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14 『熊』の妨害を突破せよ

「どわぁっ⁉」

 とっさに魅音は、笙鈴を庇いながら後ずさった。

 熊は、のし、のしと歩き出す。しかし、魅音を無視して脇を通り過ぎると、部屋の反対側まで行った。

 そして、そこにあった戸口の前にうつ伏せになり、動かなくなる。

「…………ん?」

 ぽかん、とした魅音に、笙鈴がささやく。

「魅音様。あの戸の向こうから、今までより強い霊力を感じます」

「え、じゃあひょっとして……私たち、あそこを通って向こう側に行かなきゃいけない、ってこと?」

 ひそひそやっていると、【天雪】がひょいと椅子から降りた。身軽に熊に駆け寄り、ちょこんと熊の背に腰かけると、にこっ、と微笑む。

「あなた方には、ここを通るのは無理。ね、もうあきらめて? 私とずーっと、ここで遊びましょう?」

 その話し方は、単調というか、揺らぎがない。

 何を言っても、たとえ怒らせようと煽っても、彼女の口調は変わらない……そんな気がした。

「ごめんね天雪、遊んでるわけにはいかないのよ。……えっと、いったん出直すわ! お邪魔しました!」

 魅音はビシッと挨拶をした。

 そして笙鈴を連れ、部屋を出る。廊下を後戻りしながらちらりと振り向いてみたが、【天雪】は後を追ってこなかった。

 二人は廊下の途中で立ち止まり、相談する。

「どうしましょう、魅音様」

「あの戸の向こう側が存在するわけでしょ。外から回ってみよう」

 しかし、廊下の外は相変わらず薄紫の靄でかすんでいて、先が見通せないどころか地面すら見えない。

「行ってみないと、様子がわからないわね。よっ」

 ひょい、と欄干を乗り越えた魅音の足が、空を切った。

「あっ?」

 あるべきところに、地面がない。

 みぞおちのあたりが、ぞわっ、とした。

 身体が靄に包み込まれ、落ちていく──

「魅音様っ!」

 笙鈴がとっさに、右手を引き左手でたぐる動作をした。

 ぽーん、と一本釣りされたかのように、魅音は勢いよく引き上げられた。靄を突き抜け、ドサッと廊下に転がる。

「どわっ! び、び、びっくりしたぁ! ありがとう、笙鈴……!」

 尻もちをついたまま魅音があえぐと、笙鈴も落ち着こうとして胸を押さえる。

「い、糸を結んでおいて、ようございましたっ」

 二人は揃って冷や汗を拭い、気を取り直して確認した。

「魅音様、建物の外には、何もない(・・・・)んですね?」

「そうみたい。この建物だけが存在してるんだ。道は、あの戸の向こうにしか続いてないんだと思う」

「じゃあやっぱり、さっきの熊をどうにかしないといけないんですね」

「うん、そう。……そうね。問題は熊だけか、なるほど」

 ふと、何かに気づいたかのように、魅音は黙り込んだ。

 そして、笙鈴を見る。

「笙鈴、陽界に戻ろう」

 さすがに笙鈴は驚いて「もうですか⁉」と声を上げ、魅音はあわてて言い直した。

「諦めるんじゃないよ⁉ また来る、来るけど、一回! 戻ろう!」

「か、かしこまりました!」

 後戻りすると、廊下の途中にいきなり、戸が立っている。

 二人と一匹が戸を押し開け、あの不思議な感覚を通り抜けると――

 ――そこは再び、薄紫の靄は存在しない、陽界。澄んだ冷たい空気に満ちた、泰山堂だった。


 陽界の角杯宮にいた天雪は、魅音たちが来るという知らせを聞いて、ニコニコと待ちかまえていた。

「いらっしゃい、魅音、笙鈴!」

 鏡写しとはいえ、やはり陰界の【天雪】と陽界の天雪では、表情は同じでも纏っている雰囲気がどことなく違っていた。生命の脈動や重みのようなものを感じ、魅音はホッとする。

