。そこに、声がかかった。
『眠れないのか』
翼飛だった。
さすがに昼間のような鎧は身に着けておらず、寛いだ服装をしている。
『ここまでの旅で、疲れてるんじゃないのか』
『そうなんですけど……何だか目が冴えちゃって。これでも一応、身体は休めてます。明日から動けるように』
『なら、いい。……どうだ、一杯。緊張が解けて、眠れるかもしれないぞ』
彼は、紐でぶら下げていた酒壺を持ち上げて見せた。
魅音が酒杯を二つ見つけて持ってくると、翼飛が注いでくれ、二人で外廊下に腰かけてちびちびと飲み始める。
『あんたみたいな人が昂宇のそばにいて、よかったよ』
翼飛はそんなことを言った。魅音は首を振る。
『そばにいたわけじゃないです。何かあったら、駆けつけるくらいはしますけど』
『うん、それで十分だ。昂宇は子どもの頃に一人で宗族から離れちまったから、親しい存在がいなくてな』
この時に、魅音は初めて翼飛から、昂宇の子ども時代の話を聞いたのだ。
普通の人間とは見えるものが違ったために孤立し、まるでなるべくして……という形で巫になったといういきさつを。
その後、修行の一貫で皇城にやって来はしたものの、面倒ごとにならないためには俊輝の身内だと知られない方がいい。そこで昂宇は、太常寺でも周囲と距離を置いていて友人もできなかったし、女性関係はもってのほかだった。
『あいつは俊輝のためにあれこれ動いてくれたが、いよいよ修業が終わって皇城を離れることになっていた。そうなると、なんつーか……』
翼飛は言葉を選んでから、続ける。
『こっちに昂宇を引き留めるものが、もはやないような気がしていてな』
『こっち、というのは、陽界に?』
『そう。だから少し、心配なんだ。あいつ自身が、ちゃんと戻ろうとするかどうか』
「…………」
魅音は食い入るように、鏡を見つめた。
そして顔を上げ、【美朱】を振り向く。
「幸せならもちろん、いいんです。昂宇がこちらに残りたいって言うなら構わない。でも、それを確かめないと」
そして、魅音は立ち上がった。
「彼は人間です。神々に好きなようにされたら抗えません。私みたいな狐仙が、神と人の間に立って取り持ってもいいと思いませんか?」
黙っている【美朱】に、魅音はさらに言う。
「人間は、狐仙堂に望みを願うもの。そして、神や死者の声を聞く巫だって、人間なんです。願いはあります。……私は、人が願う声を聞く狐仙。彼の声を聞きたいんです」
すると、【美朱】は小さくため息をついた。
「会わないままでは、納得しないようね」
「彼はどこにいるんですか? この宮の中に、道があるんでしょう?」
卓子に手を突き、身を乗り出して魅音が尋ねると、【美朱】はうなずいた。
「あるわ。通してあげてもいい」
「本当ですか⁉」
「ええ」
【美朱】は立ち上がりながら言う。
「でも、あなただけです。侍女はここで待たせなさい」
魅音はちらりと、笙鈴を振り返った。笙鈴は心配そうに、魅音を見つめ返す。
(本当に、通してくれるつもりかな。……今のところ、俊輝陛下の後宮にいる妃は、美朱で最後。通せんぼして来るとしたら、彼女で終わり? この先に西王母様がいるなら、確かに笙鈴には荷が重すぎるかもしれない)
魅音は笙鈴にうなずきかけた。
「待ってて」
「……はい」
笙鈴はそう答えたものの、左手を右腕に添えたままだ。何かあった時、すぐに動けるようにしているのだろう。
【美朱】は寝室の戸を引き開けて、入っていく。魅音は後に続いた。
中は、魅音が以前に入ったことがある通りの、ごく普通の寝室に見えた。天蓋に覆われた寝台には紗がかかり、互い違いになった飾り棚には美しい花瓶や細工箱が飾られている。
「寝台の中へどうぞ」
【美朱】が言う。
「中? こんなところに道が?」
魅音は寝台に近づき、片手でそっと紗をよけてみた。いわゆる架子床というもので、屋根や壁があり、まるで小さな部屋のような作りをした寝台だ。
しかし一見、それだけのものに見える。
「あの、道って」
振り向いた時、すぐそばに【美朱】の顔があった。
「わっ?」
驚いて身体を引いた拍子に、魅音はストンと、寝台に腰かける格好になった。
【美朱】の右手に、何かキラリと光るものがある。
縫い針だ。
「おやすみなさい」
甘くささやく声と共に、その針が寝台に突き刺された瞬間──
──意識が、スッ、と遠くなった。
(えっ……? なに、が……)
身体の力が抜ける。
魅音はくたりと、寝台に倒れ伏した。




