16 隠し扉
陽が落ちるのがずいぶん早くなったが、辛うじてまだ昼間らしい光があたりを照らす、午後。
魅音と笙鈴、それに小丸は再び、陰界を訪れた。
角杯宮の居間に入ると、前にここに来た時と同様に剥製たちが出迎え、そしてやはり前にここに来たときと同じ口調で、【天雪】が「いらっしゃい!」と出迎える。
ちらり、と目を走らせると、熊の剥製は戸の前にうずくまったままだ。無理に通ろうとすれば、妨害してくるだろう。
「お邪魔するわね」
魅音は【天雪】に挨拶だけして、熊の剥製に向き直った。ゆっくりと近寄る。
熊はすぐに気づいて頭をもたげ、のっそりと立ち上がった。
「あの、魅音? 危ないですよ」
【天雪】のほほんとした警告が、逆に怖い。
(よし、今!)
魅音は『命じた』。
天井の梁から、熊の頭めがけて、何か白いヒラヒラしたものが落ちる。
それは、霊符を咥えた小丸だった。
小丸は見事に、熊の頭の上にポテッと着地する。その瞬間、魅音の背後で笙鈴が、左の人差し指で宙に円を描いた。
きらり、と糸が光り、熊の頭のまわりを巡ったかと思うと、小丸ごと霊符をきゅっと締め付けた。霊符が頭に固定される。
熊はピタリと、動きを止めた。
「あっ」
【天雪】がビクッと身をすくめる。
そして、不意に床にへたり込むと、ポロリと涙をこぼした。
「わ、私の熊さんに、何をしたの……?」
何だか、【天雪】をいじめているような気持ちになる。鏡写しにされただけの彼女に、罪はないのだ。
「うっ、ごめん!」
魅音は急いで手絹を出し、駆け寄ってしゃがみ込むと涙を拭いてやった。
「動きを封じさせてもらったの。でも、一時的なものだよ。やっつけたりはしないから」
目を潤ませた天雪が、声を震わせる。
「本当?」
「本当。だって悪さをしていないんだから、やっつける必要なんてないでしょ?」
「うん……」
しぶしぶといった様子で、【天雪】はうなずく。
その間に笙鈴が熊に近づくと、糸の隙間から小丸だけを救出した。札は残してあるので、熊は動かない。
【天雪】はそれをボーッと眺めてから、上目遣いで魅音を見た。
「あなたも、悪さはしない?」
「しないわ」
魅音は強く言い切った。
「私は西王母様に会いに来ただけ。お話をしたいだけよ」
「……そう……」
天雪は小さくため息をつくと、仕方なさそうに片手で奥を示した。
「じゃあ、どうぞ。通っていいわ」
「ありがとう」
魅音は言って、立ち上がる。
そして、笙鈴にうなずきかけてから──
──熊の剥製を乗り越えて、奥の戸を開いた。
通り抜けた先はいきなり、別の宮の廊下だった。
天井に描かれているのは、菱形をずらして重ねた図案。方勝である。
(また靄の中を歩くのかと思ったら、直接、方勝宮に出たわね)
魅音はそう思いながら振り向き、笙鈴の前で軽く屈み込む。
「小丸―、よく頑張ったね! 助かった、ありがとう!」
笙鈴の手のひらで、へちゃあ、と小丸はへたり込んでいる。本当なら熊に近づくなど恐ろしく出できないだろうが、眷属としてのネズミは狐仙の意志に逆らえないのだ。
「ご褒美だよ!」
懐から袋を取り出し、好物の松の実をつまみ出して小丸に差し出した。彼はつぶらな瞳をキラリと光らせ、喜んで両前足で持って齧り始める。
その時、聞き覚えのある声がした。
「誰かいるの? 西王母様?」
魅音と笙鈴は視線を合わせ、うなずきを交わし、廊下に面した部屋まで進んだ。
中を覗くと、一人の女性が椅子から立ち上がる。
【青霞】だ。もちろん陽界の青霞そのままの姿をしていて、卓子に何かの記録をたくさん広げているところまでそっくりである。
彼女は魅音を、驚きの表情を浮かべて見つめた。
「西王母様、じゃ、ない? あなた、誰?」
「ええと、青鸞王妃の魅音です」
まだ名乗り慣れない。そして、やはり【青霞】はその称号を知らないようで、「青鸞王妃……?」と困惑している。
「と、とにかく、魅音……ね。私は江青霞。一体、何をしにここへ?」
「西王母様に、お話ししたいことがあって来たの。通して下さる?」
ダメ元で言ってみたが、【青霞】はぶんぶんと首を横に振った。
「えっ、通せないわよっ、西王母様以外は駄目。天雪は? ここに来る前に、天雪がいたでしょ⁉ あ、あなた、何かしたの⁉」
「【天雪】は無事だよ。話し合ったり色々したけど、円満に通してもらった」
「…………」
【青霞】は目を眇めて魅音を見つめていたけれど、やがて座り直した。
「無事ならいいけれど。でも、ここから先は行けないわよ」
「どうして?」
尋ねると、【青霞】はさらりと答える。
「行き止まりだもの。お生憎様」
見回してみると、この居間には四方の壁に両開きの大きな戸があったようだ。しかし、今は全て取り外されている。
魅音たちは廊下に立っており、背後は普通なら内院のはずだけれど、一面の靄だ。きっと『何もない』のだろう。
残りの三方は、全て別の部屋に接している。戸がないので、中がよく見えた。美術品の飾られた部屋、寝室、そして侍女の控え室だろうか。
そのどこにも、他の戸は見当たらなかった。
角杯宮に戻るか、廊下から身投げするしか、行く先はないように見える。
「青霞、ここって本当に行き止まりなの?」
聞くと、【青霞】が澄まして答える。
「ええ、本当よ」
「怪しいなぁ。後宮の妃たるもの、嘘はダメだよ?」
どの口が、という台詞だが、【青霞】は突っ込むことなくそっぽを向いた。
「疑うなら、確認してみればいいわ」
「そう? それじゃ、遠慮なく!」
いきなり魅音が、美術品の飾られた部屋を選んで踏み込んだので、【青霞】はギョッと目を見開いた。
「えっ?」
壁には風景画の描かれた掛け軸、部屋の中央にいくつか置かれた台には青磁や白磁の壺、そして透かし彫りの衝立や大きな香炉。どれも逸品と呼んでいい品が飾られている。
壁に縦長の鏡が何枚か張ってあるおかげで、部屋が広く見えるし、反射を利用して美術品の背面も見ることができるようになっていた。
その鏡の一枚に、魅音は無造作に手を伸ばした。
「あっ、ちょっ」
【青霞】のあわてた声に構わず、鏡の縁に隠された出っ張りを手前に引く。
カコン、と音がして、鏡が戸のように開いた。
「昔、とある宦官が、方勝宮の妃と密通するために作った隠し扉だそうね」
振り向いた魅音が言うと、【青霞】は顔を赤くして両手を握りしめる。
「くーっ、何で知ってるのよ、もう!」
「狐仙の私には、お見通しなのよ」
少々格好をつけて、魅音は片眼をつむった。