「何度もごめんなさい、天雪」

 今朝がた、着替えるためにここを訪れたばかりなのである。

「ううん、大丈夫です。もしかして、もう解決したんですか?」

「ぜーんぜん。入口でつまづいちゃって」

「あ、そうですよね、そんなに簡単にはいかないですよね……。お疲れ様です」

 労わるように言った天雪は、ぽん、と両手を合わせた。

「そうだ魅音、卵のお菓子があるの!」

「あっ」

 止める間もなく、天雪は近くの棚の上から皿を取り、被せてあった蓋を開いた。

 蒸して作られたのであろう、つやつやとした茶色の(ケーキ)が載っていた。

 甘い香りと、ほんのり胡麻油の香りが交じり合い、鼻をくすぐる。すでに切り分けられており、その切り口を見ただけで、口に入れた時のモチモチふわふわとした触感が口の中に広がるような気がする。

「卵と小麦粉、それに蜜と油を混ぜて蒸してあるんですって。南の方の糕の作り方らしいんですけど、とっても美味しいの!」

「はぁあー、卵の香り! すっごくすっごく美味しそうー! でも私は食べるわけにはいかないのー!」

 魅音は精神力を総動員し、糕から視線を引きはがした。

「それ、しまって! 天雪が食べちゃって!」

「えっ、どうしたんですか?」

 皿に蓋をしつつも不思議そうにしていた天雪は、願掛けの話を聞いて納得する。

「なるほど、わかりました。じゃあ、解決したらたくさん食べて!」

「くうう、楽しみにしてる……! あぁ、辛かった試験を思い出すわ……」

 狐仙試験には、狐の大好きなものを我慢する忍耐力試験があったのだった。いわゆる『おあずけ』である。

 天雪は「試験?」と不思議そうにしていたが、魅音は気を取り直して頼んだ。

「そう、それでね天雪。ちょっと協力してほしいんだ」

 天雪は両手を合わせて喜ぶ。

「まあ、私に頼ってくれるなんて嬉しいわ。何でも言って下さい!」

「ありがとう。あのね、この居間には、たくさんの剥製があるでしょ? 笙鈴に調べてもらってもいい?」

 魅音の後ろに控えていた笙鈴が、礼をする。

 天雪は不思議そうにうなずいた。

「ええ、もちろんいいけれど……?」

 笙鈴はもう一度、「では、失礼します」と礼をし、まず熊の剥製に近寄った。そして、何か納得したようにうなずくと、鹿や狼など、他の剥製も検分し始めた。

 その間に、魅音は陰界で起こったことを天雪に説明する。

「熊の剥製が、動き出して邪魔を? わぁ……」

 頬を上気させ、目をキラキラさせる天雪に、魅音は思わず苦笑する。

(見たい、って思ってるなコレ)

「でも、他の剥製は動かなかったのよ」

「まぁ……残念」

「う、うん。それでね、泰山娘娘がおっしゃるには、陰界の後宮は陽界の後宮を鏡写しにして作られたんだって。あちらの天雪まで存在していたのよ」

「わ、私が? ちょっと不気味ですね……」

「幻みたいなものだけれどね。で、もちろん剥製もあったわけ。あっちの剥製の、熊だけが動く場合、こっちの剥製の熊もやっぱり、他の剥製とは違うんじゃないかと思うのよね」

「魅音様」

 笙鈴が呼ぶ。

「やはり、霊力のようなものを感じるのは、この大きな熊の剥製だけです。妖怪化しかかっているのかも」

 天雪が、「ほー」と感心する。

「こちらで妖怪なら、あちらでも妖怪なんですね? 陰界は神仙の世界ですし、妖怪もこちらより強そうですね、何となく」

 自分の宮の居間に熊の妖怪がいる、という話をしているのに、相変わらずのんきな天雪である。しかし、飲み込みは早い。

 魅音はつい笑ってしまいながらうなずいた。

「陰界には霊力が満ちてるから、妖怪も常に力を得ている状態なんでしょうね。……さてと、天雪。ちょっと、ここに太常寺の方術士を呼んでもいい?」

「え? ……あぁ、なるほど!」

 天雪はもう一度、にっこりと両手を合わせる。

「熊さんを封じる霊符を作るんですね!」

「ご名答!」

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